がやがや行きかう獄卒たちの足音に紛れたピロリピロと笛の音響く、ここはこの世の地獄のインペルダウン。牢番長のサルデスはブルゴリたちにあれこれと指示を下しながらあたりを見渡した。先日シリュウ看守長の部屋で起きた流血事件により負傷したが魔女の部屋(マレーボルジェ)にて療養中だったのに、今朝マゼランの命を受けたドミノが様子を伺いに赴いたらいなかった。まさかあの怪我で逃げ出すとは誰も思わず、また、監視カメラもとくにはつけていなかったためのこの騒動。現在インペルダウンは獄卒たちやら看守たちやらのてんやわんやでたった一人の少女を探していると、そういう事態である。まぁ別に、悪意の魔女が本気で逃亡を図ったとはマゼラン以下の番人たち、思ってはいない。己の弱ったところを人に見られることをは極端に嫌っている。だからマゼランも監視カメラを設置せずにいたのだが、それでも、どこか一箇所に故意に閉じ込められているという状況は気に入らなかったらしい。
サルデスは溜息を吐いて、レベル3からレベル4へ繋がる階段の裏、ほんの少しのスペースしかない影った場所にてくてくと歩き近づく。サルデスは小さい、随分と小さい。インペルダウンに名高い長たちは皆こぞっての長身ぞろいで、踏み潰されてしまえるんじゃあないかと何も知らぬ新米の罪人がせせら笑うことがあるくらいに小さい。しかし歩くとき、後ろに手をやりゆっくり、ゆっくりと歩くそのさまはベルフェゴールを彷彿とさせる怠惰故の威厳があった。仮にも、この世界の正義と悪の最終地点でさえあるこの煉獄の炎の下層、地獄にて何らかの“長”となる身であると感心させられる気配がこの牢番長殿にはあった。
歩み寄る先、片隅に打ち捨てられた鉄くずの後ろにひっそりと膝を抱えてうずくまる暖色の頭がちろりと見える。裸足のままに逃げ出した所為で真っ白い足先が所々傷ついている。先日シリュウによって痛めつけられた肩や腹の傷はもう跡形もない。真っ黒いワンピースをあちこち擦り切らせている様子に、鉄のドレスでも着たいのかと溜息を吐く。そういえば西の方の島にはそういう童話があった。少女が一人暗い牢屋の中に閉じ込められて母と別離。出してくれと懇願する声に容赦なく、お前の着ている鉄のドレスが擦り切れたらと答える悪魔。少女が必死になって重たいドレスを引きずってあちこちに擦り付けてもびくりともしない。それでも七年かけてほんの少しだけの擦り切れ。それで意気揚々と母親の元へ針の道を越えて行き、そして狼に食べられた少女の話。それを思い出して、サルデスは妙な気分になった。憐憫、というのだろうとぼんやりと客観的に判じる。目の前にうずくまって泣いているこの生き物は、どんな生き物にも「哀れみ」を感じさせるのだ。だから、この自分とて例外ではないのだろうと、それが解っているから、あえてこれ以上思うこともない。憐憫、は、生きていれば誰でもほんの僅かには思う心だ。たとえ囚人たちに囲まれたこの場所で数年勤めあえてきたといえど、心を失うこともない。寧ろ、心が強くなってしまうのだ。それがインペルダウン。ただの機会、或いは容赦のなさだけで勤まる場所でもない。
「何が気にいらねぇんだ。悪意の魔女」
溜息を吐いて、呆れたように声を出す。ぴくり、と、の真っ白い肩が震えた。今も絶えぬというインペルダウン最下層に赤々と燃える業火こそが彼女の命であるという話。たとえその身が灰になろうと芥、と火葬と意味のない始終のこと。そんな話は実際のところまやかし鬼の姫でもあるまいしと一笑にしたのは張本人。何が本当で何が嘘かなど誰にもわからぬのだ。いや、普通はそうであろう。何が悪か善か誰も証明できぬから、だかあ、世界には正義があると高らかに掲げられている。何もかもがあやふやな世こそが、浮世と蔑まれるものである。結局のところ全てがはっきりとしてしまえば、この世界のどんな生き物とて(それはもちろんサルデス自身も、も)海に身を投げて供物となるしかないだろう。
「放っておいてよ」
「そうしたいのは山々だ。仕事がめっきり滞ってしょうがねぇ。マゼラン署長がお前を見つけるまでは誰も眠れねぇだろ」
別段、焦りを人にあらわす署長殿ではないのだけれど、が、怪我をしたまま行方不明となったことを知った途端、トイレから飛び出したという話はサルデスの耳にも入っている。それが悪意の魔女を預かるインペルダウン署長の責任感からかだけなのか、それはサルデスの知ったところでもない。とん、と、の前にしゃがみ込んだサルデスはうずくまったの顔を覗き込むように頭を下げた。
「ここが嫌いか」
「あっち、行ってよ」
「そうもいかねぇんだ。良かったじゃねぇか、見つかったのがおれで。おれはお前を無理やり引きずるようなマネはできねぇからな」
「うるさいよ、向こう行ってってば」
ぐすっ、と、鼻水を啜る音。レベル4に続く場所、あそこは灼熱地獄だが、石の壁に阻まれたここは随分と寒い。むき出しになった肩が震えているのは泣きじゃくっている所為ばかりでもないのだということは容易くわかる。サルデスはにあまり興味がなかった。というよりも、小さな悪魔と人に呼ばれるこの自分、何かしらに対して興味をいただけたことがない。サルデスからすれば世界は何もかもが巨大に出来ているが、しかし、とても狭い場所なのだということが早々に判じられていた。サルデスは地獄で生まれ、そして一生この地獄にいるのだということがわかっている。別に閉じ込められているわけではない。出ることは自由だといつでも門は開けられる。飛び出すことも容易かろう。だが、サルデスは、女囚人の腹から生まれた「赤いもの」は、ここから出ることはないのだという自覚があった。
そう思えば、己は何に対して興味を持てばいいのかと、そういう疑問に首を傾げるしかないのだ。だから今、この目の前ですすり泣いて悪意の魔女が、自分に少しだけ似た匂いが感じられる、なんに対しても無関心でいるだろうはずの生き物が、たかだかシリュウの言葉に傷ついて、周囲に多大な迷惑をかけているという自体が理解できない。
ちょこん、と、サルデスはの向いに座りこんだ。腰を下ろし、真っ白い帽子を脱ぐ。ぽりぽりと頭をかいて、ずっと手に持った笛を置けば、と眼があった。おや、と軽く首を傾げると、がまた顔を伏せる。真っ青な眼が、泣き腫れていた様子だけがサルデスの眼に焼きついた。こういう様子を、マゼラン署長が見ればきっといろいろ思うことがあるのだろ。先日、インペルダウンに、たった一つだけ太陽の光の当たる場所に作られた花壇に、と並んで水をやっていた姿を思い出す。大きな体をちぢこませて、に毒の影響がないように一定の距離をおきながら、それでも、キャッキャと楽しそうに声を上げてマゼランに話しかけるを、まぶしそうに眺めていた姿。すぐにシリュウが邪魔をしてしまって、マゼランの眉間にはいつもの険しい皺がよったのだけれど、それを眺めた瞬間、サルデスは、地獄の番人は、己の小さな手のひらを見下ろしてしまったものである。
「なぁ、おい、。ここがどこだかわかってるのか」
の小さなすすり泣きに、サルデスの小さな呟きが重なる。正直、サルデスはいったいこの魔女が何をそんなに嘆き悲しんでいるのか解らない。シリュウ看守長の外道さはよくよく耳に挟むところで、今回、よりにもよって大将赤犬から預かっているをズタボロにしたことは、多少なりとも驚くことではあったけれど、しかし、それで死ぬわけでもない。痛みはあるようだが、そんなもの、ここでの拷問の悲鳴や齎される激痛に比べればマシだろうとさえ思う。シリュウはそういうところに残虐性はないの。罪人、囚人を屑とは言う。だがいたぶることがあまりない。暇つぶしに斬ったりはする。しかし、いたぶるようなことがないのだ。それは優しみではない。ただ、そういう性格なのだとそれだけのことだ。サルデスの同僚のサディちゃんは、いたぶりなぶって散々痛めつけることを快楽とする。だがシリュウはそうではない。その、燃え滾る生命の炎を一瞬で終わらせることが「退屈しのぎ」になっているのだと、そういう眼をしているのだ。そういう、おぞましいものばかりが生息するこのインペルダウン。サルデスはの真っ赤に燃える髪を見上げた。
「ここは地獄の釜の底。闇よりは明るいが、海底よりは暗くさびしい場所だ。そんな場所にお前みたいなのが何をしに来たんだ」
「・・・・・サルデスくん、邪魔だよ。どっか行ってよ。ぼくなんか放っておいてよ」
「そうもいかねぇんだ。お前がここにいるって、署長に話していいのか」
「・・・・・もう少ししたら戻るよ」
嘘を言う生き物ではないから、本当にそういうつもりなのだということはわかる。サルデスは呆れたように息を吐く。
「泣いてるところを見られのが嫌なのか」
「好きだっていう人はあんまりいないと思うよ」
「女の涙は歴史を動かすっていうんだろ」
「ぼくにそういうのはない」
どうだろうかと、サルデスは首をかしげた。噂に聞く限り、この魔女が眼を真っ赤に晴らして懇願すれば、自分の首だって差し出す者は一人や二人ではないはず。自身、そういう己を自覚しているものとそう思っていたが、違うのか。そういうサルデスの気配に気付いたのだろう。は眼を擦りながら、首を振る。揺るやかな笑みの浮かんだ瞳は一点の光も届かぬ深海と同じ色をしていた。
「ふ、ふふ、ふ、誰も、本当にぼくを思っているわけじゃないんだよ」
「どっちでもいいじゃねぇか。嘘でも本当でも、それでも連中、お前をよくよく甘やかしてるじゃねぇか」
サルデスは、この世界の何が本当なのか一つもはっきりせぬあやふやな状態で、その保証人、体現者のようなが、今更そんなことを気にすることがおかしかった。それで首を傾け、ぽりぽりと、頬をかきながらを眺める。ここは埃が多い。アレルギーではないけれど、少しかゆくなってくる。ふわりふわり、とサルデスの真っ白い帽子が揺れて、眼に入る。ぽつん、と何か唐突に思いついて立ち上がる。うずくまったの頭にばふっ、と、帽子を被せた。
無言での行動。がびっくりと眼を丸くしてサルデスを見つめた。まんまると大きな目にサルデスの、妙にやる気のない顔が写る。シリュウ看守長や、マゼラン署長のようには己はならないだろうと、そうサルデスは思う。自分はこの魔女に対して、己自身のものとはっきり識別できるような感情は何もわいてこない。看守長のような憎悪も、署長のような愛情も、己にはない。それでも、真っ直ぐにが前を向いて立ち上がればいいとそう思うのだ。でないと仕事が始まらない。マゼラン署長がトイレに閉じこもってくれなければ、日常業務が差し支える。ちょん、と、サルデスは自分の小さな手をに伸ばす。
「さぁ、行こうじゃねぇか。まぶしいなら俯いてろよ、おっかなびっくりおれの後をついてくりゃいい。そいつは少しの間貸してやる」
びっくりとしたままのの眼が、ふわり、と、揺れて、そして俯いた。サルデスの帽子は小さなの頭をすっぽり隠す。目元は影が落ちて見えない。はサルデスの手をとって、立ち上がる。これでやっといつものインペルダウンに戻れるとほっとして、サルデスはひょこひょこと前を歩き出した。一瞬はためらったが、ちゃんと後から付いてくる。とぼとぼと足音。監視のための映像を運ぶ電伝虫が一つ眼に入ったので手を振った。モニター室の前には副署長がすべての映像に眼を光らせているだろうから、これで発見の報告がすぐに監獄内に伝わるだろう。
「シリュウ看守長は、なんにも悪くないんだよ」
「それはマゼラン署長に直接言え」
「みんな、ぼくに優しくしてくれる。でも、本当は、シリュウ看守長みたいなのが正しいんだよ」
「ここで何が「道理」かなんてのはお前やおれ、シリュウが決めることじゃねぇ」
ぴしゃりといえば、が「そうだね」と小さく笑ったとうな音が聞こえた。ぽつり、ぽつりと何かしらの言葉を、それからが吐いたのだけれど、もうサルデスにはどうでもよく思えた。何がどうであろうとなんだろうと。己はここの番人であることは変わらぬし、マゼラン署長がいてしっかりとインペルダウンを硬く閉ざし、ハンニャバル副署長や、ドミノ、それにサディちゃんがそれぞれの門を構えていればインペルダウンは盤石だろうと、そう思えていた。
汝等こゝに入るもの
一切の望みを棄てよ