くるり、くるりと回りながら羽でも奪われる虫を思い出した。ドレークは身を倒したときに切って溢れたらしい血の塊を吐き捨ててなんとか立ち上がる。戦況は最悪だ。随分と酷く打ちのめされた。海賊と海兵の戦い。激戦である。明らかにこちらの方が分が悪く(それも当然、億を超える海賊が少なくとも二人は乗っている海賊団に、こちらは一番上の階級が准将一人しかいない編成、人数も圧倒的に下回っていた)それでも何とか全滅まで時間を稼げているのはただ、その億越えの賞金首二人が能力者であるからに他ならなかった。グランドラインの海兵は、ことさら悪魔の実の能力者に対する戦い方に特化している。
置き上がったドレークの背後に鋭い矢が飛んでくる。完全には避けきれなかったが、咄嗟に体を捻り急所ばかりは避けた。肉に矢尻が食い込み、奥歯を噛み締めることで堪える。矢の刺さった片口を押え、ドレークは舌打ちをした。避けられなかったことに対する己への苛立ちである。海軍本部に戻れば矢傷くらい、優秀な医師たちにはかすり傷のようなものだろう。海軍本部に戻れれば、である。海上では些細な切り傷でも命を失う危険性があった。ことさらこの地獄のような戦場では。

ドレークの目の橋で仲間がまた一人斬り伏せられた。他人を気遣っている暇も、余裕もない。襲いかかる三人の男に両手の剣で応じ、一人を足で蹴り飛ばした。乱戦、もはや一騎打ちや何やらとすがすがしい剣技の飛び交うこともない。必死に、どれほど無様になれるかで生存率が変わった。ドレークは擦り切れた服の端を引き裂いて斬りつけられた右目に強くあてて止血を試みる。悠長にしている時間はなかったが、視界が半分しか聞かなければすぐに殺されるだろう。周りを確認し、己以外、動く白い制服がいないことに気づいた。部隊は全滅。ドレークは口元を険しく引き締めて、一度目を閉じた。あとはただいたぶるのみと判じたらしい、海賊たちが一様にドレークに向かってくる。ぱちん、と(まだ無事だった、それはもう、不自然なほどきれいなままの)手袋を外す。


 



 

 

 




先ほどまで機嫌よさそうにシャボン玉で遊んでいた子供が振り返り、その、あどけない青い目を一瞬で赤く染めた様子がドレークには、見たわけでもないのにありありと、手に取るように解った。片腕を吊るしたまま跪き畏まるドレークに少女がはたり、と視線を向けてくる。何を考えているのかこの場にいるものがドレークと少女しかいないため判じることはできない。じぃっと、見下ろされて永遠とも思えるほどの沈黙ののち、ばしゃっ、とドレークの頭にシャボン液を入れていたガラス瓶が投げつけられた。当然中の液体も体に掛る。ただの石鹸水ではないらしい。ほんのりと薔薇のにおいのする液体を無礼にも身に受けながらそれでもドレークは畏まった。
少女が苛立ち、眦を上げる。キッ、とドレークを睨みつけわなわなと体を震わせる。

「なぁに」

震える赤い唇から洩れる言葉に、そこで初めてドレークは面を上げた。謁見を許された立場ではないし、こうして彼女の瞳を受けることすらまだ、大佐であるドレークには許されていない。しかし少女はそのことについては何も言わない。ドレークは半年ぶりに会う少女の幼い顔を見つめた。彼の出身地である北の海に吹き荒れる雪のように白い肌に、海の底のように深い色の瞳。ふっくらとした唇は今は屈辱にワナワナと震えているが、憤慨して上気した頬は薔薇色に染まっている。ドレークの視線を受けて、少女は自分の身を守るように、ぎゅっと、黒い爪をした手を胸の前に当て壁を作った。本人は自覚しておらぬ無意識の行動だろうとわかり、ドレークは眉を寄せる。今この場で、理不尽な扱いを受けているのは明らかに自分で、子女のわがままを堂々と繰り返している。憤慨するならこちらがそうするのが道理であるが、しかし、ドレークは彼女を窘めようとは思わなかった。ただ一言、己の思い通りに事が運ばなかったことに対して怒りを感じているらしいに告げる。

「ディエス・ドレーク大佐、只今帰還致しました。かような時間の推参、誠に申し訳ございません」

時刻は二十三時を越えている。それでも眠りにつくことのないが起きていることをドレークは知っていた。予想通り、“箱庭”の光に溢れた場所で一人、は起きていた。ドレークの姿を見るなり、血色の好い顔を骨のように白くさせたが、その反応だけでドレークは死にかけた恨み事を言う気がなくなる。

「おくつろぎのお邪魔致しまして恐縮の至りではありますが、役儀なれば、」
「役儀?たかだか大佐風情がこのぼくに何かする資格があったの」

ドレークの言葉を傲慢に遮って、は目を細めた。一言一言が氷のタガネで相手の臓腑を引き裂くような冷たさがある。その霜の降り切った眼差しを受けてドレークは緩やかに首を振った。

「ただ一言、伝えに」

声音が変わっている。ドレークは、先ほどまでの慇懃な態度は崩さぬまま、しかし、言葉ははっきりと、に傅く意思のないことを含めるものを扱った。途端に、真っすぐに見つめたの顔が、一瞬耳を塞いでしまいたいという衝動と戦っているように見えた。ドレークは強くを見上げ、そして顔を下げる。そのまま地を見つめながらも意識は自分の頭に注がれているに集中した。

「この度も、お前の悪意がおれを殺すことはなかった」

悔しそうに、が唇を噛み締める音がはっきりと聞こえ、ドレークは満足感を覚えた。







「こっぴどくやられたな」

医務室の壁に上官が寄りかかっていた。ドレークは慌てて身を起こそうとして、体が全く言うことを聞かず、激痛に顔を顰める。それでも軍人の気質しようもなく、上官に対する礼を表そうと試みているとモモンガ少将が手を軽く振った。

「そのままで構わん。ディエス大佐」
「しかし」
「あの魔女をあそこまで怒らせられるのはお前くらいなものだ」

モモンガはドレークのベッドに近づき、見舞い用に設置されている椅子を引いて腰かけた。どっかりと、座るだけなのに貫禄のある男である。少将だが、じきに中将に昇進するという噂があった。大将が三人しかいない海軍本部で、実質的に海兵達をまとめているのが中将だ。最高戦力である大将が殆ど伝説の存在であるのなら、中将というのは、現実味のある、だが高見である。その中将になる、ならないという噂など、まだ若く佐官クラスのドレークには雲の上のような話である。本来なら、自分の直接の上官である将校としか接点ができることはないはずだが、ドレークに関して言えばどれはあまり当てはまらなかった。モモンガをはじめ、海軍本部にいる准将以上の海兵は皆ドレークを知っている。

「申し訳ありません」

ドレークは眉をよせ、謝罪の言葉を口にした。先ほどのモモンガの言葉には呆れと、いささかの嫌味が含まれていると敏感に感じ取っている。ふん、と、モモンガが鼻を鳴らした。

「悪いと思っているのなら、いい加減やめてくれないか」
「……それは、」
「お前が魔女を怒らせるたびに、世話役の准将たちが魔女の迷宮に放り込まれる。インペルダウンから明らかに毒入りの差し入れが届くのも、処理しきれん。今だ大将赤犬は何もおっしゃらないが、それもいつまで続くか」

モモンガの眉間に皺が寄った。後者は、ただ聞けば恐ろしい話なのだが、不覚にもドレークは笑いそうになってしまい、上官に睨まれた。

「笑い事か」
「いえ、申し訳ありません」

謝りはしたが、本当に申し訳ない、と思っているわけではなかった。自分の上官にあたる准将らがの迷宮に放り込まれて三日三晩彷徨おうとも、インペルダウンから毒薬が届こうと、そんなことは、ドレークの今の状況からすれば何と温いことか。それに、赤犬が気にしていないということがドレークにはわかっていた。もしも、あの大将殿がいまのとドレークの関係を気に止めていたのなら、ドレークが医務室の常連になることなどなかっただろう。

ドレークは口元を引き結び、真面目そうに見えるように祈りながらモモンガを見つめた。

は?」
「三練ほど宿舎を破壊して、今は落ち着いている。丁度、鷹の目の男がT・ボーンを訪問してきてな。魔女の相手をさせている」

三練。ドレークは今回の被害を口の中で確認し、随分と彼女は控えめになったものだと感心した。それで都合よく鷹の目の男が現れたのは偶然だろうかと考える。確か前回、半年前に同じことがあった時は、ドンキホーテ・ドフラミンゴがにちょっかいをかけて怒りの矛先を変えさせていた。

「分をわきまえろ。ディエス・ドレーク大佐」

あれこれと考えを巡らせるドレークに、モモンガが釘を刺した。時々、大将赤犬にも言われる言葉である。ドレークもできればそうしたいとは思っている。だが、を知ってしまった以上。そして、こんなことを一度でもしてしまった以上、もう後には引けなかった。

数年前、ドレークがまだ中佐だったころ。彼は本来、准将以上でなければ会うことのできないはずのと出会ってしまった。偶然、だった。そしてそれっきりにすることもできた。だが、どういうわけか、そうはならずに、ドレークとあの魔女、の間には妙な因縁ができてしまった。離れようとしても、赤犬がどれほど、ドレークとを遠ざけようとしても、どうにもならなかった。こればかりはドレークにもどうしようもない。

そして、いつの間にか、ドレークとの間にはある「ゲーム」が始まっていた。

(ありとあらゆる手段を使って、あの小さな子供が私を殺そうとしてくる。どうしようもない戦場に送り、囚人たちに囲ませ、毒を盛る。裏切り物の中に放り込み、絶望と悪意に塗れさせ、私を殺そうとする彼女の意思)

心あたりはないのだが(本当に?)ドレークの何かがの気に入らないらしかった。それっきり、どうも、はドレークを殺そうとあの手この手を使ってくる。直接自分で手をかけない理由をドレークは知っていたが、それを突き付けるだけの外道性は持ち合わせていない。だが、がドレークを死なせようとあれこれ策を弄するたびに、ドレークは生き残ってやった。

(たとえ魔女の悪意でも、人は簡単には死なないと、俺はに突き付けてやりたいのだ)

あの小さな魔女。様々なことを恐れているようにドレークには見えた。いつも、きつい眼差しは防衛、傲慢な物言いは、それによって見くびられることのないようにと必死の虚勢。痛ましいと、ドレークはいつも思っていた。なぜ、誰も彼女を慈しんではやれないのだろう。鷹の目や、ほかの七武海がを甘やかしていない、とは言わない。だが、違うのだ。の望みが、ドレークにはわかった。は、彼らの優しさなどは欲していない。自分を甘やかし、見守る目が欲しいわけではないのだ。

あの子供が本当に必要としているのは、自分を守ってくれる“男”ではない。

ドレークは、の何もかもを知っているわけではない。だが、彼女が、世界の敵と称されていることは知っていた。すべての悪を背負う者であるとも、聞いている。しかし、だからといって、見捨てられるべきなのだろうか。たった一人きりの孤独を当然のようにつきつけていいものなのだろうか。ドレークの正義は、それを許さなかった。

だから、の悪意が自分を殺そうとしても、歯を食いしばって生き残った。そして、怪我をあからさまに見せつけながら、に会う。己はけして死なないと、を置いていきはしないと、そう、目で訴えかける。その度に、が苛立つその理由を、ドレークはもうわかっていた。

モモンガが呆れたように溜息を吐き、そして額を押えた。

「なぜ、あの赤犬がお前をから退けないのか不思議でならん」

それができればとうにしているのだろうとドレークは言いたかったが、曖昧に首を動かすだけで何も言わなかった。






ひょいっと簡単に避けられては頬を膨らませた。ミホークがのために剣をあつらえてくれたのは半年前だ。柄にはの目の色と同じ宝石がはめ込まれていて、これを用意したのがドフラミンゴだと知った時はものすごく嫌そうな顔をした。しかし、剣の刃は鈍らだ。いまいましいことに、ミホークが島の鍛冶屋全員に(そしておそらく海兵にも)この剣に殺傷力を与えたら殺すと脅しをかけている。

自分で研ぐという選択肢は珍しくにもあったが、剣を研ぐ用具を用意するには誰か人に頼らなければならない。魔女が武器を所持することは赤犬が認めていないのだから、協力してくれそうな海兵はいなかった。

再度が振り上げた剣を掴み、ミホークが息を吐く。

「これ以上は怪我をする。今日はしまいだ」
「ぼくの気を紛らせてくれるって言ったのに?」
「そなたは、剣に集中するほど熱中はせんだろう」

そのままひょいっと、ミホークに脇腹を抱えて持ち上げられ、階段の上に下ろされる。ちょこん、と石段に座り込んだの足を手に取って、ミホークは靴下を脱がせた。

「踏み込むときは足を引きずるな」

ぴりっとした痛みがあった。は前に踏み込むときに左足をややする癖がある。剣道のすり足とはまた違う悪癖は足の裏を傷つけた。器用に片手で濡らした布を当てながらミホークはを見つめる。

「その男、気に入らぬのなら斬り捨てるぞ」
「それ、あのバカ鳥も言ったよ」
「……」

ドフラミンゴを出せばミホークの顔が嫌そうにしかめられる。はコロコロと声を上げて笑い、俯いた。

「うん、嫌いだよ、ディエス大佐」
「そうか」
「嫌い、嫌い、大嫌い、早く、早く、死んでくれればいいんだ」
「そうか」
「でも、死なないんだ」

は俯いたまま、唇を噛み締めた。そう、そうなのだ。あの男、ディエス・ドレーク大佐。なかなか死なない。が、可能な限り生存率の低い任務に彼を同行させても、裏切っても、何をしても、どんな状況でも、あぁ、そうだ、必ずあの男は生きて帰ってきた。

どんな理不尽な状況でも。自分を殺してしまおうという魔女の釜の中から帰還してくる。堂々と、何もなかったように、出発する前と何も変わらぬ様子での前に姿を現す。

「馬鹿みたい」

ぽつり、とは呟いた。ミホークを見つめ、彼の鷹の目のような赤い目に自分を映す。

「ねぇ、ミホーク。ぼくはね、あやしてくれる手なんて必要ないんだよ。そんなの、いらないよ」

ドレークがどういうつもりなのか、にはわかっている。彼は、あの男は、を裏切らないのだろう。を、一人ぼっちにはしないと、そう突き付けたいのだろう。はそれを信じなかった。いや、信じているのかもしれない。だが、そんなことはあり得ないと、ロジャーや、ノーランド、それに他の、これまでを「大切だ」と慈しんでくれた人間たちとの思い出で突きつけられてきた。

「みんな、みんな、結局は死んでしまうんだ。だったらぼくは、誰もいらない。やさしい手なんて必要ない。ディエスは、早くぼくを裏切って、嘘をついてくれればいいんだ」

ミホークに言うべきことではなかった。ミホークはには優しい。をとても大切にしてくれている。もミホークが好きだった。けれど、ミホークが自分より先に死ぬ、という自覚もある。彼を信じているのか信じていないのかと言えば、自分を置いていくというミホークを、信じている、ということになる。

にとって、ミホークは王子さまになれなかった、王子さまだった。守るべき姫君が、彼にはいないのだ。だから、歳を取って、そのまま彼は、王子さまになり損ねてしまった。けれど、姫君を持たない剣士は、どこまでも気高いのだろう。は、姫君は人の妨げにしかならないのではないか、とも思っていた。

(そして、ぼくは魔女だ。魔女には、王子さまはいない。王子さまは、魔女を殺すんだ。お姫さまを助けるために)

はぎゅっと、ミホークに抱きついた。

(魔女には、王子さまはいない)

いないんだ。繰り返して、繰り返して、はぎゅっと、唇を噛み締めた。

何かを思い出しそうになる。王子さまと、お姫さま。お姫さまには王子さまが必要だった。王子さまはお姫さまがいなくても平気なのに、お姫さまは、王子さまがいなければならなかった。その、魔法。はずきり、と痛んだ頭を押さえた。何か、自分はとても大事なことを忘れているのではないか。



そっと、ミホークの手がの頬を包む。頭痛で顔を顰めながらもその声に応えると、ミホークが眉を寄せて、じっとを見つめた。

「なぁに、ミホーク」
「あの男が生きていることで、そなたが苦しい思いをするのであれば、そなたの意思に構わず、俺はあの男を斬る」

ミホークは本当にやるだろう。たとえば、それでが悲しんでも、もう苦しむことがないのならと、殺してしまえるのだろう。そういう心は、ドフラミンゴにはなかった。ドフラミンゴは、が苦しむよりは、泣かぬ方に重きを置く。

不穏な言動、は首を振った。自分でも、どうしてほしいのかわからない。は、ドレークに早く裏切って欲しかった。何か、嘘をついて失望させてほしかった。それなのに、ドレークはどこまでもまっすぐで、きらきらしている。この海軍本部にいて、もう、大佐であるのに、あと一歩で将校クラスであるのに、それでも雪のように白いままなのだ。

自分は、もしかすると、彼がどんなに暗い、汚れた場所を進んでも、変わらぬ様子を見たいのかもしれない。
永遠を、見たいのかもしれない。

「ねぇ、ミホーク。永遠って、あると思う?」

あの男は、きっと、どこまでもどこまでも、汚れないのだろう。魔女の悪意に浸かっても、たとえ、己の親友に裏切られても、何があっても、きっと、ディエス・ドレークは白いままだ。

「不変のものがないように、永久に続くものなどあり得ん」
「そうだね。でも、ぼくは永遠が欲しい」

言いながら、何とも奇妙な願いだとは思った。

自分こそ、永遠ではないのか。時を刻まぬ、久遠のアリス。時間の影響を受けない、無垢なる魂。どれほど世界が揺れ動いても、この魔女には何の意味もない。

だが、それを知っているはずのミホークが、永遠などはないと言った。
そして自分も、永遠が欲しい、と思った。なら、やはり自分は、永遠の生き物ではないのだろう。




 

 

 

 

誰よりも優しくされたいんでしょう