雑誌を片手に妙に楽しそうなの顔。愛らしいというのはこれのことだとサカズキは、全く持ってバカッポー色ボケ亭主極まりないことをしみじみと感じつつ、折角何ヶ月に一度あるかわからぬ休暇日。自分が家にいるというのに雑誌などに気を奪われているのが気に入らぬ、と全く持って心の狭いことを本日も堂々と考えつつ、そんな自覚は欠片もないサカズキさんは声をかけるのも大人気ないと思いぐいっと腕を伸ばして愛妻から雑誌を奪い取った。結局大人げねぇよと、そういう突っ込みをしてやってほしい。
「なぁに?サカズキ」
頭が足りないのか、いえいえ、そうではなくて、このくらいの理不尽さはつきものな新婚生活ゆえのこと、さして驚く様子もなくは小首を傾げてみる。
「……」
「なぁに?」
ここで「構え」とでも言えばかわいらしいのだが(いや、まぁいい歳したオッサンが幼女相手にそういう要求というのは、絵的にどうかとも思うけれど)この男がそんなことを口が裂けても言うわけない。
じぃっと睨むようにしているだけで「察しろ」と態度で出す。一瞬きょとん、としたもののすぐに思いつくことがあったのかが反対側に首を傾げてパチリと瞬きをしてから仏頂面をしているサカズキの方にもぞもぞと近づく。
字の文が多くなり大変申し訳ないのだけれど、補足させていたくところ、現在サカズキとの二人は居間のソファに腰掛けている。サカズキが新聞に目を落としていたものだから隣に座っていたも暇つぶしにと雑誌を手に取っていたという状況。
もぞもぞと膝を動かしてサカズキの膝までいくと、は当然のように膝の間にすっぽり収まって背中を預ける。上を向けばそのまま見詰め合うような形になり、自分でやっておきながら本の少し顔を赤らめ目を伏せた。
とりあえずサカズキはその様子で機嫌を直してやることにして、見上げるのまぁるい青い目にしっかりと自分が映っている事を確認しその頬を撫でた。
「おどれがこういったものを読むたァ、珍しい」
「基本的に小説がすきだからね、ぼく。で、その雑誌ね、ピアくんがコラムを書いてるんだけど今年はクリスマスのイルミネーション特集なんだよ」
もうそんな時期か。そういえば帰る途中に通るマリンフォードの港町は華やいでいた気がする。あまりそういうものに興味のないサカズキであるので意識はしなかった。しかしは違うらしい。幼い顔をさらに幼くさせ、好奇心たっぷりの目で雑誌を再び手に取った。
「ピアくんはね、無駄に光るボルサリーノくんが一等いいに決まってるって主張なんだけど、ぼくは水の都の巨大噴水のライトアップが一番きれいだと思うんだ。一度くらいサカズキと観にいきたいねぇ」
仮にも最高戦力のボルサリーノをイルミネーション扱いするのは如何なものかと、さすがのサカズキも思わなくはなかったが、が楽しそうに語るので黙っておく。
はサカズキにも見えるように膝のうえでパラパラと雑誌を捲る。
なるほどシェイク・S・ピアが関わるだけあってグランドラインの様々なスポットの写真が掲載されている。移動するにも命がけなグランドラインではともすれば情報は偏りがちになってしまうというもの。しかし問答無用の詩人の娘が関われば生存率の低い島だろうが海峡だろうが、あまり関係ないのだろう。聞くところによればそういう様々な情報が載っているピアの関わる雑誌の売れ行きは好調らしい。
そのうち空島の名所特集でもしかねないとサカズキは密かに案じていた。空島空島。上級の航海者たちの中では「ある」というのが常識となってはいるものの、おおっぴらに肯定できぬのは事情がある。何しろたどり着くのに危険が多すぎる。一般市民が憧れて挑むようなことが多発すれば安全管理という面でよろしくない。
「ねぇ、眉間に皺、よってる」
むっ、との眉間にも同じように皺が寄った。サカズキのマネをしようというのか小難しそうな顔をつくり、細い指でくいっとサカズキの眉間を押す。
「ぼくといるときに仕事のこと考えるなんて酷い旦那さまだよ」
まだ日は高いがここでしてもいいだろうか、もう構わないだろうかと、一瞬本気でサカズキは考える。
「って、いいわけないどっしゃろ!このどスケベ!」
「おどれどこから入ってきた」
すぱこぉん、とサカズキの頭をスリッパで引っぱたこうとして滑ったのは赤みのまじる黒髪に長身の青年。背後から奇襲をかけたのだが最高戦力相手にそんな不意打ちなんぞ通用するわけもない。サカズキはあっさりそれを避けてを抱き上げると、滑った体勢のままの仮面の貴族、コルテス・コルヴィナスを足蹴にした。
寒い冬、ハイ!!お久しぶりのバカッポー!
「おやおや、まぁ、まぁ。何しているの?」
「ご無沙汰しております。母堂様」
抱き上げられた体勢を当然というようにサカズキの首に腕を回してから、は聊か驚いたそぶりで声を出す。すると床と親しげに顔を合わせていたコルテスは立ち上がり、訛りの混じった話し方を改め優雅に腰を折る。
品位卑しからぬこの青年、象牙の白面をつけた様子はどこぞの舞踏会に紛れる御簾の方とそのように思われるような立ち振る舞いを当然と心得る、四候の貴族の頂点に君臨するコルヴィナス家、与えられた紋章は聖杯の、押しも押されぬ大貴族当主どの。
なんで仮面つけてるんだとか、海を彷徨う「魔女の息子」ことヘタレのコルキス・コルヴィナスとはどういう関係かと疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが、ここは本編シカトのバカッポー、とりあえずその辺は気にしないで頂きたい。
コルテスは整った顎に手をやって決めポーズを意識しているのか、そんな立ち居地を決めた後、こちらを睨んでいるサカズキと「おや」と首をかしげている双方に向かって聊か芝居じみた様子で語りだす。
「ヤーヤーヤ、いやいや、なしてマリージョアにおるはずのうちがおりますか、気になっとるやろうね?せやけどそれには海よりも深ァい理由が、」
「ただの不法侵入じゃろう」
「ちゃんと靴を脱いでおあがりね。ここはお城ではないんだよ」
「容赦ないわァ、お二人さん」
ぺしん、とコルテスは自分の額をたたきおどけてみせる。
黙って立っていれば扇の内で淑女らが顔を赤らめる雰囲気を出すのに、口を開けば色々台無しになるというのは、コルヴィナス家の血統の特徴なのだろうか。サカズキはそういえば己の妻も黙っていれば人形のような美しさとそういわれることが多いことを思い出しつつそのような感想。気付いたが「ぼくは喋ってもかわいい」と堂々とのたまった。サカズキもそれに異論はない。
とりあえずコルテスは言われたとおり靴は脱ぎ玄関に置いてきてから再び戻ってきた。
「それで、今日うちが来ましたのはな?新婚バカッポー極まりないお二人を放置しちゃァあきまへんやろうっちゅう最もな疑問がアーサーはんらの間に出てまして」
「わしが妻と過ごすのに一々おどれらの許可がいるんか」
「ヤーヤー、当然やろ、このド腐れ海兵」
開き直るドS亭主サカズキの堂々とした言葉に、同じように堂々とコルテスが切り返した。
この間0,2秒である。
先ほどまで口元をにやつかせていたコルテス・コルヴィナスはきっぱり言い切り、仮面の奥の目を細めているようなそんな態度。
「ご母堂さまはうちら貴族の象徴、永遠の女王陛下、貴きお方や。それがどこの馬の骨かも知れん図体のでかいオッサンにいいようにさとるいうんは、どうにも辛抱ならん。せやかてそれがご母堂様の幸せやっちゅうのもわかる。せめてその真面目くさった顔を始終引き攣らせて鼻っぱしで笑い飛ばすくらいせぇへんと気がすまんのや」
「コルテス、コルテス、真面目な顔で言ってるけど、それってぼくにもわかりやすく言うと?」
大将、貴族がにらみ合っていやな雰囲気、というところをまるで気にせぬ悪意の魔女殿、ふぅん、ととくに興味はなさそうな様子で首を傾げる。
「へぇ、つまり『あんたはんだけズルい!いけず!!幸せになんてさせないんだからね!邪魔してやるわ!負け組みの遠吠え』どす」
「うん、すごくわかりやすいよ」
「さっさと帰れ」
言い換えたコルテス、きっと仮面の下はそれはもういい笑顔だろうと思われる。ぐっと親指を突き立ててポーズを決めるもので、サカズキはとりあえず蹴り飛ばそうかと足を出すが、しかしこんなのでも貴族である。
を見ればさて対応をどうしたものかと困惑しているのがよくわかる。コルキスと違って邪険にするわけにもいかぬとその顔が悩むのが、はっきり言ってサカズキには気に入らない。が苦悩するのは自分に関することだけでいいと、だからどんだけ心狭い男だと周囲に言われようが何だろうが「だからどうした」と開き直るバカッポー。
とりあえずの視界からコルテスを消そうと思い顎を掴みかけるが、そこでピピーっと笛の音。
「ハイ!そこバカッポー!人前で何ちゅーしようとしてんのクラァ!」
「……この暇人どもが」
サカズキとの暮らす家、居間は縁側、中庭と隣り合っている。その中庭にいつの間にやら立っているのはサカズキの数少ない友人であり同僚のクザン。青い笛を持って「ハイ!そこ!」と取り締まるような姿勢をしていた。
もちろんクザン、本日ばっちり出勤日だが、そんなことは関係ないという顔をしている。
思わずサカズキは額を押え、が「大丈夫?」と気遣うので「もういっそこのバカどもの目の前で」など色々自主規制なことを考えた。
「もぅ、遅いどっしゃろ、クザンはん!うち一人でこんひとの相手なんて無謀やったわァ」
「いやぁ、少しくらい怪我してくれててもおれはいいんだけどね?抜け出すのに時間かかっちゃってさー」
「おどれは仕事をしろ、仕事を」
ばこぉん、ととりあえずサカズキはクザンの頭を蹴り飛ばし、その衝撃がにかからぬよう細心の注意を払った。
溶けるくらいで死ぬことはないが、登場数秒でその攻撃にクザンは少し顔を引きつらせ、こそこそ、とコルテスに耳打ちする。
「え、なによ?ちぃっとも状況が芳しくないじゃないの。コルテス君がサカズキのこと説得して、うまぁくちゃんから引き離してくれるんじゃなかったの?」
「聞こえちょるぜ。おどれら、遺書の用意はしてきたんじゃろうなァ」
よりにもよって、という内容にサカズキの眉間の皺が深くなる。
「ちょ、熱い!サカズキ!熱いってば!」
ゴォオオと、意識せず温度が上がっていたらしい。サカズキに触れていたが慌てて飛びのいて、そしてそこをひょいっと、コルテスが捕獲した。
「ヤーヤーヤ、はいはい、ご母堂さまゲットどす〜」
「ぼくはポ○モンか何かか!!?ちょっと!お放しよ!」
「ご母堂さまやったら愛らしいエネコなんてえぇやろうね、うちとコンテスト優勝目指すっちゅうんもえぇわぁ〜」
「何沸いたこと言ってるのさ!ぼくがエネコならトレーナーはサカズキに決まってるでしょ!ジム戦絶対ポケモン使わないで圧勝だね!」
「ちゃん、コルテス君、話逸れてね?あと俺、個人的にエネコ持ってるサカズキとか想像したくないんだけど」
あれこれ好き勝手に言っているが、そうしている間にもはがっしりとコルテスにホールドされ、その隙にクザンがの腕に手錠(普通の手錠)を嵌めて、その反対側を自分にがっしゃんとつける。
冷たい手錠の感触と容赦ない音には目を丸くしてクザンを見上げた。
「クザンくん!」
「いやー、悪いね。コルテス君が味方してくれるっていうし、おれもたまには本気出そうかと」
「ヤー、クザンさん、避けなはれ」
間延びしたコルテスの声にクザンがを抱えて飛び上がった。
と、一瞬前までクザンがいた場所が、マグマによって溶かされる。それはもうジュッと容赦ない熱量に「うわ」と思わずまで顔を引きつらせ、クザンのシャツを掴む。
「サ、サカズキ…?」
心なし声が震えてしまうのは仕方ない。はクザンに抱きかかえられたまま塀の上まで離れて、そして室内にいるサカズキに声をかけてみる。
海軍コートこそ纏っていないし服装も着流し、帽子もなくトレードマークといえる角刈りをあらわにした大将赤犬ことサカズキさん、の声に顔をあげ、眼を細めた。
「このわしの目の前で、を浚おうとするたァ……死ぬ覚悟はあるんじゃろうのぅ」
低く呟くと同時にごぽり、とマグマが沸く。
本気でまずい、とは顔を引き攣らせた。普段の何気ない一言で機嫌を損ねたりすることはあるが、これはそれらとは違う、マヂギレ状態である。ごぽごぽと溢れるマグマが部屋を焼き、庭に流れ出しが手塩にかけて育てている薔薇を飲み込んでいく。
「サ、サカズキ…!!ちょっとまって落ち着いて!!クザンくんのおふざけだよ!?本気でおこらないでよ!ね、ねぇってば!」
とりあえずサカズキのもとへ行かなければとは身を捩るが、クザンは何を考えているのかわからぬ顔でサカズキを見下ろすばかりで力を弱めてくれぬ。
「クザンくん…?ねぇ、放してよ…!」
手錠の鍵を見つけるよりクザンが氷になって手錠から出てくれたほうが早い。いつものおふざけにしては度が過ぎるだろうと危機感を持って見上げるのに、クザンは何も答えない。
あまりにが暴れて腕を引っ張るもので、鉄の手錠が手首に食い込み擦れて赤くなるが、そんなことを構ってはいられない。ぐいぐいとなんとか手錠を外そうと暴れていると、クザンがその手首を掴んで止めさせる。
「コラコラ、ちゃん暴れないの。怪我しちゃったじゃないの」
「、おどれはわしが行くまで大人しゅうしちょれ」
「二人ともぼくの心配してくれるならこの状況をどうにかしてよ!」
過保護は相変わらずなのに、何だか妙だとは眉を寄せる。事の発端のコルテスを探したがいつのまにかあの放蕩息子はどこかへ消えていた。
「サカズキの折角のお休みなのに、なんで二人が喧嘩するのさ…!泣くよ!?」
ぐっと、は目じりに浮かんだ涙を堪えクザンとサカズキを交互に睨む。普段であればここまで言えばどちらかが怒りを納めてどうにか状況も変わるのだが、ここまで言っても相変わらず二人のにらみ合いは続いている。サカズキが実力行使に出ないのは、が巻き込まれる恐れがあるからだ。そしてクザンもそれをわかっている。人質、とそのような使い方をしているわけではないだろうが、この状況をあっさり元通りにさせぬための意地のようなものがあった。
「クザン、はわしの妻じゃろうが」
このまま本気で殴り合い蹴り合いに発展するという選択肢を少しは躊躇う心があるのか、サカズキが僅かな沈黙の後に問う。身の程を知れという辛らつな意味を孕んでいる言葉ではなくて、ただ、これ以上を怯えさせるなといい含めようとしている言葉である。
それでクザンは腕の中のを意識する。「何か変だ」と、僅かに震えているに気付いた。
「ごめんね、ちゃん」
心の底からの謝罪を吐き、それであっさり解放するのかと思いきや、そのままクザンは後ろに大きく跳んで、を連れて走り出した。
「…!!!待たんか…この、バカタレ……!!!……っ……!!!」
逃がすつもりはないとサカズキは後を追おうとするのだが、その背後から鋭い一撃が襲い掛かる。背から胸を貫いたのは軍刀。鈍く光る剣先には海楼石が仕込まれている。
「……ッ、おどれ…」
「ヤーヤー、うちの攻撃喰らうなんてよほど余裕失くしとるんね、サカズキはん。いやぁ、こうもあっさりいくなんて長生きはするもんやわぁ〜」
膝を突く無様な醜態は曝さぬと、サカズキは唇を噛み耐えた。振り返れば仮面の貴族が口元をにんまりと吊り上げてサカズキに剣をつきたてたその体勢のまま、それはもう嫌味なほど優雅に腰を折る。
「忘れへんでおくれやす。うちはあんたはんが大嫌いや。その幸せに泥を塗りたくれるんやったら、なんだってする」
+++
「サカズキのところに帰る」
やっとクザンが下ろしてくれたのは十分以上走り続けてのこと。下ろされたのは人気のない公園のベンチのうえ。相変わらず手錠で腕をつながれた状態のままはクザンを見上げた。
「戻って、とかそういうお願いはしないのね、ちゃん」
とりあえずクザンはの隣に腰を下ろす。すると警戒するかと思いきやは魔女時代を彷彿とさせる、人を見下しきったような目を向けてきた。
「さっきまで散々ぼくはお願いしたよ。手錠を外してとも言った」
「でも俺はしなかった。だからもう俺には何も頼まないんだよね?」
手錠を外したらは逃げる。クザンはサカズキのところに帰る気はない。早々に見切りをつけたのだということは明らかで、クザンはほんの少し傷ついた。だがそれは手前勝手な傷心だ。は元々人に頼らないし、信用もしていない。けれども随分と長いことかけてやっとクザンはドレークのようにに「お願い」をされるポジションにいて、それを長年よしとしてきて、だというのに今それをあっさり自分の手で壊した。
自分が傷ついている以上にだって傷ついているんじゃないかと、そんな都合のいい期待が沸くが、見切りをつけた相手に対してが何か思うというのは、難しい。
クザンは手錠につながれたの手首を取って、顔を顰める。
「擦り切れちゃってんじゃないの。暴れるからでしょ」
「少し後悔しているよ、昔と違って今はすぐに治らないもの。こんなに痛いものだとは思わなかった」
「……ねぇ、俺のこと傷つけて楽しい?」
自分のせいでが痛い思いをしているとその事実がどれほど己の胸を抉るか、にはわからぬだろう。だからせめて嫌味を言い、クザンはの顔を見て後悔した。
「………ごめん、ごめんね、ちゃん、本当に、ごめん」
の顔を見て溢れ出した自責の念に押しつぶされ、クザンは思わずを抱きしめた。頭を抱え、胸に押し付ける。ごめん、と何度もいい、けれど手錠は外さない。謝罪の言葉も行為のことではなくてただ今「ひどいことを言った」とその点のみへの謝罪である。
「ぼくは、サカズキのところに帰る」
先ほどの表情ほど感情の揺れの見られぬはっきりとした声で、はクザンに抱きしめられたまま呟く。その小さく震える手がクザンの体を少しでも抱きしめ返したのなら、多分クザンはここでを諦めただろう。けれど頑ななその態度に、ゆっくりと息を吐く。
そしてから離れ、胸ポケットから出したハンカチをその細い手首にまく。手錠を外さぬままでいるつもりだけれど、こうして間に布をまいていれば少しはマシになるだろう。
「それ、優しさじゃないよ。クザンくん」
布が擦れるのか少し顔を顰めが言う。容赦ないとクザンは笑い、そのままの頬に触れた。
「泣かないの?」
「ぼくはサカズキの前以外では泣かないよ」
「そう言われると泣かしたくなっちまうんだよね、俺」
できやしないよ、とはは言わなかった。言えばクザンは少しムキになって先ほどにあんな顔をさせたことをすっかり頭の隅おしやって考えられる限りのことをしてその目に涙を浮かばせたかもしれない。けれどは何もいわずただ曖昧に口元を緩めただけだった。そういう、微妙な攻防をはする。魔女としての力を失ってなお、彼女は魔女の頃のままを振舞う。
クザンは顔を顰め、ひょいっとを抱き上げて歩き出す。
「何がしたいのかって、聞いてくれねぇの?」
「どこに行くの?」
「俺の二十年以上のささやかな夢を叶えようかと思って」
おどけていえばが笑った。警戒する瞳の色は相変わらずで、もうクザンを「クザンくん」と親しげに見ることはないとはっきりしている顔をしているけれど、それでも表面的にはいつも通りな気配がした。このままクザンが何事もなかったように振舞おうとすればきっとはそれを受け入れると、今のうちならまだその可能性がある。
けれどクザンはそれを振り払った。
「イルミネーション、一緒に観ようよ、ちゃん」
「、ぼくが何年生きてると思っているのさ。そんなのいやと言うほど見てるのに。今更、つまんないよ?」
1拍奇妙な間があった。けれどは「普段どおりにまだ戻れるんだよ」とそういう様子を続ける。それはクザンへの憐憫や猶予ではなくて、彼女自身の切なる願いのようにも感じられた。それがクザンには苛立たしいのだ。改めて思い、クザンは大またで歩きマリンフォードの大通りを目指す。
「なんで、そうなわけ?ちゃんって」
まだ明るいのでイルミネーションが輝いているわけではない。それはクザンにもわかっている。けれどはクザンの足が速くなっているのが判ると段々と顔を強張らせていくのだ。クザンは今頃サカズキはどうしているのかと、そんなことを頭の隅で考えながら、クザンはため息を吐いた。
「いつも、いつまでも何も変わらないでこのままでいて、なんて、思って願って、さ。いい加減にしろよ」
「クザンくんには関係ないことだよ」
「何のことかはぐらかさねぇだけマシだけど、そういう切りかえしはないよね、ちゃん」
大通りに出る前にクザンはさっと路地に入った。明るかった周囲が途端暗くなる。手錠はしているが、体が僅かでも逃げられぬようにの体を壁に押し付け、クザンは真っ直ぐに見下ろす。
「サカズキが不安がってるって、わかってんだろ?新婚バカッポー、幸せ過ぎる毎日、この今が何かおかしいんじゃねぇかって、でも壊したくなくて必死に必死に、なってるの、わかってんだろ?」
ことあるごとに、クザンは思う。新妻、新婚、愛妻家と、そのような幸福な単語をどれほど並べ立てたところで違和感のある「今」を、それでもサカズキとは続けている。まるで御伽噺の「めでたしめでたし、そうして二人はいつまでも幸せに」を守ろうとしているような、そんな必死さ。違和感を持っているのに蓋をして、気付かぬように、気付かぬように。を外の世界から遮断して、も外の世界から逃げ出して、サカズキ「だけ」を見るようにしている、そういう日常、それをサカズキは不安に思っているのではないかと、そんなことを、クザンは思い、そして考えたのだ。
「俺はサカズキもちゃんも好きだよ。二人が幸せなの見てるの、悪い気はしねぇ。でもさ、ねぇ、ちゃん。何か、おかしくない?」
必死に必死に、今を守ろうとする。
何一つ変わらぬようにと、そういうものは、おかしくないのだろうか。
「だからなぁに」
の青い目が真っ直ぐクザンを見上げた。躊躇わぬ、何一つ迷わぬ意思の強い瞳。クザンの今の行動を「変」だと「何かおかしい」とそう警戒し怯えていたはもうおらず、ただただ真っ直ぐにクザンを見上げるその目の主は、おとぎばなしの幸せを信じる魔女である。
「ぼくも、サカズキも、それでいいと思っている。これはぼくとサカズキのこと。きみには関係、」
言い続けるの首を掴んで、クザンはそのまま唇を重ねた。
ぱしんと素早く払われた手がクザンの頬を叩く。掠めるだけの口付けである。クザンはぺろりと分厚い舌を舐めて、眼を細めた。
「さっきも言ったと思うけど、俺はお前さんたちが大好きよ?だから、そういう半強制的な「めでたしめでたし」は気に入らねぇの。サカズキが、ちゃんが、二人が何も「変える」気がねぇってんなら、俺が変える」
「それと今ぼくにしたことと関係あるの?」
「ありゃりゃ、ま、この位じゃどうってことないわな」
クザンは自分の腕に繋がった手錠の鎖を引っ張って引き寄せ、の腰を片腕で抱き上げて自分の方へ寄せる。
「舌でも入れて唾液を飲み込めば少しは変わるか?」
の目にどんな感情が浮かぶのか。クザンはほんの少し楽しみではあった。戸惑うてくれるのか泣いてくれるのか、それとも止めてくれと懇願するのか。に嫌われることなど百も承知だ。けれどクザンにはどうしたって認められなかった。あれほどお互い好きあって、思いあって、求め合って、散々苦しんだ二人がなんだって落ち着く「幸せ」がこんなものなのか。納得いかない。それでよしと二人がしているのが一層許るせない。身勝手とは思っているが、けれど、時折サカズキに不安が見られるたびに、クザンはわがことのような思いがするのだ。
たとえばが人質になって立てこもり犯人と二人だけになった事件や、パンドラが来た折など、節々でクザンはサカズキの喉に引っかかった魚の骨のようなものを見てきた。これでいいはずがない。そう思い、そう、思えてしまったから、仕方ないのだ。
二人は「これでいい」と思っているのなら何も変える気はないだろう。だから、己が何かをする。
「その白い肌に歯を立てて噛み付いて、溢れる欲で汚して、目の前と体の中を俺でいっぱいにしたら、ちゃん、何か変わってくれる?」
「……」
が沈黙した。青い目を伏せ、眉を寄せる。てっきり「だから?」とでもあっさり返されるかと思っていただけにクザンはほんの少し驚いた。
立て板に水のように己の行動何もかも一切流されていくのではないかとそんな予感があった。だからクザンは正直これはただの自己満足であると諦めている部分もあった。けれど先ほどに嫌味を言って次の瞬間激しく後悔したように、いつも、いつだって、結局クザンの予想とは外れた反応をはするのだ。
「そんなの、無駄なんだよ。クザンくん」
いわれた言葉は想定内。けれど、声音の振るえや、微かに混じった感情をクザンはまるで予想していなかった。
はクザンを見つめ、静かに首を傾ける。
「そんなこと、したって意味ないの。クザンくんがぼくを抱いたって、サカズキが別の女のひとを抱いたって、そんなの、何の意味もないんだよ」
「新婚に水させるとかそういう意味も?」
「ないよ」
きっぱりとはいう。けれど堂々としている、というよりは、静かにゆっくりと、何かしらの諦めのあるような、そんな声だ。
戸惑うクザンには手を引いて路地から出ると、夜になればイルミネーションの輝く通りに連れてきた。大きな木が色取り取りに飾り付けられている。明りが灯されていなくともこれだけでも十分目に楽しい。ゆっくり、ゆっくりとが歩く。手錠をしているからというわけではなくクザンもその速度にあわせて並んで歩いた。
とイルミネーションを歩く、という行為を自分は憧れていたはずだと、頭の隅で思う。本当なら夜、輝くイルミネーションを眺めてと他愛もない話をしながら歩けたら、多分すごく自分は幸福なんだと、そういうことを思っていた。今は昼だが、少しくらいそういう心が沸いたっておかしくないのに、なぜかクザンは、ひどいことをしているような気がした。
「、」
「木、きれいだよね」
「あ、そだね。うん、夜になったらもっとすごいんじゃないの?黄猿さんにゃ負けるだろうけど」
先ほどあれだけ自分で「普段どおり」になるのを避けておきながら、クザンは巻き戻そうとする。けれど先ほどのクザンのように今度はがそれを拒絶して、クザンと繋がった手錠を少しだけ引っ張った。
「クザンくんとこうして観ててもきれいだと思うけど、ぼく、サカズキと観られたらきっと生涯で一番きれいに見える自信があるよ」
「のろけ…?」
「そういうことなんだよって、ぼくは言いたいの」
ぴたりとが立ち止まった。通行人はいない。確かこの時間は港で魚が上がる時間で、人はそちらに集中しているのだろう。
「誰かが何かしたって、ぼくはサカズキと何かしているときが一番楽しいし嬉しいし、何だって輝いて見える。ぼくはサカズキを思うこころで出来てるんだって、そう思う。たぶん、うぅん、絶対にこれは変わらない。そうじゃなくなったぼくはぼくじゃないけど、でも、絶対にそうはならないんだよ」
おとぎばなしの結末を続ける滑稽さ。気付かぬほど愚かではない。けれど蓋をして、必死に必死に続けるのは、何も盲目というばかりでもない。
「本当に怖いのはね、クザンくん。何も変わらないことなんだよ」
青い目を真っ直ぐに向けてが答える。
根底、何かあって変わるのを恐れている、のではない。そうではなくて、そうでは、なくて。何よりも恐れているのは、何かあっても、変わらぬことだ。
「ぼくは魔女で、サカズキは海兵。今は夫婦でいるけれど、何かあったときにサカズキは躊躇わずにぼくを殺す。だからぼくらは何も変わらないでいてほしいと思う。そうじゃ、ないの。何かあるのに、愛も変わらずぼくらは何も変わらない、それを知るのが怖いんだよ」
+++
「わたくしのリリスが悲しみにくれている夢を見てよ?あなた、それなのに何をしているのかしら。これだから海兵は嫌なのよ。わたくしの夫を見習いなさい」
だから室内で靴は脱げ、とサカズキは言いかけて止めた。コツンとヒールの音を一つ高らかに響かせてご登場したは暫定世界の敵ことパンドラ妃。なぜ「妃」とつくのかは盛大なネタバレになるので控えておくが、それはさておき、現在パンドラ・はその長いおみ足でコルテス・コルヴィナスを踏みつけた体勢、腰に手を当ててサカズキを見上げていると、一見して「何があったんだ」と眉を潜めずにはいられぬ状況。
「船大工としての腕は否定しねぇが、政府に協力的たァ言えん男を見習う気はねぇ」
「まぁ、助けて差し上げたのにその言い草。お礼の言葉の一つもいえないのですか」
嫌なことを思い出させるなとサカズキは顔を顰めた。
己の人生の恥、汚点ができてしまった。よりにもよってパンドラなんぞに助けられるなど。いや、別にこの女が現れずともどうにかできた自信はあるが、しかし結果は結果である。
コルテスに背後から刺され、を奪われた事実で動揺の走っていたサカズキはすぐには動けなかった。海楼石がしこまれていたということもあるが、リコリスでそれは慣れている。反撃しようとした途端、軽やかな歌声が一行ばかり聞こえ、そしてコルテスが這い蹲り、その背を容赦なく踏みつけて表れのがこの女である。
「わしに礼を言われてぇか」
「凍りつけるほどの寒気がするけれど、貴方が見下す魔女風情に頭を垂れなければならず屈辱を感じているのを見るために耐えます」
「ヤーヤー、性格悪ぉすなぁ、パンドラさま」
「お黙りなさい。口を開いてもよいと許しを与えた覚えはなくってよ?」
背中を踏みつけられたままコルテスが茶化せばぴしゃり、と切り替えした。一応血縁関係はあるのだが、どうもこの二人の仲は宜しくない。
「それで、わたくしのリリスはどこです?」
「クザンが連れて行った」
「あなたそれを許したのですか」
無能、と罵られても反論するつもりはなかった。を奪われた。同僚、クザンであるから安心できるなどということは欠片もない。己は何もかもからあれを守らなければならないのだ。たとえ気心の知れた相手であっても、奪われてはならなかった。
パンドラが眼を細める。その狂気に満ちた瞳の赤さが濃くなり、サカズキを叩こうと手が上がる。避ける気はなかったのに、パンドラはその手を鋭く振り下ろすことなく、結局もとの位置に戻した。目を伏せ、そして再度コルテスを踏みつける。蛙を押しつぶすような音が聞こえたが、それは二人とも無視をした。
「わたくしは客です。客が尋ねたらお茶の一杯でも入れるのが礼儀なのではないですか」
肺を狙われたのか妙な呼吸を繰り返すコルテスをとどめとばかりに踏み越えて、パンドラ・は髪を揺らす。何度も訪れているだけあって茶を飲むに相応しい場所、すなわち庭にあるテラスを目指し進む。
「あなたが奪われたのなら、あなたがあの子を取り戻すことはできない。だからあの子は自らの足で帰ってきます」
当然のように白い椅子に腰掛、パンドラは足を組んだ。サカズキはこの女に励まされるような日が来るとは夢ぬも思わぬもので、聊か驚きながら、一度コルテスを踏みつけて己も庭へ出る。
パンドラの向かいに腰掛ける気にはならず、腕を組み、庭に佇む。
クザンがを帰す、とは思えなかった。何を考えているのかわからぬが、しかし、いつも通りのふざけた雰囲気があの時のクザンにはなかった。どんな風に思われても構わぬと、そういう覚悟をサカズキは感じた。だから、そう決めたクザンが自らの意思でを送り届けるとは思えない。
ならば己が迎えに行かねばならぬのだ。だがサカズキは、そうしても元通りにはならぬとわかっていた。
だから待てと、そうパンドラが言う。
「飲みたきゃ自分でいれろ」
サカズキは茶の催促を目でしてくる魔女を睨み飛ばし、ふん、と鼻を鳴らした。
(あれが帰ってきたら、観たいと言っていた夜景に連れて行ってやると、そう言おう)
Fin
(2010/11/25 21:35)
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