まっすぐ走れば見つかるから、できる限り曲り建物、あるいは障害物を利用して逃げるようにと教えてくれたのはキャスケットを被った船員だ。名前は何度か聞いたのだけれど、に覚える気がないのかずっと頭の中に残らずにいる。

「……はぁ、はぁ…はぁ…」

もうどれくらい逃げただろうか。はぎゅっと、激しく鼓動する心臓を服の上かえら押えて必死に呼吸を整える。立ち寄った港町。物資補給はいつものことで、とりあえずログが溜まるまで停泊するから最初の偵察という意味での、散策。最近噂のハートの海賊団、おおっぴらに歩き回れるわけもないが、格好さえ改めれば結構なんとでもなるんだと船員たちはあっさり言った。

トラファルガー・ローの船に半分拉致られるように乗せられてからは一度も船から降りていない。降りるな、と船長のきついお達しがあったのだが、最近のローは妙に機嫌がいいらしく、今回は「一時間だけだ」と限定はされたけれど珍しく許可も出た。最初に偵察に行った船員たちの話によれば、この島は比較的平穏で、今は面倒な海賊たちもいないらしい。と言っての独り歩きが許されるわけもない。当然のようにお守役に、賞金首ではないので手配書もなく、顔も海兵に知られていないだろう新米がその役に付けられた。新米、といってもあのトラファルガー・ローの船に乗るような人間である。並の生き物でもないのだが、この島の、賑やかな町のあまりの人ごみの多さに、とはぐれてしまった。

いやぁ、あはははは、と、無事に船に戻れれさえすれば笑い話だっただろう。いや、ちょっとベポがにっこりきゅうきゅう笑いながら新米を船尾から吊るすくらいはしたかもしれないが、ちょっと変わった日常、程度のはずだった。

それがいま、、必死に必死に逃げている。誰にか、など考えるまでもない。海兵に、だ。









そのさん!







久し振りの陸の上。船上生活が続いたためか、なんだか足元がふらふらしなくもないが、機嫌よく、は一人で町を歩いていた。一緒にいた人間と離れた時は一瞬焦ったが、幼い子供じゃあるまいし、迷子になったわけでもない。時間までに船に戻ればきっとはぐれた仲間も戻ってくるだろうと気安く考えて、露地に並ぶいろいろな店を覗いていた。

色とりどりの装飾品も面白いのだけれど、それよりもが熱心に眺めているのは絵葉書のたぐいだ。いろんな場所の写真のはがきだったり、絵だったりとさまざま。グランドラインは船同士の行き来は、確かに便利とはいえないけれど郵便技術はその分発達している。そのためにいろんな場所で葉書や封筒、便箋が売っていた。

「手紙、ねぇ」

きれいな桜の絵の描いてある葉書を手にとっては何気なしに溜息を吐く。トラファルガー・ローの船に乗ってもうしばらく経つ。自分の記憶は一向に戻る兆しがない。いや、時々、ぴりりとした痛みがこめかみに走るのだけれど、そのたびに、毎夜耳元で囁くローの声が蘇るのだ。まるで何か、底から湧きあがろうとするものを力ずくで抑え込むような強さすらもったその声は抗う気力すら押さえつける。だからはもう何もかもを諦めてしまいたくなる。それがいけないのだろうか。そして思う。はたして自分は、思い出したいのだろうかと。いや、自分がどんな人間だったのかもわからない。今の、己の知っているだけの記憶でも別段困ってはいない。

(日常が海賊だっていうのは、道徳的にどうかとは思うけど)

ハートの海賊団。どう考えても「善良な」集団ではないのだけれど、みんな、には妙にやさしい。やさしいことが良いことなのかどうかと、盲目的な判定を下せる己ではないことがを安心させ、そして結論、ハートの海賊団の人間を気に入っていた。そして思う。こう、何か妙な判定のつけることのできる己の根底は何なのだろうかと。いや、それが失くした記憶に関係しているのだろうとは思う。己がどういう人生を歩んできたか、その結果がこの、思考なのだろうとは、わかった。

「そちらを購入されるのですか?」
「あ、うぅん、見てるだけ…――」

思考に沈みじっとハガキを持ったまま停止していたに声がかかった。はっとしては愛想笑いを浮かべ、葉書を戻す。店主か何かが声をかけたのだろうと思ったが、不意に、視界がかげる。反射的に顔をあげて、は目を大きく見開いた。

「こんなところで、何をなさっているのです」
「……ッ…!!?」

まっ白いコート。黄色い腕章。仕立ての良いスーツを着込んだ背の高い海兵。は言葉に詰まった。いや、落ち着け自分!と心の中で叱責する。ハートの海賊団に乗船してからが自分の記憶だから、海賊団に身を置いている記憶しかないから、海兵を見ると心臓が止まりそうになるほど驚く。
だが別に、は海賊ではないし、手配書などないのだから、こうして声をかけられたのはただの偶然、だろう。

まさかハートの海賊団に乗っている人間であることが知れていて、情報を聞き出すために、ということも考えられるが、しかし、ずっと船の中に閉じ込められていた自分の情報が出ている可能性は低い。

ぐっと腹に力をこめて、は海軍将校を見上げた。

「買い物です。人に頼まれて」
「この島の子供ですか?」
「海兵さんですよね。いつも御苦労さまです」

危険だと思われる質問には答えずに、幼い子供であるなら当然の反応をしてみる。海兵がわずかに目を細めた。

「下手な芝居は止めましょう。時間の無駄です。あなたを探していました」

次の瞬間、は店の商品をひっくりかえして隙を作ると、一目散に逃げ出した。素早く逃げる己に、その海兵が何か叫んだが、それは聞こえなかった。






なぜ自分は逃げているのか、わからない。けれどあの瞬間、こちらに延ばされた腕に恐怖を思い出した。

捕まってはいけないと、そう思った。なぜかはわからない。冷静に考えれば、自分は指名手配される海賊団の船長に勝手に連れてこられた一般人だ。ここで海兵に保護されれば、自分の身元なども調べてもらい元の生活に戻ることもできるはずだろう。少なくともトラファルガー・ローにつれてこられて最初の一ヶ月はそう願っていた。だがいま、己は逃げたのだ。

ハートの海賊団の皆の情報を話したくないから、だろうか。いや、それにしたって、さしたことを知っているわけでもないだろう。自分はみんなの名前さえ覚えられていないのだ。それに小さな子供だから「覚えていない」とか、ぼんやりとした回答だって、許されるはずだ。

ではなぜ、自分は逃げたのだろう。

「待て!!なぜ逃げる…!!」
「っ、もう追いついた!」

とん、と、袋小路に逃げ込んで、その塀を飛び越える。追いかけてきたのは先ほどの海兵だ。一人、というのが一瞬の頭に引っかかった。もし、自分がハートの海賊団の関係者とばれて追われているのなら、供といえば小さいがしっこいことはだれもが知っているだろう。なら、せめて二三人は応援を呼ぶのではないだろうか。あの海兵は将校だろうから、一人で歩いていることは少ないはずだ。最低一人の、部下を伴う。(なぜ、自分はそんなことを知っているのだろう)

「ま、待て!!!あなたに危害を加えるつもりはない!なぜ逃げるのですか!」
「追っかけるからだよ!なんで追っかけるの!」
「あなたが逃げるからです!止まってください!」

いや、そうしたら捕まるだろう。はうーんと首をかしげたが、やっぱり逃げることにした。

「っ……!仕方、ありません…」

ぴたり、と、追尾の気配が消えた。おや、と、が振り返ると、追いかけてきていた海兵が立ち止まる。追いかけるから逃げる、といった言葉を信じたのか。もぴたり、と立ち止まった。

「怪我をさせることは、本位ではないのですが」

低い、何かを覚悟した声がの耳に届いた瞬間、ひゅん、と、風がなった。

「ッ……ぁ!」
「申し訳ありません。しかし、これ以上あなたの逃亡をゆするわけには…」

足を、切られた。左足、踵の腱がきれいに傷つけられている。あふれ出る、の記憶がある限り経験した事もない痛みと血の量に体から力が抜ける。がっくりと崩れ落ちると、反射的に右腕が上にあがった。何の動作かはわからない。だが、海兵がうろたえた。

「させません!」

何をさせないのか。自分がただ腕をあげたのが、どうして焦ることなのか。はわからなかった。振り上げた腕をどうすればいいのかもわからないのに、男がの腕をめがけて剣をふるう。

(腕、落とされる!?)

そういう決意が込められている。がぎゅっと目をふさぐと、ギィイン、と、金属同士の重なる音がした。

「き、貴様は…!!死の外科医、トラファルガー・ロー!」
「俺を知ってんのか」

見ればギリギリ、と海兵の繰り出した一撃を剣で受け止めている、見慣れた後姿。はただ驚いて目を大きく見開いた。

「なんで、ここに」
「お前と逸れたっつー話を聞いて飛んできた。……少し、遅かったか」

ローはの足を見て眉を潜める。

「自分で止血はできるか?」
「あ、う、うん」

反射的にうなづいて、いや、そうじゃないとは首を振る。ローが、来てくれた。一瞬ほっとしてしまったが、この男、この、馬鹿、何を考えているのだ!

「馬鹿かい!?相手は海兵なんだよ!?しかも、将校だ!今すぐ船を出さないと・・・・・・!」
「俺に指図するんじゃねぇ。いいからお前は、船に戻ってろ」
「でも、」
「こいつの相手は俺がする」

チャキリ、と、長刀を構えて将校に向かい合う。いつでも能力を発動できるよう空いた手はいびつな気圧を生んでいた。

「っ……」

だめだと、は思った。この海兵は、おそらく能力者だ。先ほどの一撃はただの超人的な身体能力だろうが、には、わかる。なぜかなど、もうわらないのが当たり前のように思えてきたからそれはどうでもいいのだけれど、わかるのだ。この男は悪魔の声がする。ローのものよりももっと強い、悪魔の実の声がする。

「行け!」

ためらい動かぬを肩越しに振り返って、ローは一言声をあげた。

ぐっと、は唇を噛んで立ち上がる。止血はまだ完全とは言えないが、それでもいつまでもここにいるわけにはいかないだろう。

おそらく能力者同士の戦いになる。自分は足手まといだ。トラファルガー・ローは強いけれど、でも、しかしまだ、駆け出し者なのだ。そういう、妙な上目線からの判断がにはあった。そんな傲慢に相手をどうこう定められるほど強い自分ではないのだが、その確信が妙に信じられる。は走りながら、後ろを振り返った。

「死んだら、笑ってやるからね!トラァフルガー・ロー!」
「だからローでいいって言っただろうが」

この期に及んでまだそんな阿呆なことを言っているのかとはあきれ、しかし、それでも不安はぬぐえなかった。相手は海軍本部の、将校。そんな相手に、はたしてローといえど、勝てるのだろうか。







「ま、待て!!!」

走り出したの後を追うように足を踏み出す将校。その懐に素早く踏み込み、ローは剣を突き付けた。

「おっと、まずは俺の相手をしろよ。海兵」
「貴様があの方を連れ去ったのか……」

低く呟く海兵の声は、憎悪さえ含まれているようだった。ということは、この男は悪魔の実の能力者らしいとローは思い浮かぶ。こういう意味では便利な「飢餓」だ。この反応からすれば自然系か、肉食系の動物系といったところだろう。さて、どうするかとローは戦闘を考える。

「人聞きの悪いことを言うなよな。第一、お前らの探してるやつじゃない」

構えた海兵、まずは自分を倒さねばならぬと判じたか。その殺意が膨れ上がる。たらり、とローのこめかみに汗が伝った。名は聞いていないが、この海兵の刀や、顔に見覚えがある。面識はない。「厄介な本部の将校」の一人だろう。一人でどうにかなるだろうかと、そういう覚悟が浮かぶ。

「白々しい嘘などつくな!あの少女は、あの方は我らの、」
「顔をしっかり見たか?よく確かめもしないで決めつけるんじゃねぇ。あれは、あいつは、俺のとこの船員だ」

言いきって、が無事に船につくまで時間を貸せがなければと、思うのはそこだった。






勝負は、なんとかついた。だが海軍将校相手。しかも、本部の実力者だったか。ずいぶん、時間がかかった。手こずった。それでも互いに、おおごとには出来ぬ身。周囲への被害は最小限に留めている。

「はぁ…はぁ……あの方を、返せ…!トラファルガー・ロー…!!」

もう半死半生の、将校が(体がいつくか、部分がないのに)それでもまだ諦めぬ。がしっと、ローの足をつかんで、必死の形相を向けてきた。歯はかけ、鼻血を流し眼球はつぶれてそれでも、まだ諦めていない。

「何度も言わせるな。人違いだ」

とどめを、刺さなければ。よろよろと、こちらのローも半死半生。相手はずいぶんと厄介な能力者だった。だが、ローの能力とは相性が良かったのだ。だから、勝てた。そういう自覚がある。もしこれが、非能力者で、能力なしに本部の将校に上り詰めた人間であったらどう転んでいたか。

「黙れ!我らがあの方を間違えようか!若造が!貴様はことの重大性が分かっていないのだ!!貴様ら海賊のもとにいるなど、あってはならぬ!取り戻そうと大将が直々に動くぞ!!」
「だから言ってるだろ。――あいつは、別人だ」

腕を振って、叫ぶ男の首を落とした。能力を使って行えばまだ命がつながっているだろう結果も、ただの人間の力、一閃で落とせば死ぬ。
ごろんと転がる音を後ろに聞きながら、ロー、ずさり、と、倒れこんだ。

(……く、そ…)

目が霞む。血を流しすぎた。体温もずいぶん下がってきた。は無事に逃げきれただろうか。船を飛び出したとき、もし自分が戻らなかったらどうするかの指示を出してこなかったことに気づく。こんな事態になるなど思っていなかったから当然だ。あいつらならなんとでもするだろうが、そういう連中を集めたのだが、だが、ここでくたばれない。

事態が事態なだけに応援を呼ばなかったらしい。あの将校、たったひとりでどうにかしようとした。この自分を、トラファルガー・ローを、たった一人で抑え込み、そしてあいつを捕えようとした。そんなことは、可能性が低いだろうとわかっているだろうに、そうしたのだ。そうまでしなければならなかったのだろう。だから、ローは勝てた。あの将校がなりふり構わず、応援を呼び、組織の力をフルに活用して包囲網でも張れば、おそらく自分たちの冒険はここで終っていた。

倒れこんだ体制のまま、ローは何とか目を開いた。このままこうして這いつくばっていれば格好の餌食である。そんなMなマネをするつもりはない。第一、まだ、にローと呼ばせてない。そこんところを諦めたら何のために生きているのかわからなくなるだろうと、冗談のようななかなか本気なことを考える余裕は、まだあった。ならまだ、なんとかなる。

ぎりっと歯をくいしばって、腕に力を入れる。腹筋、腹も刺されたのだった、筋肉が固まらない。それでも、まだなんとかなる。帰らなければ。船に、仲間のところに。まだまだ、こんなところではくたばれない。

(泣いている子供がいる。泣くな、と言っても訊きやしない。しようがないからとその頭が撫でられた)

泣いている子供は、子供のくせに目つきが悪くて、寝不足なのかと突っ込みたいような、くっきりとした隈があった。

濃紺の髪をそっと撫でる手は、泣いている子供と変わらないくらい、小さな手。だが白く、やわらかな手だった。






ぎゃぁあああああ、と、の絶叫が響いた。必死に走って船に戻って、仲間を呼んできた。「ちゃんはここにいなよ!」と引き留める全員の背中を蹴り飛ばして一緒に来た。
路地の隅に転がっている血まみれのローを発見しての第一声である。をおんぶしていたベポはツーン、と大音量を耳元で聞いて一瞬いやそうな顔をした。

「ね、ねぇ、トラファルガー・ロー、死んじゃうの?」

ひょいっと、ローを抱え上げているキャスケット帽と長身に、PENGINと書かれた帽子に問う。ひどいけがだ。自分のせいでと、思う心がないわけでもない。が心配そうに眉を寄せると、キャスケットが笑った。

「こんなところで死ぬような船長じゃねぇさ」
「そうだな。こんなところで死なれても困る」
「っていうかちゃんに心配されてるところ見れなくて悔しがりそうだね」

船員たち、口々に言いながら焦る様子がない。ほっとしては笑いかけたが、彼らの目が誰も、笑ってはいないことに気づく。自分を、気遣ってくれているのだとわかった。ここでローが怪我をしたのはが海兵に追われたからだ。どうしてかははわからないのに、皆は、わかっているのだ。その上で、ローの行動を止めず、そして瀕死の状態になった結果を、その原因であるを責めることもしない。

ぎゅっと、は唇を噛んだ。こうして、ここに自分がついて来たことを後悔する。自分がいなければ、皆は、どうしただろう。ちゃんとあせって、心配できて、今に回されている気の全てをローのために使えただろう。

「……」

ごめんなさいと、唇からこぼれそうになった。だが、それを、そう、思わせないために皆は気を使ってくれているのだ。この上さらに、迷惑をかけたくない。手のひらを握り、自分を背負ってここまで運んでくれたベポに気づかれないように気をつけた。

ローから視線を外せば、地面に転がっている海兵の死体に気づく。見覚えはない。死んで、しまった。少し前までは自分を追いかけていたのに。もう動かない。死んでしまった。自分を追いかけたから、死んだのだ。

(……僕は、誰なんだろう)

知らなければならない。そう、思った。
人が一人、死んでしまった。そして今、ローも死にかけている。自分が、あの時この海兵の手を取っていれば海兵は死ぬこともなく、ローはひどい怪我をすることもなかったのだ。

なぜ、この海兵は自分を追いかけたのか。それを、は知らなければならないと、そう、思った。

でなければ、きっと、こういうことがこれから何度も、起こる。そのたびに、ローは自分を助けてくれるのだろうか。なぜ、助けてくれるのだろう。いや、いつも都合よくローが、というだけならまだいい。ベポや、ほかの皆がその場に居合わせたらどうなる。ローでさえ、この状態だ。キャスケットやほかの皆は、生き残れるのか。

ぼんやりと、床に転がる首を眺めては、目を伏せた。





Fin


 

(何も思い出すな、頼むから、忘れたままでいればいい)