真夜中にディエス・ドレークは突然大将赤犬に呼び出された。普段こういうことがないわけでもない。時折赤犬との情事、うっかり赤犬がやりすぎての再生能力が追い付かず凄惨な有様、ということは何度かあり、その度に寝込むの看病をドレークがすることになる、ということはあった。だがしかし本日の時刻はまだ23時。深夜には違いないが、赤犬とがそういうことを初めてヒートアップするには聊か早すぎるもの。と、そんな、知りたくもないし考えたくもない大将と魔女の生活リズムを頭の隅で、それでもやっぱり考えてしまいながらドレークは夜の海軍本部回廊を歩いていた。
大将に呼び出されたためしっかりとスーツ、正義のコートを纏う。コツコツと軍靴を鳴らして進む動作は日中と変わらぬというのに日の当たらぬ回廊というのはどこか非現実的な感覚がした。歩きながらドレークは外で未だ蝉が鳴いていることに気付く。夏といえば聞こえるのが当然のものであまり意識はしていなかったが、こうしてひっそり密やかな夜の道、道々に連れもないとなれば自然外部の音に耳を欹てるというもの。蝉の声。よく、が蝉を捕まえたがった。虫取り網をもってこいとある日突然言われて日中必死にあちこちの蝉捕獲を命じられたのはつい先日のこと。土の中で数年過ごし地上で鳴くのは僅かというその虫をは妙に好む。いや、以前はあまりに暑すぎるさなかに蝉の声が一層暑さを実感させると蝉に八つ当たりしていたが、どうもどうやら彼女の養い子がいる水の都では木々土が少ないため蝉が滅多に見れぬそうで、の養い子が面倒を見る裏町の子供らに蝉を見せてやろうという腹積もりらしかった。そのうえ水の中で幼虫時代をすごせる蝉を現在造りだそうとしているとかなんとか。なら本当にやりそうだからドレークには顔を引きつらせるしかない。
その蝉の音。まだするのだ。今年は猛暑で、夏が長引いている。本来であればこのころにはもう鈴虫の声になっているはずだ、と例年を思いドレークは時期の変化を感じる。暦の上ではもう秋口に数えられてもおかしくない月であるのに、未だに海軍本部を有するこの島は暑さに見舞われていた。
ドレークは北出身のため、寒さにはめっぽう強いが暑さには少々、弱い。それでも弱いといって故郷を離れ本部で過ごして随分経つのだから当初、初めて北の海を離れた時よりはマシになった。とはいえやはり暑さには弱く、こうして日が沈んだ夜の方が過ごしやすいのは間違いなかった。暑いとドレークはついついの身を案じる。自分以上には暑さに弱い。そもそも我慢というものを知っているのか怪しいほどだ。暑ければ素直に「暑い!」と連呼し、極端に外に出るのを嫌がる。肌の白さを考えればまぁ無理からぬこととも思うが、ドレークは暑い日についつい、今日はは熱中症にかかりはせぬか、水はきちんと飲んでいるのかとあれこれ気にかかる。自分が側に居るときはいいが、居ない時は世話役がきちんとしているだろうかと、気にかかって仕方ない。そういう心があるから未だにの「遊び道具」認定されているのだと、いい加減にドレークにも自覚があるが、心配なものは心配なのだからどうしようもない。
さて、そういうわけで今夜この珍しい時間に大将赤犬に呼び出された。寝室ではなく執務室、というところが聊か妙ではあるが、それならいつもの「加減できなかった☆」という状況でもないのだろう。コツコツと進み、ドレークはやっと目当ての執務室。まだ明かりのついている唯一つの部屋にたどり着いた。
使用する人間の大きさを考慮して海軍本部奥の建物はずいぶんと大きいが、赤犬など大将の執務室は一層大きく感じられる。などはひょいひょいと気軽に入るけれど、やはりドレークには何度足を踏み入れても敷居高く、自身が拒まれているような妙な威圧感を覚えるのだ。そういえばドレークの同期であるスモーカーもやはり何の遠慮もなく青雉の執務室、ソファでくつろいで葉巻を吹かせると青雉直々に聞いたことがあり、ドレークはなんだか敗北感を覚えたことがあるが、まぁ、それはどうでもいい。
軽く夜分であるからこそ、聊か調子を落とした声、低く低くを意識しながらドレークは己の到着を短く告げた。扉越しである。ノックと共にあけてうっかりが赤犬に押し倒されているところなんぞ目撃したらドレークはちょっとしたトラウマになる。一応ドレークはの保護者のような気分であるので、手塩にかけて世話をしてきたが自分よりも遥かに年のいった(失礼)赤犬にそういうことをされている、というのは、できれば見たくない。そういう必死の防衛で、今のところドレークは、これまた周囲に知られれば意外だと思われるかもしれないが、今のところただの一度も、ドレークはとサカズキが必要以上に引っ付いている場面を目撃したことはない。そういう慎重さで軽く扉を叩けば、中から返事があった。
「ディエス!遅いよ!!ぼくが呼んだら3秒で来なよ!」
聞こえてきたのはの声。真夜中の暗さと静けさを吹き飛ばすような明るい、あっけらかんとして、そしてしっかり外道な声・言葉である。ドレークはとりあえず情事の最中ではないことに安堵するべきか、それともまた無茶なことを堂々と言っているに胃を抑えるべきかと少し考え、溜息一つの後に扉を開けた。
「来たか」
「お呼びでしょうか。大将赤犬」
室内の明るさが一瞬ドレークの目を眩ませる。しかしすぐに慣れて室内を視界に入れた。日中と変わらず執務机に着いた赤犬と、やはりこちらも平時と同じく定位置であるソファに腰掛けているがいた。部屋の明かりでも鮮やかに輝くの髪色を眺め、怪我をしてもいなさそうな様子に安堵する。
「悪ぃのう。急に呼びたてて」
「いえ。何か緊急な用向きでしょうか」
一応勤務時間外に呼び出したという意識はあるらしい赤犬に、おそらく(というか確実に)表面的でしかないだろう謝罪の言葉を向けられドレークは首を振る。
問えば赤犬が顔を顰めた。手元で何やら書類を認める手は止めず、ちらり、と一度に視線をやる。
「用件はあれに聞け。わしは関わらねェぜ」
「魔女殿に、ですか…?」
ドレークはと二人だけのときや青雉などしかおらぬ場合はを名前で読むが、一応赤犬の前ではきちんと形式に則りを「魔女」とそう呼ぶ。畏まるたびにが嫌そうにするが、こればかりは仕方ない。
赤犬に習いそのままに視線を向け、ドレークは顔を引きつらせた。
「今日で夏休み最後なのに、ぼく宿題全然終わってないんだよねぇ」
振り返った先、先ほどから何やら膝の上に広げているとは視界に入ってきていて思ったが、今はそれ以上のノートやら何やらを抱えたがにんまり、と意地の悪い笑顔を浮かべてこちらを見上げていた。
熱い夏、ハイ!物事は計画性を持ちましょう!!!
「というか、夏休みって何だ。年中夏休みそのもののお前が何言っているんだ。その前に宿題って何だ」
色々言いたいことはあるが、とりあえずその二つだけを突っ込みをいれドレークは赤犬の執務室の隣にある魔女の控え室の椅子に腰掛けた。普段はないはずの木のテーブルにトントンと束にしたプリントを叩いて整える。時刻は十一時十五分。時間がわからなくならぬようにとドレークは懐中時計をテーブルの上に置き目の前で同じようにプリントを整えているの顔を見る。
夜分というのに眠たそうな様子も見せずきゃっきゃと声を弾ませていた、ドレークの問いにきょとん、と首を傾げて見せる。その仕草は愛らしいのだが、ここで油断するととんでもないことになると承知のこと。ドレークが見つめているとが頬を膨らませてそっぽを向いた。
「夏休みは夏休みだよ!きっかり一ヶ月!ぼくちゃんと毎朝ラジオ体操まで参加したんだから!」
「いや、お前。夏休みというのは学生や訓練生にあるものだろ…」
自分の常識の範囲で物事を語るのはあまり好きではないドレークだが、しかし、こればっかりは仕方ない。夏休み、というのは普段平日・休日と区切ってしっかり勉学あるいは職務についている人間が長期的に休める夏季休業のことと、そう把握している。基本的に自由奔放、年中休みそのもののにそんなものがあるわけがない。
夢でも見ているのか、それとも暑さでやられたのか、とそういう目を向けるとにべしん、と叩かれた。
「ぼくだって意味わかんないよ!でもぼくが遊びほうけてるとサカズキが、その、迷惑かもしれないからって…ぼくだって、その、たまには…!!」
「赤犬関係か」
あー、なるほど、とドレークは合点いったようななんかもうなんでもアリだと諦めたくなるような、そんなことを考え額を押さえる。
なるほど、の話を聞けば。年がら年中好き放題をしている悪意の魔女。赤犬の側にいればそれで無問題ではあるのだが、ここ最近あまりの暑さでがだれていると赤犬が感じ、自他共に厳しい大将殿。そんなに暇なら何かしろ、とに命じ、それを聞きつけたアーサー・ヴァスカヴィルがに嬉々として「夏休み」を提案してきたのだという。
暇をもてあますというよりは、何か目新しいことだとが興味を持って一ヶ月の夏休み体験、を今回することになったらしい。
「アーサーが言うにはね?夏休みっていうのはただ遊んでればいいだけじゃなくって勉強したりラジオ体操に毎朝行くんでしょ?ラジオ体操とか読書感想文はやったんだけど、ぼくドリル系をすっかり放置してたんだよね。っていうかぼくに毎日習慣づいた学習とか無理だしー」
アーサー卿の名前まで出て、ドレークは本格的に突っ込む気力が失せた。だが世の多くの人間が待ち望む夏休みもにとっては少々毛色の変わった、ものめずらしいイベント、でしかないのだろう。
「イベントだよね。ぼくには」
「だからお前は、人の心を読むんじゃない」
「呼んでないしー。ディエスがわかり安すぎるのが悪いんだしー。ほらほら、そんな被害妄想してないでさっさとぼくを手伝ってよ!」
ひょいっとが指を振れば筆記用具が落ちてくる。ドレークは執務中は羽ペンを使用するのだがは鉛筆を好むらしかった。しっかりと小さな鉛筆削りまで用意されているし、ゴミ箱も完璧だ。形から入るところがにはある。
「手伝うというが、こういうものは自分でやらなければ意味がないだろう」
「そんな正論は聞きたくないよ!」
夏休みの宿題。ドレークも覚えがある。いや、宿題、というか課題だったが。まだ海軍に入りたてのころは夏休みもあった。(当たり前のように今はない)その期間にこなしておくべき課題、海兵としての心得や自由研究で海賊被害の移り変わりなど、さまざまなことに励んだものだ。そこそこの十代後半はスモーカーやヒナなどと共に課題の成績を競い合いもしたが、そういえば結局ドレークはヒナには一度も成績で勝てなかった。懐かしい、と思い出しつつ、目の前で計算ドリルとかかれたものを睨んでいるの頭をぽん、と叩いた。
「お前がまじめにやろうとしているその姿勢でアーサー卿は許されるんじゃないのか?」
というか、そもそもこの夏休みイベントはの暇つぶしなのだから宿題などやらなくてもいいのではないかとそんな素朴な疑問がドレークにはある。海兵のようにやらずに終えれば罰則がある、ということも、アーサー卿が関わっているのならないだろう。
ドレークとしては出されたものはしっかりとやれ、と思わなくもないが、相手はなのだ。常識を求めるだけ無駄だと割り切っている。
そういうふうに言えば、が不満そうな顔をしてきた。
「ダメ!だって、サカズキがぼくが夏休みの宿題を全部終わらせるなんて不可能だとかそういうこと言うんだもの!ぎゃふんと言わせなきゃ気がすまないよ!」
「……堂々とおれに手伝わせようとしておいてお前は何を言っているんだ…」
赤犬なら言いそうな言葉だが、とりあえずドレークはそこを突っ込んだ。
まぁ、赤犬のこと。アーサー卿が関わっているのが気に入らずそういう乱暴なことを言ってきたのだろうが、からすれば己の力を見縊られたということ。(事実終わってないだろうに)意地でも夏休み中に終わらせる!とそういう話らしい。
「なぜおれが巻き込まれなければならないんだ…」
「だって!夏休み最後の日まで終わってないものは保護者が手伝っていいんでしょ!?それは反則にならないんだってクザンくんが!」
「……」
よし、とりあえず青雉には今度ゆっくり話しをしにいこうとドレークは心に決めた。基本青雉がどんなだらけた性格をしていようとドレークは構わぬが、にいらんことを吹き込むのは止めねばならぬ。普段必死にドレークがの教育をしているのに、端っから青雉にろくでもないことを教えられて悪化の一途をたどる一方ではないか。
「、言っておくがそれはかなりイレギュラーな場合だ」
「そうなの?」
「普通夏休みの宿題は初日から割り振って夏休みの終わる二週間前には全部出来ているものだ」
自分はそうだった、とドレークは思い出しながら答える。しかしは首を捻って眉を寄せる。
「でもクザンくんが夏休みの醍醐味は最終日に徹夜することだって」
赤犬に青雉の入室を暫く制限していただくように進言しよう。
ドレークは心に深く誓い、額を押さえる。
「……とにかく、手伝いはするが問題を解いて書くのはきちんとお前がしろ」
そうこう話しているうちに時刻は十一時半だ。が明日何時にアーサー卿にこれを提出するのか知らないが、あまり夜更かしもさせられぬ(保護者の鏡)手伝うには手伝うが、甘やかさず問題を解く手伝い、とそういうスタンスを決めると、が小ばかにするように鼻で笑い飛ばしてきた。
「…なんだ」
「あのねぇ、ディエス。一応言っておくけど、いくら「夏休み」だって言ってもアーサーがぼくに出す問題だよ?」
「それがどうした?」
「ディエスは解けないと思う」
なんだその失礼な発言は。
むっと、珍しくドレークは不快に思って眉を跳ねさせる。確かに考えてみればに出されている問題ならそれなりの高等問題だろうとは思うが、自分とて将校。武功だけではなく頭脳の方も悪くはない。見縊られたのか、と思い、否定しようとドレークは問題用紙を一枚取り、沈黙した。
「………」
「だから、ぼくが手伝えっていうのは、ぼくが片っ端から問題解いていくからディエスはそれドリルに写してってこと!」
問題を見てドレークは硬直した。
専門ではないが多少なりとも知識のあるはずのドレークにはまるで意味のわからぬ問題の数々。びっしりと紙を埋め尽くされた文字の列に、久しくなく冷や汗が出る。しかしそれらをはさして問題にはしていない。むしろ、問題なのはきれいに字で書いて移すことだ、というのだから、どんなにふざけた言動をしていてもは叡智に富んだ魔女なのだ、とそう再認させられるもの。
「……というか、解けるんならなぜ今日までためてたんだ?」
残すことあと数時間でこれを片付けるのはそう難しくない、とそういう。それならなぜ今日まで放置していたのだと顔を向ければ、途端の顔がぼっと赤くなった。
……また赤犬関係か。
これ以上突っ込むのもなんなので、ドレークは溜息を一つ吐いて、とりあえずがすでに解いている問題の答えを写すことにした。
+++
気付けば目の前でが机に伏して熟睡していた。
赤い髪が木目板の上に散らばり鮮やかさを強調している。静かな寝息。問題を全て解いてから、急にこてん、と寝てしまったらしい。ドレークは自分が書き写す速度よりもが問題を解いていく速度が速いものだからつい集中して、が眠ってしまったのに暫く気付かなかった。集中する前は時折「これなぁに?」「あぁこれは」などと読み方を確認されたことは覚えている。
「こうしていれば害がないんだがな」
すーっとこちらにかすかに聞こえる寝息。今日はどれだけ起きていたのか知らないが、まだまだは幼いのだ。(実際年齢はさておいて)深夜まで起きている、というのは酷だろう。それによくよく考えてみれば、いくら赤犬への意地があるからとて傲慢尊大自由奔放極まりない魔女がこうしてきちんと何かに向き合い達成しようとしている、というその姿勢がドレークには嬉しい。
最後の問題を書き写し終え、トントン、と用紙を整え傍らに置いた。の控え室には寝台はない。それゆえこうして眠ってしまったのなら寝室に運ばなければなるまい。一度赤犬の執務室に声をかけるべきか、それとも先にを運んでおくべきか、と考えつつ、ドレークはの寝顔を眺めた。
普段皮肉めいた物言いや嫌味ったらしい笑みを浮かべてばかりのだが、寝顔ばかりはどこまでもあどけなく害も毒もない。すやすやと、長い睫を伏せて寝息を立てている。室内は外よりは涼しいように配慮がされているものの、それでも気温は高いので、うっすらとの額に汗が滲んでいた。張り付いた前髪を払おうと手を伸ばしかけ、ドレークは硬直した。
「で?おどれはわしの許可なくこれに触れられると思うちょるんか」
振り返らずともわかる。
いつのまにやってきたのか、背後になんだか怒気を纏った大将赤犬が立っていた。
「……」
辞表の書き方を、真剣にドレークは検討した。
というか、深夜に呼び出され自分の仕事でもない妙な書き取り作業につき合わされ、それでも文句一つ言わずにいたのに、なんでこう理不尽な嫉妬の対象にされなければならないのか。
振り返りたくない。
もう本当、出来れば今夜ここに来たことなんぞ忘れてさっさと部屋に戻り眠りたい。
だが振り返らぬのは上官への不敬であるし、何より質問に答えぬのも性格上嫌だというのがドレークだ。赤犬は怒気を露わにはしているのに、静かに眠るにはその気配を悟らせぬのかしっかりと全てドレークにのみ向けている。本当、ドレークは胃が痛くなった。
しかしこのまま背後におっかない大将を立たせたままというわけにもいかぬ。大量の気力と勇気を振り絞って、ドレークはゆっくりと振り返った。
「前髪を払おうとしただけです」
「言い訳か」
「……宿題は終了しました。私は書き写しただけで全て彼女が自分の力で、」
「気の抜けた面ァしちょるのう」
ぴしゃりとした赤犬の言葉にめげずに報告しようとしたドレークの言葉、まぁ予想通り容赦なく赤犬はさえぎって、一歩前に進みを見下ろした。
(……なぜ、いつも)
無言でを見下ろす、その姿を眺め、ドレークは顔を顰める。
赤犬の、眉間によった皺は相変わらずで険しい口元もそのまま。だというのにその細められた目が若干普段と違うように、錯覚かもしれぬ些細な程度なのだが、そのようにドレークは感じるのだ。
「下がれ」
ドレークが見つめていることに気付いたのか、赤犬が途端表情を硬くして顔を上げる。はっきりと告げる声は平時のもの。ドレークは上官への礼を取ってから席を立ち、そのまま扉の前まで振り返らずに進む。だが扉から出る際にはどうしたって一度振り返らざるえず、頭を下げてつとめて部屋の中を見ぬようにと心がけたが、どうしても気になって、無礼にならぬように一度ちらり、と部屋を見た。
ゆっくりと赤犬がを起こさぬように抱き上げているところだった。
+++
抱き上げた体は相変わらず軽い。これなら砲弾の方が思いと、サカズキはいつも思う。蹴り飛ばすことはよくあるが、抱き上げるのは随分と久しぶりだ。海兵らのものとは明らかに違う柔らかな四肢に眉を寄せ、額にかかった前髪を払った。長い前髪だが切ってもまた同じ長さになる。一度鬱陶しいので女性もののピンで留めさせたが、額が露になった額をクザンが「ちゅーしていいって誘ってるよな!」と沸いたことをほざいたので以来そのままにしている。久しぶりにその白い額を見た。生え際の赤さと肌の白さが室内の明りでもくっきりと浮かび上がる。
「……なぁに?」
「起きたか」
抱き上げた振動では起きぬというのに、触れればぱちり、と一度瞼が開く。青い目だ。の目よりも鮮やかな青をサカズキは知らない。その青い目がぼんやりと己を写したかと思えば、途端閉じる。長い睫が白い頬に影を落とし、眉が寄る。
「……眠い」
「なら寝ろ。起きちょるんなら自力で部屋に戻らせるぜ」
「………じゃあ、寝る」
もぞっと、が体を捩じらせてサカズキの胸に額を押し付けてきた。半分寝ぼけているときばかりは素直だ。普段からこう従順であればいいものを。そう思いつつ、閉じた目、白い瞼を眺めサカズキはため息を吐く。反射的に抱き上げていたが、思えばそんな義理はない。机に伏して寝て体を痛めようが風邪を引こうが自業自得だ。そもそもサカズキはこれの夏休み、など認めていない。宿題なんぞというふだけたものをアーサー卿が出したことすら気に入らぬのに、この馬鹿は「まだ終わってない!」と散々わめき、しようもないのでサカズキはドレークを呼んだ。放っておいて構わないが、しかしこれに直接「ディエスを呼んで」といわれるよりマシである。手伝う気はさらさらもなかったが、自分に助けを求めずドレークに、というその発想がサカズキには気に入らない。
思い出しているとふつふつと妙に怒りがこみ上げてきた。腕の中には寝息を立てる阿呆面。このまま落としてやろうかと、そんなことを考えていると、腕の中の安定感を求めたのかさまよう手がサカズキのシャツを探し当て、弱々しく掴む。ほっと小さく息を吐いたのがサカズキの素肌に辺り、一瞬ぴくり、とサカズキは動きを止めた。
「……おどれはこれで襲われねぇと思うちょるんか。このバタカレが」
「………なぁに?」
「独り言じゃけぇ、一々起きるな」
眠れ、というように顔を手で覆えば、また静かな寝息に戻る。サカズキは眉を寄せ、テーブルの上に整えられた「宿題」を一枚手に取った。どう見ても子供の夏季休暇の課題にしては度が過ぎているものだが、このくらいさせねばには意味がないだろう。しかし、出された量を考えれば最終日まで終わらなかったのは少々疑問だ。この夏一ヶ月はは殆どサカズキの執務室で過ごしていた。宿題を広げていたのだから終わらぬわけがないと思っていたところ、本日最終日にこの有様。
「おどれにゃ、普通の生活は無理か」
規則正しく、日々課題をこなすなどということは魔女には不可能か。そう思って、呆れ半分に呟けばまたがまた目を開く。起きるな、と言いかけてぎゅっと、シャツを掴む手が強くなった。
「…ぼくの、せいじゃ、ないし」
「ん?」
「……サカズキが悪いんだよ」
「唐突になんじゃァ」
言うに事欠いてこちらが悪いとはどういう言いがかりだとサカズキは眉を寄せる。すると、顔を見せぬようにぐいっと胸に押し付けたままうなるように答えた。
「サカズキが、悪いんだよ」
「まだ云うか」
仕置くぞ、と声を低くするが寝ぼけるこれにはあまり効果がない。もぞもぞっと動きながら首を振る。
「・・・ちゃんと、しようと思ってたもの。宿題、楽しかったし。夏休みっていいね。サカズキが仕事してるときに、ぼくも何かしてるのが楽しかったよ」
「…」
「でも……ずっと、サカズキの仕事してるの見てたから、宿題終わらなかった」
小さな声で消え入るように云う。寝ぼけている、とは判っているが、部屋まで行かずソファでいいか、とサカズキは真剣に考えた。
Fin
だめに決まってんだろΣ
(2010/09/01 00:29)
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