初めて服を脱がした日のことははっきりと覚えている。別段他意のあったことではない。ただ、夏の庭の魔女の体には必ず死因となった火傷の痕があるという話を思い出し、ノアの体になった今もそれは呪いのように浮かび上がってるものなのかと、そう思って剥いだ。
あれは抵抗しなかった。いつものボロ布のような妙な格好、小汚い。こちらがどれほど清潔な衣を用意してやっても、ドス黒く変色したショールを取りはしなかった。それだから、しまいには燃やした。あの時、初めてあれは泣いた。連れてきてから随分経っていたが、泣いたのはあの時が初めてだった。誰かの血なのだろうとはぼんやり思った。だが誰の血だったのかの検討は、結局付かないままだった。
「このまま犯しても声ひとつ上げないつもりか」
「そんなことしやしない。このぼくを相手に己の欲をぶつけるような無様なマネを、君のような男はしやしない」
さめざめとした、冬の泉のような目がこちらを見上げる。向いてはいるのに、けして真正面から捉えはせぬのが魔女の目だ。相手に見つめ返されぬようにという防衛だと聞く。サカズキ中将はわけもなく苛立ち、服をはぎ取って露わになった、そのまっ白い体を床に叩きつける。ひやりとした冷たい床に僅かにが眉を寄せた。だが反応はそれだけだ。腹には忌々しい屋敷蛇の刺青が這っている。これさえなければ生き続けることもなかったろうに。サカズキは眉を寄せ、ゆっくりとの腹を掌で撫でた。
「何も、覚えてはいないのになぜ何もかもを知っている」
「?何を言っているんだい?海軍本部中将どの」
腕を掴んで頭の上でまとめた。そのまま背中に手を差し入れて撫で上げる。びくりと震えるその体、そんなものに構わずに、ざらついた指先の感触にただ頭の奥に焼けつくような感情を覚えた。
その背にあるのは、無数の刺し傷だ。
世の悪意、敵意がその身を常に苛む。当人は、刺され続けていることも気付かずに日々を送る。修復され続ける体。それでも傷が指で触れて判るほどに存在しているのは、今この瞬間も絶え間なく、その身が千の万の億の兆のそれを越えた華のほどの剣に、責め上げられているからだ。
それが“悪意の茨を抱く魔女”である。
この時代の名を白ひげと呼ぶ
今にも再び千切れそうな腕を突っ張り、剣を握りしめては崩れ落ちそうになった体をこらえた。また、だ。白ひげの怒声や戦火ではないなにかが、己の体に恐怖を叩きつけている。白ひげが腕を振るえば島に亀裂が走る。エースを取り戻した今、思う存分力を振るえると、そういうつもりだ。あちこちが崩れ、瓦礫の下敷きになる海兵が何十人もいた。
は荒く息を吐き、先ほど白ひげの叫んだ言葉を反芻する。
『お前らとおれはここで別れる!!全員!必ず生きて無事!!新世界へ帰還しろ!!!』
あの男、完全に覚悟を決めた。ここで終わるとそう、決めた。その勢いは容易くは崩せぬものだ。ただの人間では絶対に崩せない、強力な流れが出来てしまった。いや、確実に今日この場所で、白ひげが死ぬと決まったことでもある。となれば、海軍は白ひげを打ち取ることはできる、という結果は出来た。だがしかし、そんなことはどうでもよかった。
(それだけの力を、状況を手に入れた男はどれだけの人間を殺せるようになった)
懸念するのはその一点。白ひげは大将三人に元帥一人を道ずれにしてもまだ余裕があるほど、天分を今持っている。
状況が人を殺す。ぶるり、とは身を震わせた。奥歯を食いしばり震える体を抑え込み、は白ひげに備えて構える赤犬を見上げた。
「いい加減、貴様はもう休め。そのままでは日暮れまでももたんじゃろうが」
の視線に気づいたか顔を向けぬままに、しかし告げてくる。白ひげたった一人でも海軍全てと戦うというこの状況。それがどういうことか判らぬ赤犬ではなかろう。それでもまだ、自分に戦え、とは言ってくれないのか。
少し前、はマリージョアの庭でモリアーと会った。その時は、まさか今日、こうなるとは思いもよらなかった。けれどあの時から変わらぬ思いがひとつある。
(ぼくは、サカズキが戦えって、そう言ってくれたら、すごく幸せなのにね)
今とて戦いはしている。だが全て自身の意思だ。サカズキは己を頼りはしない。何もかも己だけで背負うという、そのつもり。当然、同じ海兵であり大将であるクザンたちにはある種の信頼があろう。だがしかし、今、今日、こうなってしまっても、未だサカズキは自分を頼って、信頼してくれないのだ。
「白ひげは今日この日、死ぬと決めているんだよ。この島を、ぼくが初めて20年も、長い時間過ごしたこのマリンフォードを、海に沈めてしまう気なんだよ」
ぎゅっと、はサカズキのコートを掴んだ。まだ片腕は残っている。まだ触れられる。まだ目も片方残っている。まだちゃんと、サカズキを見ていられる。まだ声もでる。名前を呼ぶことができる。まだ耳も聞こえる。呼んでくれる声を聞くことができる。足だってまだついている。まだ一緒にいることができる。
それなのになぜ、こんなにも不安なのだろう。
心の中からゆっくりと、何かが浸食してくるような、そんな予感があった。サカズキが己に、戦えとは言ってくれないことが恐ろしいのか。信頼されていないことが悲しいのか。いや、違う。そんなことはない。そんな、理由ではない。それではない、何が今、の心を汚してきている。
「、よう聞け」
戸惑うの頬を、膝を折って目の高さを何とか合わせようとしたサカズキが触れた。指で頬を撫で、もう片方の手をゆっくりと肩を掴む。はぱちりと、これまでの思考を止めてサカズキの目を見つめ返した。
「わしは白ひげ、そして火拳と麦わらを殺しに行く。ここにおれば貴様は、少なくとも周りの海兵が命に代えても守るじゃろう。わしは周囲を顧みることなく能力を使う。そうまでせねば討ち取れん相手じゃ」
「ぼくは、腕がちぎれかけても、それでもまだ、中将たちよりは強いんだよ。君の邪魔をするバカどもを殺すだけの力はあるんだよ」
「、わしの言うことを聞け。貴様はここで待っちょれ」
聞き分けのない子供を言って聞かせるような響きがあった。は首を振り、サカズキの首に片腕を回す。つま先で立って、ぎゅっと、その首元に顔を埋めた。
「ここで君と離れたら、もう二度と会えない気がするの。きみか、それともぼくかが、決定的になってしまう気がするの」
「わがままを言うな。貴様とてこの状況がわからんわけでもあるまいに」
「でも、いやだよ」
はさらに強く、サカズキに体を押し付けた。底知れぬ恐怖が断続的にこの心に何かを与えてくる。いや、奪おうとしている。それが何なのか、はっきりとはわからない。あの女が、井戸の中で姉を唆したあの女が出てこようとしている、その可能性も考えた。だが、それとはまた少し違うように思える。もっと外的なもの。しかし、どんなことがあろうと、サカズキが傍にいれば何も恐ろしくはない。
「……わしを困らせるな」
+++
走る際に握っていたルフィの手を放し、エースは立ち止まる。このまま進まなければオヤジの覚悟を無駄にしてしまう。それはわかっていた。だが、このまま、走り続けていいのか。オヤジは今も海兵たちに囲まれて一人、戦っている。その覚悟を邪魔しようというわけではない。生き残ることが、ここで死なないことが自分にできるせめてものことだ。
だが、ここで走り続けていいのか。
「エース!!行こう!おやっさんの覚悟が……!!」
エースは立ち止まり、ルフィの叫びに頷いた。それは、わかっているのだ。だが、ここで、親の顔を見ずにいていいわけがない。
エースは炎をまとわせ、白ひげを囲む海兵たちを焼きはらい、邪魔にならぬ位置に降りた。膝をつけ、両手をついて、ただ、頭を下げる。
何を言えばいいのかわからなかった。口を開けば、一緒に行こうと、そう言ってしまうのが判っている。どうして、と、そう、聞いてしまう。わかっているのに、それでも、なぜと、そう、理不尽なことを聞いて、オヤジを最後の最後まで困らせてしまう。そういう予感がした。
ただ、頭を下げる。オヤジは血だらけだった。インペルダウンで拷問を受け続けた自分よりも、酷い有様だった。
何を言えばいい。
「………言葉はいらねェぞ」
爆音の中でも親の声は必ず聞こえる。いつも、そうだった。どんな戦場でも、どんな状況でも、かならず親父の声だけは聞こえた。親父もそうだと、いつだったか教えてくれた。どんな場所でも、どんな、他の音がある場所でも、息子たちの声は絶対に判るのだと、そう言ってくれた。
「ひとつ、聞かせろ。エース」
ゆっくりと、静かに白ひげが言葉を続ける。己の名を、また呼んでくれた。エースは目の奥が熱くなった。
「おれが親父で、よかったか……?」
その声には、いつもの豪胆さも、自信もなかった。恐る恐る、問うような。そんな、響きさえあった。エースは一瞬目を見開き、親の横顔を見つめる。瞼の奥に焼き付けた。この堂々とした姿。鬼の血を引く自分にとって地獄のようなありさまのこの世界で、自分を救い、そして居場所を与えてくれた人だ。
「勿論だ!!!!」
頭を地面にこすりつけて、エースは叫んだ。そんなことは、当然ではないか。白ひげが親父ではなくて、今の己は存在しえない。ここにいていいと言ってくれて、息子と、そう、呼んでくれた。家族なのだと、そう、言ってくれた。
石を投げつけられるためだけに生まれてきたようなものだった。孤独には慣れていた。むしろ、望んでいた。誰も彼もが、必ずロジャーを憎んでいる。ロジャーが今の世界に悲劇を作ったと、そう、毎朝毎晩聞かされた。家族がおらず、親の名前しか知らず、それでもそれしか、自分にあるものがなかった。
白ひげは、親父は、息子と、そう、呼んでくれた。
優しさも、厳しさも、愛情も全て詰め込めんで、そう、呼んでくれた。
「エース!!!行こう!!!」
追いかけてきたルフィが、エースの腕を掴む。されるままに立ちあがってエースは走り出した。今己に出来ることは生き延びることだ。辺りの炎も勢いをなくしている。襲い来る海兵を薙ぎ払い、エースはルフィの後ろを走った。弟を、まず先に逃がす。それは兄の役目だ。自分の後ろをジンベエがついた。
「エースさん!!ルフィくん、前を走れ」
「ジンベエ!!」
「お前さんたちァ狙われとる……!一人でも多く生き残ることがオヤっさんの願いじゃ!!」
背後に見えた海兵に炎の矢を放ち、エースは走る。仲間たちが軍艦を奪ったようだ。はるか前方にある軍艦の姿に息をつく。あれに乗れば、ルフィは助かる。逃げ切れる。
後方から、圧倒的な熱量が迫ってきた。
+++
サカズキの繰り出したマグマの拳は進行方向にいた海賊十五、六人ほどを呑みこみ辺りを火の海にした。本気で逃げられると思っているのなら、随分とおめでたい連中である。そう呟くサカズキにも賛同した。サカズキは一目散に逃げようとする白ひげ海賊団をゆっくりと眺めて腕を組む。その姿を遠くから眺めながら、は白ひげを呼び、泣く海賊たちの声を聞く。
結局、サカズキはを同行させてはくれなかった。巻き込むことになると、そういう。困らせるな、と、あんな顔をされたらとてもう強く言うことはできない。唇を噛み、ただ遠目で見守るだけだ。
「エースを解放して即退散とは、とんだ腰ぬけの集まりじゃのう。白ひげ海賊団」
低い、侮蔑を孕んだ声でサカズキがはっきりと言った。それがこの位置からでも聞こえる。戦争になると構えたのはこちらだが、決定的なものにしたのは乗り込んできたそちらであろう。それなのに目的を、たったひとりの命を救い出してさようなら、とは、中途半端もいいところであると、そういうことだろう。サカズキは彼らを見渡し、マグマに変化させた腕で辺りを薙ぎ払った。容赦なく周囲に火山弾が飛ぶ。叫び声が聞こえ、は顔を顰める。
親を失うという彼らに同情するつもり、はそもそもない。白ひげの得た力、決めた覚悟は、自らが死ぬことが前提のものだ。ここであの男は死なねばならない。そう決まっている。いや、そうって欲しい、とはだれも思っていない。だが、怪物となった彼はここで死ななければならない。そうでなければ、彼は白ひげではなくなるのだ。そういう、リスクがあった。当然、白ひげ自身はそんなことは知らないだろう。どんな流れがあるのか、それが判るのは魔女や、その道理を知ってしまった者だけである。知らぬ者は、そう選択し、迎える結末が己の意思の「結果」とそう潔く受け止められる。
「船長が船長…それも仕方ねェか……!白ひげは所詮、先の時代の敗北者じゃけェ」
はっきりと言うサカズキには小首を傾げた。別段サカズキの言葉に刃向かう気などはない。だがしかし、白ひげは敗北者かどうか、とその一点には同意しかねた。
ロジャーと白ひげはライバルであった。シキも加われば三人、それは当然お互い掲げる物求める物が違いすぎたけれど、しかし、あの三人はけして憎しみ合うことのない理解者でもあったのだ。長い間、は三人を見てきた。いや、船長という生き物を見てきた。船長というのは、とくに、海賊船の船長というのは孤独の病を必ず抱えている。どんなにクルーと親しい者であっても、必ず彼らは「船長」なのだ。船長には孤独があった。それらを、お互いそうと口に出さずとも察し、そして語り合わずとも己らの孤独を理解できている者は、やはり「船長」だけなのだ。
あの頃の海のことを、は思う。今の時代と違って、あの頃には勝ち負けというのがなかった。いや、戦いではあった。しかし、敗北はなかった。ロジャーと白ひげは確かに何度も何度もやりあった。海賊王と、そう呼ばれたのはロジャーだった。だがしかし、白ひげは、あの男はロジャーが持てなかったものを持てていたのだ。
勝者、敗者というその区切りにできるほど彼らは容易くなかろう。そう思うて自然、は眦を上げる。いや、その心は白ひげを庇うためのもの、ゆえではない。ロジャーのためのものであった。ロジャーは白ひげや、そしてシキに「勝った」などとは思わなかっただろう。あの時代を勝者、敗者で分けることが、どうもには気に入らない。
しかし、気に入らぬからと言って、そう怒鳴りに行く気はなかった。が、サカズキの進む先に、立ちはだかる赤い炎が柱のように立ち上がる。
「取り消せよ……!!!今の言葉!!!!」
びくり、との体が震えた。反射的なものである。昔からそうだと、は一瞬乱れかけた心をすぐに落着けた。炎の悪魔を宿したものの声はこの耳によく届く。それだけのこと。ぎゅっと瞼を閉じ、は息を吸う。
エースが立ち止まった。走り続ければ逃げ切れたやもしれぬのに、立ち止まって、サカズキと数メートルの距離になった。彼の仲間らが必死にエースの足を動かそうとしているようだ。既に船に乗り込んだ者も、ことに気付いたのか、声を上げる。しかしそれらを無視して、エースはサカズキに向かい合った。
はまだ安全だ、と言われていた場所からひょいっと飛び降りて、そのまま白ひげを相手にしている中将らの元へ向かう。赤犬が動き出したことに白ひげも気付き、矛先をそちらに向けようとしていた。爆音が辺りに響く。それでも、エースが立ち止まったことにより、海賊たちの間に動揺が走っていた。逃げるために走り続けていた者たちは立ち止まり、あるいはエースの方へ駆け寄る。既に船に乗ってしまった隊長たちは、船が奪われぬように海兵たちの相手をするのに手いっぱいで、そこからエースを呼ぶことしかできていないようだった。
はちぎれかけた片腕を引き摺りながら、白ひげに向かい合う。途中、薙ぎ飛ばされた海兵にぶつかりそうになったが、それはひょいっと避けた。
「殺されに来たのか…!!!!」
「君の邪魔をしに。サカズキを殺しに行くでしょ、君」
「退け!!てめぇの相手をしている暇ァねぇんだよ!!!!!」
容赦なく、白ひげがに向かって鉾を振りおろしてきた。は剣の先で軌道を変えて受け流す。そのまま白ひげの片手が空間を掴み軋ませようとする、そこには、懐から取り出した小さな錫の塊を投げ込む。びしりっ、と空気が歪み、しかしの体には何の衝撃もない。
「ふ、ふふふ、前も言ったけど、別にぼくは君がキライじゃあないんだよね。でも、きみはサカズキを殺せるもの。それに、エースくんを助けに行こうとしてる。サカズキの邪魔、しないで」
が投げ出したのは錫の兵隊の心臓である。童話の一つだ。片足のない錫の兵隊。12時になると動き出すおもちゃたち。片足だから美しい硝子の人形とは踊れぬと両足のある兵隊たちに笑われた。けれどおもちゃの天敵である大ネズミがやってきたときに、勇敢にガラスの娘を助けたのは片足の兵隊ただ一人。そういう童話がある。最後は錫の兵隊は暖炉に投げ込まれ、硝子の娘と共に燃えてしまう。そこに残った錫の心臓、金のモール。が持っているのはその心臓である。
ただの剣、そして茨だけで白ひげを止められるなどという慢心はにはなかった。魔女の力、リリスとしての何もかもが揃っていれば容易かろうが、しかし、ないものを考えてもしょうがない。今の己は一行詩すら綴れはしない。それゆえ、が今武器として使うのは、長年魔女の部屋に集まってきた童話の力である。
「本気で相手をしてあげるよ、Monster
。このぼくが、Maliziose
Hexeがお相手するよ」
Fin
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