その村も魔女裁判の話でもちきりだった。長い間広大な土地を所有してきたあの魔女がついに火刑にされる時が来たのだ。村の神父は当然の結果だと演説ぶり、男たちは口々にこれまで村や周辺で起きた不作、奇妙な出来事を魔女の行いだったのだと叫んだ。歳のいった老人ばかりは顔を顰めてそんな彼らを恩知らずと罵ったけれど、老い先短い、頭のおかしい老人の戯言であると誰もが耳をふさいだ。良識というものが、すっかり彼らの中から消えてしまっているようだった。コルヴィナスの毒がこんな小さな村にまで浸食している。免疫があるのは昔、リリスが出産を手伝った者だけのようだ。

つい先日までは、リリスを暖かく迎え、またその知識を頼みにしていたはずの村人の、あまりにも、あんまりなその変わりよう。は唇を噛み締め、フードの奥で顔を顰めた。リリスの囚われているヴァナ城まではまだ三日はかかる。途中こうして通り過ぎる村は必ずリリスの噂話をしていた。寝る間も惜しむは村で宿を取ることはしないが、しかし必ず一度は足を止め、村の噂話を集める。「焼き鏝を当てられても顔色一つ変えなかった」「もう何日も食事をしていない」「傷みも何も感じていないのだ」と、声を潜めて交わされる話など聞きたくはなかった。だがしかし、未だ妹が生きているということ、そして未だに、妹の心は誰にも屈していないのだということをは確認することはできた。そして村人たちの話も、ただリリスの無事を確認するだけということもなかった。噂話には必ずあの男。ピアズ・コルヴィナスの名も出てきた。魔女に誑かされた伯爵家の長男。リリスの向かいの檻に閉じ込められているのだと言う。だが貴族であるから、あまり長い間閉じ込めることはできない、伯父であるビクター・コルヴィナスが今回のこの魔女裁判について国王に直訴しに行っているという。早く魔女にかけられた魔法が解ければいいのにと同情の声を聞いた。その度には心の中で舌を出し、あの男が恐怖に屈するような中途半端な男なら、そもそもリリスはあの男を愛しはしなかったと罵った。ピアズ・コルヴィナスの存在はにとって救いだった。あの男がリリスの傍にいてくれているのなら、少なくともリリスは孤独の恐怖に襲われることはないだろう。認めたくはないが、はもうピアズをリリスの「ただ一人のひと」と理解していた。あの男だけがリリスを死の温もりから奪い、己では与えることのできなかった、平穏をくれる。助けるのなら、二人を一緒にでなければと、は決意を深くした。

目深に被ったフードのおかげで、誰もの正体には気付かなかった。あるいは気付かれたとしても、はリリスを助けるそのために髪を切り落とし、顔に硫酸をかけて随分と面変わりをしていたから、誰もリリスの姉とはわからないだろう。

酸を浴びるとき、は恐怖を感じなかった。恐ろしいのは妹を再び失うことだ。井戸の中で、蛆が沸き、ぐったりとして何も語らない、ただの肉の塊となり果てた妹の姿を、は一秒だって忘れたことはない。なぜ誰も放っておいてはくれないのだ。自分たちはただ、二人一緒にいたいだけ。いつまでもいつまでも、二人で笑いあい、助けあい、そして生きて行きたい、それだけだったのに。

いや、しかし今はもう、リリスにはピアズがいる。己は二人を助け、そして、二人をこんな目に合わせた、ピアズ以外のコルヴィナス家の人間に報復の詩を刻みこむ。そのためなら己の顔も、誇った何もかもを手放すことなど、容易いことだ。あの時、井戸に放り込まれる前、妹を助けることのできなかっただが、もう二度と、誰にも妹を奪わせはしない。

真夜中なら己の目は冴えるもの。は月の光すら遮る深い森へ向けて、馬を走らせた。








Judgment Day









「えぇ、奪わせはしなくてよ?だってリリスはこれからずぅっと、わたくしと過ごすんですもの」

この場に響くには穏やか過ぎる音だった。低すぎず、高すぎず澄んだ声は耳に滑らかに入っては意識野に心地よく入っていく。聞いているだけで快感を覚える声があるとすれば、彼女の声はまさにまさしく、その通りのものだろう。

しかし、は声を耳に入れたその瞬間、ガタガタと体を震わせた。理解しての反応ではない。実際自信なぜ震えてしまったのか判らない。だが、背後、振り返ることもできないほどの何かをその声と存在に感じた。

「ッ」

その呪縛から解き放ったのは、腕に巻き付けた茨の痛みだ。は一度目を伏せ、崖の下にいるサカズキを見つめる。サカズキはの背後にいる人物を睨みつけていた。今にも噛み殺しそうな勢い。崖から落ちそうになっているというのに、その闘志はまるで消えはしない。サカズキはけして敗者にはならない。そのことには心が軽くなる。

白ひげに酷く打ちのめされたサカズキの姿を見て、己は恐怖した。

サカズキが死ぬことが恐ろしかったこともあるが、しかし考えてみれば、何よりも恐ろしかったのは、サカズキが敗北者になることだ。サカズキはけして負けてはいけない。ヒーロー像やら何やら、というつもりはない。その心が、ということだ。絶対に、サカズキは誰にも屈せず、そして負けはしない。そうでなければ、困る。そうでなければ、サカズキは誰からでもあっさり、殺されてしまえるようになるのだ。サカズキは、酷いことしかしない。いや、正義のためという前提、大義名分があるとはいえ、それでも「非道」の部類に入ることだ。それだけのことをする「しっぺ返し」が必ずあるもの。だが、己の行動にまるで躊躇わず、迷わず、揺らがなければ、その「しっぺ返し」が来ても跳ねのけることができる。

しかし、それだけの心を持つことは並大抵の覚悟では不可能だ。人は揺れるもの。迷うもの。だけれど、サカズキはこれまで迷わず、揺らぐことがなかった。だから、己は安心できた。

その決意、今も何も変わらぬことを確認し、はゆっくりと目を伏せ、そして開いた。

「……姉さん」

顔だけを後ろに向ける。こちらを見下ろし、嫣然と微笑んでいる美貌の女性。唇は赤く、肌は陶器のように滑らかだ。日の遮られるこの場所にあっても彼女の輝くばかりの美しさはまるで損なわれることがない。でさえはっと、息を呑むものがあった。

この長い間。エニエスにて封じられていたパンドラ・の体を何度もは見てきた。その頃から、美しいものだとは理解していたけれど、眠り続けるあの頃にはなかった圧倒的な美が、今の動き出したパンドラ・にはあった。「まさに完璧な」美しいひと。そう称された彼女はの声に真紅の瞳を柔らかく微笑ませた。

「会いたかったわ。わたくしのリリス」

砂糖菓子のように甘く、とろけるような微笑を向け姉は一歩に近づこうとする。

「近づかないで」

は声を固くしてそれを拒んだ。姉との距離は僅かしかない。あと三歩ほど近づけばその手はに容易く触れるというほどのもの。強張るの顔を麗人は不思議そうに、それこそ、あどけないとさえ言えるほど無邪気に見つめ返し、小首を傾げる。

「リリス?どうして?何をそんなに怯えているの?あぁ、酷い有様ね。そんなに怪我をして、痛かったでしょう?」

パンドラはの制止など意に介さず一歩近づく。びくり、とその度、の体が強張った。再び拒絶の言葉を吐こうとするが、唇さえ震えて、喉が凍りついたように、何も言葉が出てこない。パンドラは静かに、の背に触れる。ボロボロになっていた服を見下ろし、そのままぐいっと、背の布を剥いだ。

「ッ…!!」
「あぁ、あったわ。おそろいね。わたくしとあなた。あなたは間違いなくわたくしのリリス」

その背にある無数の傷痕を指で撫で満足そうに微笑み、全てを見ようというのか、背中を覆う布をはぎ取る。外気に触れて冷える肌にはぶるっと、身を震わせた。

「わたくしの背にある鞭の痕と同じように、あなたもあるのよね。リリス、あなたを苛む悪意の剣、よかった。あなたが痛みを感じない日は一日もなかったのね」

先ほど己の怪我を案じた唇で、今度は堂々と言い放つ。姉が正気を失っていることなどとうに判っていることだったが、こうして付きつけられて、は唇を噛んだ。愛撫するように優しい指使いだったが、しかし、背の一点に気付いた時、姉は戸惑うような気配を見せた。

「これはなぁに?」

パンドラが指したのは、ドフラミンゴがに負わせた傷だった。背に走る、確かな傷はの罰を受ける背を無残に、台無しにするように走っている。

「酷いことをするひとがいるのね。わたくしとリリスの絆を汚すなんて」
「ぼくを愛してやまないバカが付けたんだよ。わかるかい、姉さん、この傷が、ぼくと姉さんの繋がった部分を切り離したんだ」

ノアと共謀したおりに、己はパンドラ・の影法師となった。そのためにはパンドラの記憶を引き継ぎ、彼女が己であると思いこまねばならなかった。そして眠る彼女を何の違和感もなく「自分の体」と思わなければならなかった。そのために、は己らの双子であるという事実を利用し、そこからリンクを作った。お互いに、背に責苦の痕がある。そこから、とノアはパンドラへ繋がりを作った。

だがしかし、その繋がりはドフラミンゴがの背を刺した時に切れている。切れれば、はパンドラが何をしているか、今何を考えているのかを知ることはできなくなったが、しかし、パンドラに己のことが伝わることもなくなった。

そして何よりも、こちらとあちらは、もう違う生き物なのだ、と付きつけることができる。

「……こんな程度の傷、あなたにウンケの屋敷蛇を戻せばすぐになくなるわ」

名画に無遠慮な墨でも流されたかのように、気に入らぬ様子でパンドラが溜息を吐く。その声にが何か警戒心を持つ前に、パンドラの指先がのその傷口にぐいっと、入り込んだ。

「っ、あ……ぅ、あぁっ…!!!」

傷口から指を入れられ、そのまま肉の間を指が行き来する。傷は当然剣の幅くらいはあった。短剣だが、長さきにすれば幅が五センチほどのもの。その間にどれくらい入るのか試すように、パンドラは指を何本も差し入れて、拡張する。

「あっ、や……っ、い、っあ……やっ」

パンドラの細い指が背骨に直接触れ、内臓を揉む。は断続的な悲鳴を上げ、しかしそれでも茨を放さない。ぐちゃくちゃと、背で肉と血の混じり合う音がした。

は歯を食いしばるだけでは耐えきれぬ痛みに唇を噛む。ぎりっと、唇が切れたが、そんなことを構う余裕はない。遠慮なく出し入れされるパンドラの指が、くいっと、中で折れ曲がり先ほどとは違う箇所に痛みが生まれる。

「っ、んっ……んっ、んッ……!!」
「声を出してもいいのよ?リリス。あなたは昔から泣き虫さんだったから、泣いても恥ずかしいことなんかないわ」
「……ッ、」

優しげな姉の声に、は更に唇を噛む。声などけして上げるものか、と、そういう意地ではない。もうすでに、パンドラとの戦いは始まっている。こちらが、あちらの行いを怯み、恐れた瞬間、どちらがどちらという優劣が決定してしまう。ただでさえ、パンドラを前にすれば恐怖に苛まれるのだ。こんなSMプレイくらい、とは恐怖を跳ねのける。

(っていうかサカズキがしてきたことの方が痛かったし……!!!)

いや、本当!子宮にマグマ入れられたことなんてしょっちゅうだったし!!とはこれまでの数々のサカズキのしてきたことを思い出し、そちらと比べてまだ姉の方はマシだと、心底実感した。え、何これまでのアレってこれに耐えられるための運命でした☆とかそういうヤツか、と考えて嫌になる。いや、そういうことは絶対にないのだろうけれど。

ドン、と、その時、の腕が強く引っ張られた。引き込まれぬように反射的に体に力がこもり、ふわりと、次の瞬間これまで強く引っ張られていた力が消える。何が起きたのかをが知る前に、己と、姉の前に白い壁ができた。

いや、違う。壁ではない。まっ白いコート。の目に「正義」の文字が飛び込んできた。

「サカズキ、」
「……絶対に、わしから離れるな」

荒く息を吐きながらも、を背に庇い、サカズキが低く唸るような声を出した。咄嗟のこと、だったのだろう。を引き摺りこむかもしれない賭けをサカズキはした。一度大きく体を揺らし、崖を蹴ってそのまま飛び上がった。しゅるり、とはサカズキから茨を外し、その背を掴む。何とか上がってこれたとはいえ、白ひげに受けたダメージが軽かった、というはずもない。体内へ直接叩きこまれた白ひげの振動はサカズキの内臓に影響を与えているはずだ。左腕は折られたはずだが、今はそんな様子がない。自然系とはいえ、覇気を扱っての攻撃ではあまり意味のある防御ではない。しかしサカズキは血を流している意外はまるで平素と変わらぬ様子でを庇い、パンドラと相対している。

はほっと、息を吐いた。壁のように背の高いサカズキが、己と姉の間に入っている。それで、姉の姿が視界から消えた。それだけで、威圧感が消える。はサカズキのコートをぎゅっと掴み、額を押し付けた。

姉がこうして目の前にいる。怯みそうになる。何も出来ぬのではないかと、そう、絶望を与えられる。だがしかし、ここで己が諦めたら、一体何のために開き直ったのかわからなくなる。

絶対に、姉を死なせず、正気に戻し、そして、己は魔女を助ける王子さまになる。そう、は再び決意する。夕暮れまでまだ時間が少しある。まだ、大丈夫だ。まだ生きていける。

「貴方にも、お会いしたいと思っておりましたのよ。大将閣下」
「わしを知っちょるんか。パンドラ・

妹が視界から消えたことに不快を表すように眉を跳ねさせ、しかし淑女としての様子は欠けることなくパンドラは緩やかに膝を折って、サカズキを見つめる。その赤々とした瞳は先ほどに向けられていたものとはまるで違う。煉獄の炎のような、狂気があった。

「えぇ。当然でしょう?わたくし、あなただけはけして逃がさないと決めているの」
「わしも貴様を逃がす気はない。ノコノコこのわしの眼前に現れるたァ殊勝なことじゃのう」

目を細め、サカズキがパンドラを眺めた。世界の敵とされるその根源を前にして、サカズキの目じりが強くなる。はぶるり、と身を震わせた。サカズキは、どこまでも冷たい目をすることがある。怒りや侮蔑を通り越して、相手をそもそも、死人扱いするところがある。死ぬべき生き物が何口を開いているんだと、そういう、冷酷さがある。かつては己も日々向けられた。それがパンドラへも向けられる。

サカズキは、つまりは大将としてパンドラ・と対峙したということだ。

そうでなければならない。はぎゅっと、剣を握る手に力を込める。絶対に、サカズキは「海兵」でなければならないのだ。しっぺ返しが来ること、についてのこともある。サカズキは己のする何もかもを、「海兵として」したことであると、しなければならない時がある。それが、サカズキが大将になったおりに、誰に誓うわけでもない。サカズキ当人がそうと決めたことだった。

「自分」が幸せになるなどという選択肢はハナから切り捨てる。世界を平和にするために、あの日、己の無力さを噛み締めた、海兵は正義に己を開け渡した。

は正義のコートを纏うサカズキの背を見上げ、そして目を伏せた。

こうして、みてよくわかる。サカズキの開き直りは愛や何やら、ではないのだ。どの道に、夜が来れば自分は何もできなくなると、わかっているから、どうしようもないことだと、そう、わかって、そしてそれを自覚したから、だから、今、己を「」とそう呼ぶのだ。

サカズキは、今こうして己を背にしてくれてはいても、それでも、大将なのだ。その上での、お互いの発言。それをは実感する。そして、それは寂しさには繋がらなかった。むしろ、そうでなければ失望しただろう。大将であること、海兵であることを捨ててまでを妻宣言するサカズキなら、はそもそも選びはしなかった。サカズキが「海兵」であるから、選んだつもりはない。そうではないけれど、しかし、サカズキが、己の義務を捨てぬひとであるから、己は、こうまで心を奪われたのだ。

「あなた程度がこのわたくしを捕えられると思って?」
「姉さん…!!!!」

思考に沈んでいたの耳に、姉の軽やかな声がかかる。その声に不吉なものを感じ、は顔を上げて叫んだ。同時に何かが引き裂かれる音がする。

「サカズキ……ッ…!!!」

膝をつき、胸を抑えたのはサカズキだった。今の一撃、避ければに当たる。マグマの身に変えたとしてもパンドラの悪意はそんなもの、意味を成さない。顔を顰めるサカズキの名をは呼び、姉を睨んだ。姉は爪に付着した血を汚らわしそうに払っている。

「サカズキは関係ないでしょう…!!!姉さん!」
「関係ない?どうして?あなたを愛せばどうなるか、わかっていて愛してしまった愚物よ?」
「能力者がぼくに惹かれるのは持病みたいなものだよ。姉さんも、それはわかっているはず」

昔のことを引き合いに出せば、姉の赤い目が濃くなった。だがその怒りは一瞬。次にはその燃え滾る感情は取り払われ、に向けられる慈愛に満ちた瞳となっている。の顔をじぃっと見つめ、そしてゴミでも見るような眼でサカズキを一瞥した後、ふわりと柔らかく微笑を浮かべた。

「わたくしはあなたともう一度暮らしたいの。二人で花を育てて、微笑み合いたい。そのためには、その男をあなたの目の前で殺してさしあげないといけないの」
「どうして?サカズキは、ただ巻き込まれただけだ。ぼくと、姉さん。二人のことに巻き込まれただけ。サカズキは、何の関係もないでしょう」
「わたくしの夫も、そうだったわ」

ひゅっと、の喉が鳴った。サカズキを庇うように立っていた位置では体を崩し、その場にへたり込む。その反応を満足そうに見守ってから、はそっと、の頬に手を伸ばした。

「覚えていて?あなたが魔女として焼かれて、でもあなたは死なず。雨に救われた。そのままわたくしたちは逃げて、逃げて。そして、わたくしは海へ付き落とされた。あの日のことを、あなた、覚えていて?」

パンドラの声はどこまでも優しげであった。子守唄を歌う、母のような愛と思いやりがそこにはあった。は触れられた箇所から正気を奪われるような恐怖を覚える。だが、ここで己が屈しては誰が姉からサカズキを守るというのだ。能力者はパンドラには危害を加えられない。そのうえ、サカズキは海兵だ。正義の証明者たるパンドラ・を傷つけることは、できない。ここで自分が崩れれば、姉は容赦なくサカズキを殺すだろう。正気を保たなければと、そう思うのに、は恐怖で体が動かなかった。

暴かれる。何もかも、もう思い出しているけれど、姉の口からはっきりと、そうと、付きつけられる。

「わたくしは溺れながらも生き延びて、王国の、そう、お師匠様に拾われた。そこで魔術を習い、魔術師の称号を得た。移民だとわたくしを蔑む連中もいたけれど、お師匠様や兄弟子さまたちと、わたくしはそれなりに幸せだったの。あの日、あなたたちがわたくしたちの国を滅ぼすまでは」
「……」
「あなたもあの日、死ななかったのね。あなたも生き延びて、あなたは剣を握った。あなたはわたくしを追い詰めて、そしてわたくしを捕えた。あの吐き気のする王たちにわたくしを引き渡した」

は頭を振った。叫びたくとも、もう声が出ない。姉の指先にはいつのまにか力がこもり、の頬に食い込んでいた。

「でも、そんな程度のことをわたくしは恨んでいない。滅ぼされる理由と、弱さがあった。Dの意思だろうとなんだろうと、そんなもの、わたくしには興味もない。わたくしが忘れないのは、その後のことよ」
「わしの妻を、放さんか…!!パンドラ・…!!!」

ドッ、と、パンドラをマグマが襲った。は喉から悲鳴を上げる。マグマは確かにパンドラを退けた。だが僅かに、ほんの少しパンドラの肌を焦がした、それだけで、サカズキの肩から胸がざっくりと、抉れる。は咄嗟に茨を巻き、その傷口を庇う。

「サカズキ…!!!!」
「あんな女の言葉に耳を傾けるな。貴様はわしの言葉だけ聞いとりゃァえぇ」

ぐいっと、サカズキの腕がを抱き寄せた。耳を塞ごうとさえしてくるその仕草に、は首を振る。そして自分からその腕を振りほどき、姉を真っ直ぐに見つめる。

「確かに、ぼくは姉さんに酷いことをした。捕えられた姉さんを、愛したバージル。姉さんは彼と逃げ、そして夫婦になった。ぼくは、確かにバージル、彼を殺したね。ぼくの馬で追いかけて、ぼくの剣で殺したね」
「あの方はわたくしたちの問題とは無関係だったはず。それでもあなたは殺したわ」

その時の感触を、今でもは覚えている。雨が降っていた。酷い、酷い、雨だった。土砂降りで、馬も満足に前には進めなかった。けれどは、いや、あの頃はリリシャーロと呼ばれていた白銀の甲冑の娘は、馬を駆って駆って、逃げ出した二人を追いかけた。そうしなければならない理由は、あった。けれどそれがなんだというのか。

豪雨の中、視界さえおぼつかない中、己はバージルと相対した。泣き叫ぶ姉の声を無視して、剣を振るい、お互い、お互いを殺し合った。鈍い、鉄同士の重なり合う音。息の乱れる音。込められた一撃、一撃に致命傷を負わせるだけの威力があった。王国の中でも1、2を争う剣の腕が互いにはあった。

バージルと己は、親友だった。

男女という問題を越えた、友情がそこにはあった。騎士団へは当初、男装していた己に気付き、弟か何かの面倒を見るような、そんなきっかけで絆が深まった。戦場では背を預け合い、理不尽な王たちの要求をこなすため、馬を駆った。時には笑いあい、己はバージルを兄のように慕った。姉と彼が惹かれあっていると知った時、彼ほどの男なら姉を必ず幸せにしてくれると、そう思う心が、確かにあった。

剣を振いながら、己は叫んだ。なぜ、追いつかれたのだと、そう身勝手に叫んだ。バージルも叫んだ。なぜ追いついたのだと、そう、叫んだ。己の背後には王国の騎士団が控えていた。引きつれた、のではない。己への監視に、付けられたのだ。ここで裏切れば、己の死だけではない。彼らが代わって、二人を殺す。そういう、状況だった。

「ぼくが憎いなら、ぼくを殺せばいいでしょう。姉さん。サカズキに構わないで」

過去の映像を振り払うように頭を振って、は真っ直ぐ、姉の赤い目を睨みつけた。

「あなたを殺す?リリス、バカなことを言わないで頂戴」

しかし姉は妹のその射抜くような視線も軽々と受け止め、覚えの悪い生徒を諭す忍耐強い教師のような口調、一度溜息をつき、ゆっくりと言葉を続けた。

「言ったでしょう?わたくしはあなたともう一度、幸せに暮らしたいの。そのためにはそこのその男を殺さないといけないの。そういう状況なのよ?わかって?」



+++




赤犬と共にこの場から一時消えたの姿を、トカゲは追おうとは思わなかった。地響き、恐ろしいまでの、振動。立っていることすらままならぬ、地震などという言葉では生易しい。島が、半分に割られ、それゆえの振動なのだ。何もかもがひっちゃかめっちゃかになっていく。うっそりとトカゲは残った片目を細め、そして眼帯で隠れた右目を抑える。

「ふ、ふふ、ふふふ、ふふ、この気配。ついに来たか」

崩れた要塞に目を向ければ、いつのまにいたのやら、その背後に巨大な男。巨人、オーズ、などよりもっと巨体。その大きすぎる体を要塞の後ろに隠していたらしい。トカゲは振り返り、処刑台下に立ち並ぶお歴々を睨むように、眦を吊り上げた。

「ゼハハハハハハ!!!!死に目には会えそうだな。オヤジ!!!」

独特の笑い声を響かせて、堂々とした姿。お前にはこの場は過ぎているとトカゲは今すぐあの頭上に飛び込んでド頭でもかち割ってやりたかったが、状況的にそれができる、とも思わない。ちっと、舌打ちしてトカゲは隣にいるクロコダイルを見上げた。

「ちょっと前までの囚人仲間だろ?おれはあまり名に詳しくないんだよ。解説しろ」
「……」

一瞬、クロコダイルはものすごく面倒くさそうな顔をしたが、しかし無視してもトカゲの気が変わることはないともうこの付き合いで諦めているらしい、溜息ひとつ、興味もなさそうに口を開いた。

「あのデカイのは“巨大戦艦サンファン・ウルフ」

おにぎりみたいな顔の?とトカゲが言えばクロコダイルがまた溜息を吐いた。この男もそろそろ胃薬が必要になるかもしれない。いや、葉巻で多少はストレスも抑えられるだろうか。そうなると今以上の喫煙家にならなければならないとトカゲは白々しく肺がんを心配してみる。

「あっちの角生えたジジィは悪政王アバロ・ピサロ」
「あぁ、それはおれも聞いた事がある。なんだ、囚人だったワリにはいい格好をしているじゃないか。あの御仁。あぁ、いや?おしゃれ具合は卿の方が上だから落ち込むな」
「その軽口を止めねぇなら残りの二人は解説しねぇぞ」

む、と、トカゲは困ったように眉を寄せた。悪政王の名はトカゲの元の世界にもあったので知っていた、という程度。面識はない。はどうだっただろうかと思い、それに気付いたかクロコダイルがつけたす。

「悪政王となら、魔女は面識あったっつー話は聞いた覚えがある。おれが七武海に入る前のことだ、詳しいことは知らねぇがな」
「ふぅん。で、残りの3人………なんかあれだな」

まだ名を聞いていない残りの囚人を見てトカゲは微妙そうな顔をした。残っているのはどこぞのサーカスにでもいそうな、極悪+品性のない下卑た印象の男と、ウソップの親戚かと思うほど鼻の高い華のない女である。

「折角の新キャラ登場だぞ?こう、ルーキー登場以来のイケメンキャラはないのか?」

不満そうに呟いて、トカゲは眉間に皺を寄せる。黒ひげの登場に色々思うことはあるけれど、黒ひげ海賊団。あれか?完全にこう、ゲテモノ集団になりたいのか?とそう突っ込みを入れたかった。あれか。白ひげ海賊団がナイスキャラばかりだから、対抗するにはソッチ系に行かなければならないのか、とそんなことを本気で思っていると、クロコダイルに頭を叩かれた。

「最後まで聞く気はねェのか、テメェ」
「いやいや、親切な卿に惚れ直してしまいそうだっただけだ。で、シリュウ閣下はいいとして、残りの二人の名前は?」

名を聞くことに意味がある。姿ははっきり見たが、それ以上に、トカゲは新たに世を騒がせる彼らの名を知っておく必要があった。インペルダウンにてと交わした約束は、結局のところ、忘れてはいない。

クロコダイルはちっと忌々しそうに舌打ちをしてから、残った二人を目で指す。

「あっちの男は大酒のバスコ・ショット。女の方は若月狩りカタリーナ・デボン」

それにインペルダウンの問題児、いやいや、雨のシリュウ看守長どのか、と、トカゲは引き取って呟き、そして目を細めた。見かけは随分とアレな連中ばかりだが、しかし、海兵たちの先ほどからの動揺が気になると言えば気になる。

インペルダウンlevel6の死刑囚たちというのは、捕えられていたクロコダイルを見てもわかるとおり、かなり危険、のレベルを越えたバケモノばかりが収められる。そこの5人。だが海兵たちの反応は、クロコダイルが脱獄した、という事実を自覚した以上のものに思えた。

「当然だろ」

あまりこの世界の情勢に詳しくはないトカゲ、はて、と首を傾げていると、まだ解説はしてくれるのかクロコダイルが続けた。

「どいつもこいつも、過去の事件が残虐の度を超え過ぎてんだ。世間からその存在をもみ消されて、それでも足りねェほどの、犯罪者だ」
「では、とどちらが上だ」

間髪いれずに、トカゲは問うた。クロコダイルは眉間に皺を寄せて、黙る。じっとトカゲは男の目を見つめ、そしてクロコダイルはその青い目を見つめ返した。トカゲは、そのクロコダイルの目が様々なことを思い出し、そして考えていることに気付く。の名を出せばこの男は、面白いくらいに昔のことを思い出す。意地の悪い、とは思わなかった。今、重要なことだ。

「今なら、卿はもう知っているだろ。あの小さな、おぞましい魔女がロジャーの船に乗る前にどんなことを世界にしてきたか。その上で、あの子とあの連中ども全ての行いを合わせて、どちらが上だ」
「おれの判断なんざ、意味もねェだろ」

クロコダイルが葉巻を地面に投げ、革靴で踏みつぶした。それですぐに新しい葉巻を懐から出すのだから、本当この男、肺がんで死ぬんじゃないかとトカゲはぼんやり思う。そうして軽口を思い浮かべながら、トカゲの目はインペルダウンの凶悪犯罪者たちを眺める。

どちらがどちら、と、それに意味はないようで、ある。むしろ、トカゲ当人には必要のないものだが、しかし、のことと考えれば意味は深い。じっと、トカゲは己の掌を見つめる。そして握りしめた後、銃を握り、悪意を込めた弾丸を携えて飛び出した。




+++




状況、と姉の口から吐かれたことには眉を寄せ、そして思い当った。顔から血の気が失せ、は奇妙なものを見つめるように、姉を見る。

「姉さん、……まさか」
「そうよ。えぇ、その通りよ。かわいいリリス。だって、そうでしょう?あなたはわたくしの目の前で、わたくしから大切な人を奪った。わたくし、どうしてもそのことを許せない。あなたなんて死んでしまえばいいとさえ、思ってしまっている。でも、わたくしはあなたを愛しているのよ」

愛という言葉を発する時の姉の目は確かに暖かい。だが、その声には狂気があった。ぞっと、は身を震わせ、知らず、サカズキの腕を掴む。サカズキはパンドラの呪いに未だ苦しめられながらも、無事な腕での体を抱きしめた。体内への激痛にサカズキは言葉を発せずにいるが、しかし、その目は、今でもやはり、変わらず屈してはいない。

「あなたを愛しているの。リリス、もう一度あなたと、なんの問題もなく暮らすには、あなたに、わたくしと同じことをしなければ気が済まないのよ。不釣り合いだわ。歪みの孕んだ関係は、いつかきっと崩れてしまう。だから、あなたを愛し、そしてあなたが愛した大切なひとを、わたくしはあなたの目の前で殺す。そうしてやっと、わたくしたち、また一緒に暮らせるのよ」

は咄嗟に剣を前に構えた。その途端、何の予兆もなしに繰り出されたパンドラの悪意がとサカズキを襲う。目に見えぬ音の悪意はの剣を容赦なくうち、その衝撃が体に響く。は小さく呻いた。

しかし、サカズキに攻撃させるわけにはいかない。なんとか全ての攻撃を防ぎ、は荒くなった息を落着かせ、唇を噛む。防いだとて、どうすればいい。自分の今の力では、魔女としての力を失った己では、けして姉を倒せない。それが今、諦めるわけではないが、はっきりと突きつけられる。

ピアに、魔女を救う王子さまになると、そう言ったが、何か計算があってのことではなかった。ただ、心をそう強く持つことで、どうにもならぬことをどうにかしようと、そういうつもりだった。

けれど、こうして姉を前にして、付きつけられるのは己の無力感だけだ。姉に、敵う気がまるでしない。死なぬと決めた。姉を殺さず、そして誰にも殺されず、正気に戻そうと、そう、決めた。だが、どうすればいいのだ。いや、正直に言ってしまえば、ここまでの差があるとは、夢にも思わなかった。

姉の力は知っているつもりだった。だがしかし、眠り姫の毒により、穏やかに体に廻った狂気が姉の力をが知る以上のものに、している。なぜ、トカゲはこれほどの力を持つ姉と戦い、生きていられたのだろう。そのことを、そんな頭の中で考える。確かに、インペルダウンで自分はトカゲに自分の力の一部を渡した。その効果でトカゲは当来よりも随分と強い力を手に入れたはずだ。だがしかし、それでも、姉の圧倒的過ぎる力には何の影響もなかったのではないだろうか。

どうして、トカゲは生き残れた?

「こんなイカレた女に貴様が従う理由なんぞないわ。、貴様はわしの妻になると決まっちょる。渡す気はない」

絶望するの耳に、サカズキの絞り出すような声が聞こえた。はっと、は顔を上げる。激痛はなくならないだろうに、それでも、まるで何も感じていないような顔をして、サカズキがを見下ろしていた。血や、汗を流しているその姿。それなのに、は安心した。

「ねぇ、リリス。あなた趣味が悪くなったのではなくて?こんなに乱暴でハンサムとは言い難いひとを選ぶなんて。ピアズ卿はそれは美しいひとだったけれど、そのひとは、ねぇ?」

パンドラはサカズキを一瞥し、理解しがたい、というように美しい眉を潜めた。昔の婚約者の名を出され、はびくり、と体を震わせる。確かに、ピアズ・コルヴィナスは美しかった。その黒髪も、はっきりとした姿も何もかも完璧だった。初めて森の中で出会った時、己は彼のあまりの美しさに息を呑んだほどだった。いや、しかし、今の自分にはあまり関係ないだろう。美しい人なら、その後の人生で多く見ている。

「今現時点で黒達磨を選んでる姉さんにだけは絶対に言われたくない。それと、サカズキはどう考えたって世界で一番格好いい人だよ」
「どの辺りが?壮年でやぼったいだけの人じゃない」
「全部。眉間の皺も顔も声も喉も手も足も何もかも。サカズキのことで格好良くないところなんて何一つないよ」

堂々と言い切れば、さすがにパンドラが怯んだ。

そして一度額に手を当ててから、じっとサカズキを見つめる。妹の言葉を全て無下にするのは姉として良くないだろうとか、そういう葛藤でもあるのか。じぃっとサカズキを上から下まで見つめて、そしてゆっくりと首を振った。

その反応、すっごく失礼である。

「わたくしにはわからないわ。この方のどの辺りにあなたは魅力を感じるの?覚えていて?ピアズ卿はとても美しい手をしていたわね。弦楽器の扱いも素晴らしかった。あなたにいつも笑顔を向けていたわね。大将閣下は、彼のようにあなたに愛の詩を送るタイプには見えないけど」

は一瞬、懐かしい昔を脳裏にありありと思い出す。最初に愛したあの人のこと。力強い黒髪に、濃い色の瞳。そして、癇癪を時々起こす癖のある性格。けれどいつだって、彼は家族への思いやりに満ちていた。視力を失ったことも、婚約者に裏切られたことも、彼は誰も恨まなかった。そういう、あの人を己は愛したのだと、そう思い出す。

知らず、の声音は穏やかになった。

「そう、確かにあの方は、とても素敵だった。お優しくて、勇気があって、ぼくには持ったいないひとだった。ぼくは、ピアズ様がぼくなどを愛していると言ってくれたときに、世界で一番幸せな女の子になった」
「ではなぜ、今まるで違う大将閣下なの?大将閣下はあなたに愛の詩を綴ってくれて?」

ため息交じりに言われて、は苦笑いを浮かべる。あの時代はそれが普通だったが、今の時代にそういうことをする男性がいたら、は多分普通にドン引くと思う。そして何より、サカズキがそういうことをするタイプだったら、多分好きにはならなかっただろう。いや、なにその気色悪いの。

というより、はあまりこれ以上この話題を続ける気はなかった。談笑しつつ、しかし必死に姉を倒す術を考える。だがしかし、何一つ浮かんでこない。どの手も、姉には効果がありそうには思えなかった。

「貴様の昔の恋人の話はおいおい聞く。覚悟しちょれ」

がっしり、とサカズキに肩を掴まれた。は冷や汗を流す。そう言えば、開き直る前に今でもまだピアズを愛しているとかそういうことを口走ったことを思い出す。いや、しかしあの時はリリスとしての心が強かったわけで、と言い訳しても聞いてくれないだろう。しかも冷静に考えれば、今自分はサカズキの前でピアズのことを惚気るという、すんごいバカなことをしてしまったわけである。うわぁお、と、は顔を引きつらせた。

「いや、でもね?サカズキは姉さんを倒せないと思うけど」
「能力なんぞ使わずに殴り飛ばしゃァえぇじゃろう」

あの、それやったらさすがの姉さんも死ぬんじゃ、とは顔を引きつらせる。姉にはウンケの屋敷蛇のような回復機能は付いていない。元の世界のトカゲと同じだ。自分の体には、回復術をかけられる。それは、姉が魔術師だからだ。己にはそういう機能はない。だから姉はウンケの屋敷蛇を作った。

サカズキはを抱き上げて、放さぬように力を込め、そのままを睨みつける。

「わしの妻を好き勝手いたぶりおってからに。覚悟はできちょるか」
「あなたこそ、わたくしのかわいいリリスを誑かして生きていられるなんて思っていないでしょうね」
「言うちょれ、貴様ごときに奪われる粗末な命なんぞ、持っちょらんけェ」

どちらもまるで相手に怯まない。何だろう、このドS頂上決戦みたいなの。とは先ほどからとは違う意味で怯えた。姉はサカズキを殺すという意思と理由がはっきりある。そしてサカズキにも、パンドラを倒す理由があった。

彼女は、世界の敵である。王国の存在を全て承知の生き物。本来、政府に捕えられていなければならない存在だ。その彼女がこうして目覚めているのを目の当たりにした大将は、何をおいても彼女を捕縛しなければならない。はまるでパンドラに怯まぬサカズキを見上げ、サカズキに姉と戦わせる気はないと言いたかったが、しかし、その口をサカズキに塞がれる。

「っ!!!?」

サカズキの舌は血の味がした。今こうして何やら場違いな和みのある雰囲気になってはいるが、しかし、サカズキが負っている傷の深さをは実感する。先ほど姉に傷を負わされた折に、サカズキの体内に夏の茨を埋め込んだとはいえ、それで何もかも回復させられるわけではない。は息苦しさにぎゅっとサカズキのシャツを掴みながら、眉を寄せて後頭部を抑えられるまま、離れようと身を捩る。しかしそれで解放するようなサカズキではない。次第に深くなる口付けに、ざしゅっ、と、とサカズキの間に音の悪意が通り過ぎる。咄嗟にサカズキが離れなければ、多分二人とも頭が吹き飛んでいた。

「……ふ、うふふふ、ふふふふ、このわたくしの目の前で大切な妹を汚すなんて………」
「これに当たったらどうする気じゃァ」
「あなたが避けさえすればいいのよ。わたくしのかわいいリリスの愛らしい唇を塞いだ、その汚らわしい口を引き裂きます」

なんかもう、逃げていいか自分と、は顔を引きつらせた。何これ、何なのこの展開。もっとこう、姉と自分の対決はシリアスになるんじゃないのか?普通。そう思っていたのに何だこの、妙なノリ、とは何だか、やるせない。

そう一瞬、心が油断した。その途端、の体が地面に押し付けられる。

「リリス!!?」
!!!」

誰が何かした、というわけではない。だがしかし、の体は強制的に、地に跪かされた。屈辱には顔を顰め、しかし、その強制力はほんの一瞬だけだった。すぐに立ち上がり、そして首を振る。tかづいた、サカズキがの腰を抱き、ふらつく体を支えた。

「どうした」
「………こんなに早いものではなかったはずだけど」

問いかけるサカズキに答える余裕がない。は唖然とした顔でじっと、姉を見つめる。妹の反応に姉は心当たりがないようだ。いや、当然だろう。はじっくりと、白ひげと戦う少し前から自分の体に侵食していった感覚に耳を済ませた。

夜が、夜が、夜が、やってくる。

空を見上げた。まだ、太陽は高く昇っている。エースの処刑は三時の予定で、少し早くはなっていた。あれから数時間。しかしそれでもまだ、夜には遠いはずだった。

は瞼を振るわせながら、じっと、姉を見つめる。

「………姉さん、あの男と、一緒に来たの?」
「えぇ、当然でしょう。あの方はわたくしの運命のひと。わたくしの猊下よ」

なぜ気付かなかったのだろうかと、は己を叱責する。姉が、黒達磨、いやいや、マーシャル・D・ティーチを選んだ。そのことを己は知っていた筈だ。いや、インペルダウンに行き、そして帰って来てから、ティーチが何をしようとしているのか、己は判っていたはずだ。しかし、その時のリリスとしての己の感情は、そんなことよりも、姉を殺し、そして自らも朽ちることを望んでいた。だから、ティーチが何をしようと、もはや己には関係がないと、そう捨て置いていたのではないか。

だがしかし、今の己にはティーチの行動は、捨て置けぬ。

あの男が姉を目覚めさせたのだ。あの男は、酷いことをする。とてもとても、酷いことを、平気でするのだ。何度も何度も、己はティーチを、過去に殺そうとしてきた。白ひげの船で、互い本気で殺し合ったこともある。その度に、ティーチを殺せず、そしてティーチも、己を殺せずにいた。

マーシャル・D・ティーチは、パンドラ・に口づけた。

「サカズキ、今すぐ、戦場に戻って」

は硬い声で、サカズキを見上げる。闇の力を持つ、あの男がこの戦場にいる。闇は夜を呼ぶ。それだけで、の侵食が早まった。いや、己のことなどいい。そんなことは、どうでもいい。しかし、あの男がここに、この、戦場にいて、そして、インペルダウンで目的を果たしたとしたら?

ぶるり、と、は体を震わせた。

戦場にはトカゲがいる。ピアがいる。そしてまだ死んでいないのなら、キキョウも、いる。あの三人が三人仲良く協力する、とは思わないが、しかし、ティーチの目的は三人にとっても嫌悪すべき結果になるだろう。だから、白ひげ海賊団vs海軍という状況に、さらなる敵、黒ひげが現れれれば、今と少し状況は変わるかもしれない。それは、魔女にとってはよいことだ。だがしかし、海軍にとっては、どうだ。

「パンドラは、黒ひげと一緒にここにきたの。黒ひげは、インペルダウンで悪魔のような囚人たちをここに連れてきたんだよ」

サカズキの眉が跳ねる。の言葉を信じない、ということは絶対にない。すぐにそれが事実だと呑みこむ。だがしかし、サカズキは動かなかった。

「この女を放置っちゅうわけにゃいかんじゃろう」
「姉さんのことはぼくがなんとかする!!黒ひげがここに来てるなら、あのバカがバカなことをする前に、殺さないと……!!!」
「上にゃ、センゴク元帥がおる」

声を上げるを、サカズキが抑えた。
も、その可能性は判っている。センゴクが、まだ戦場にはいる。クザンだって、ボルサリーノだって、まだいる。だがしかし、はサカズキほどに彼らを信用してはいない。黒ひげが、今この状況で連れてくるとしたら、囚人たちは誰だろうか。はレベル6にいる凶悪犯を全て知っているというわけではないが、今この場に、いてはならないものを何人か思い浮かべた。

センゴクは強い。それは、わかっている。彼は元帥だ。とても、とても、強い。そんなことは、わかっている。だがしかし、はサカズキならどんな敵をも倒せると信じていても、センゴクが、黒ひげを倒せるとはどうしても信じられない。

「わしはこのまま白ひげ海賊団を、ドラゴンの息子を追撃する。それがわしの勤めじゃろう」
「ティーチは政府を裏切ったんだよ?!」
「このまま、連中を逃がすようなこたァできん」

サカズキはセンゴク元帥を信じていた。己がすべきことを心得ている。その言葉にそれをひしひしと感じ、はぐっと、言葉に詰まった。

確かに、そうなのだろう。今この状況で、大将赤犬がするべきことは、そうなのだろう。それはわかった。だから、こういう時には、「悪意の魔女」であるべきなのだ。こういう、サカズキやセンゴクのような海兵がどう動かなければならないか、はっきりしているときに、空気も読まず動く悪意が、必要なのだ。

ぎゅっと、は唇を噛む。その途端、耳元に女の囁きが聞こえた。

「油断しちゃ、だめよ?」
「サカズキ…!!!!」

パンドラの美しい手が、サカズキの胸を切り裂いた。






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