ドン、とトカゲが放った弾丸はティーチの鬱陶しい髭面を台無しにする前に、シリュウの剣によって弾かれた。そのまま通常であれば剣を叩き折るのがトカゲの弾だったが、威力が弱まっているらしい。闇の力か、と、トカゲは呟き、そしてそのまま己に襲いかかるシリュウの攻撃を受け止めようと銃の向きを変える。が、そのシリュウの刀はバシンッ、と赤黒い獣がその身に受けて弾いた。

「この映像はシャボンディに中継されているんですよね……?何、堂々とインペルダウンの制服来てバカなことをしているんです。シリュウ看守長殿」

別名厨二能力、いやいや、ペルルの魔女の「獣使い」というその能力。ピアの血で出来たその獣は咆哮を上げトカゲをその背に乗せてタン、と、そのまま後方に下がった。鞭の音一つ、トカゲを乗せたまま獣は処刑台から少し離れた位置、主たるシェイク・S・ピアのもとへ戻る。

ピアはその涼しげな美貌を若干顰めて、シリュウを睨む。突っ込むところはそこなのかと、トカゲは首を傾げ、しかし、彼女の性格を考えれば、確かにその理由ゆえに今、手を出してきたのだろうとは思う。

何を考えているのかさっぱりわからぬ、というのが定評のシェイク・S・ピア。しかし彼女、どんな状況でも、政府の汚点、になることを傍観はせぬのだ。

「ピア。ふふふ、なんだ卿、おれに惚れたか」

とりあえず助けられた礼を言い、トカゲがそんな軽口をたたけば、ピアは緩やかに首を振って、そして電伝虫の居場所を目で捜し、そしらに向けて、それはもう、美しい笑顔でのたまった。

「私の趣味はチューリップのような頭をしたデーモンコ○レじみた人ですよ」

シャボンディであからさまな表現をされたルーキーが、今絶対に嫌な顔をしたと、トカゲは思う。そう言えば、なぜピアがこの戦場に来ているのかよくわからないが、彼女、確かシャボンディではキッド海賊団の戦闘員をしていたのではなかったか。そんなことを今思い出し、そして、今明らかに嫌がらせ目的で愛の宣言をしたらしいピアに、妙な共感を覚える。

自分もここで世界に向けて赤旗への愛のメッセージをのたまいたいところだったが、生憎己の嫁はこの世界の赤旗ではないし、シャボンデイのこっちの世界の赤旗がそれを見て、一緒にいるだろう魔剣がその映像に微妙な顔をするのは、まぁ、あまり本意ではない。

ひょいっと、トカゲはピアの獣(確か名前、ミケ?)から降りて、銃を構える。シリュウが葉巻を咥えたまま、こちらを見下ろしていた。

のように嫌味を言うなら、これまで自分が斬ってきたクズに自ら仲間入り。どういう御気分だ?シリュウ閣下」
「インペルダウンにいてもおれの先は決まってる。おれはあぁいう男との出会いを待ってたんだ」

じゃあなんで就職したんだよ、インペルダウンに。そうトカゲは素で突っ込み、そしてピアも同感だったのかきょとん、と首を傾げた。

「好き勝手するのは自由ですけど。その制服脱いでくださいよ。名が汚れます。他の服着こなす自信がないんですか」
「いやいや、ピア。あれだぞ、ほら、閣下なら真っ赤な軍服着こなせる。ベ○様だ、○ガ様」

トカゲはひょいっと指を振ってピアに進言するが、生憎トカゲと違ってそういう別世界の都合のいい知識を持ち合わせるほど人間止めてはいないシェイク・S・ピアは何を言っているのかと不思議そうな顔をした。そして周囲の海兵たちは、そんな魔女二人の容赦ない会話にドン引きしている。

そういう茶番も面白いが、さて、とトカゲは帽子の位置を直しながら、目を細めてシリュウを見上げる。

「おれは今少しばかり、の心がわかるんだがな?シリュウ閣下。この場にがいれば、多分卿に言う言葉がある」
「興味ねぇな。心がわかるってんなら、おれがあの魔女をどうしてきたかも、わかるんじゃねえか?」
「卿よく赤犬に燃やされなかったよなー、と笑いたくはあるな」

インペルダウンにが行くたびに、この男はに酷い言葉を吐いてきた。そのことを、今トカゲも知っている。その度に、マゼランが本気になってシリュウに怒鳴っていた。マゼランは、が好きだったのだろう。そう言えば、マゼランはどうなったのだ。少し気になる。なにより、あの棺の中身は、結局パンドラの手に渡ったのだろうか。

「マゼランは、少なくとも卿を信じていたのに、それを裏切ってこんなことをする。それだから、卿はマゼランの友になれないんだ。そう、なら言うだろうな」

ダンッ、とシリュウが斬りこんできた。トカゲは銃でそれを受け、ギン、ギン、とお互いに薙ぎ合う。ピアが鞭をしならせる音がした。こちらへの援護、ではない。センゴクと会話を続けるティーチの喉元へ向かうためのものだ。

こうしている間にも、センゴクとティーチの話は続いていた。黒ひげが七武海になったその理由は、ただインペルダウンへの侵入のためであると、そうはっきりと言った。その途端、ピアは黒ひげを敵とみなしたのである。

「ピア…!!!」

何か知識あってのこと、ではない。だがトカゲは、ティーチに獣をけしかけるピアを制止するために叫んだ。しかし、間に合わない。処刑台の上で独特の笑い声を上げるティーチの喉を、黒い獣が噛む、その、直前に。獣の姿が闇に呑みこまれた。

「ピア!!!」
「ッ……!!!」

完全に呑みこまれる、というその寸前にピアは獣のナノマシンを解除してただの血に戻す。そのまま大量の血液はずるずると泥のようになって、ピアの足元に戻る。白くなった指でピアが血だまりに触れれば、血はピアの体に戻った。魔女の能力とはいえ、魔術師の基本、1は0ではない。0ではないものは、1、始まることしかできず、生み出せはしない。ピアが今獣を戻さねば、体の血を奪われ、彼女は死んでいただろう。

「ゼハハハハ、おれにお前たちの力が効くわきゃねェだろ!!!」

ピアの顔には、彼女にしては珍しい、緊張感のようなものがあった。と対峙した時でさえひょうひょうとしていた雰囲気のあるピアのその様子、トカゲは目を細め、そしてシシュウの腹を蹴り距離を取った。

そのままトカゲはピアと肩を並べる。

「トカゲ中佐、あれは何です」
「今現在世の令嬢どもに毛虫のごとく嫌われている黒達磨。美的にも救いようがないから赤犬と違って擁護してるファンもきっと少ないぞ」
「そんなこと聞いてません。なぜ、魔女の力があの男には効かないんですか」

おれが知るか、とトカゲは短く答えた。だが、魔女の力が効かぬ、というのは少しわかる。いや、インペルダウンで己の弾丸は効いた。つまりは、マジョマジョの実の力が、あの男には届かないとそういうことなのだろう。

ティーチに届く魔女の力は、純粋な魔女。つまりはやパンドラ、そしてトカゲのようなものの力のみだ。ピアやキキョウのような、マジョマジョの実による人工的な魔女の力は無効、とそういうことか。

「詩篇はどうだ?」
「血を回収するその時に、一行詩を放って見ました。何か変わってますか」

ちらりと見る限り、相変わらず粗野で下卑たところはあるが、何も変化はなさそうだ。トカゲが答える前にピア自身そうと判じたのだろう、がっかりしたように息を吐く。

「どういうことです。詩篇も、魔女の力も効かない生き物なんてそういませんよ」

そうこうピアとトカゲがしているうちに、白ひげの怒声が辺りに響き、黒ひげの姿が吹き飛ばされた。




+++




サカズキの体を下から支えるようにして、は姉を睨みつける。こう何度も何度も、目の前でサカズキに傷を負わされたとあっては、己の自尊心も傷つけられる。いや、姉は決定的な一撃を毎度毎度サカズキに繰り出しているのだが、それにサカズキが耐えている、という点では、誇りに思うべきか。

案ずるようにサカズキを見つめれば、さすがに今の、魔女の悪意の一撃は神経と精神に来たか、サカズキの意識が飛んでいた。だが、すぐに戻るだろうとはわかっている。はぎゅっと、唇を噛み、サカズキの体を倒してそのまま横たえると、その頬に触れる。

いつもいつも、結局のところサカズキは己を守ってきてくれた。それに、もう気付かぬわけがない。守られているお姫さまにはなりたくないといいつつも、いつもいつも、結局、自分はそれが嬉しかったのではないか。科学者たちの実験から助けてくれた時も、いつも、いつも、サカズキは容赦ない暴力とそして暴言の中にも、いつも、己を守ってくれた。

は夏の薔薇を出し、サカズキの傷に這わせる。治療能力が高いわけではないけれど、何もせぬよりはましだ。そして施してから、はサカズキの頭を膝に乗せた体制のまま、姉を睨む。

「サカズキに、これ以上手を出さないで、姉さん」
「わたくしはその方を殺すためにここに来たのよ。わかっていて?」

姉は、サカズキを殺す。だがこうして自分が密接していれば、簡単に手を出してはこない。パンドラのもっとも得意とする殺害方法は音の悪意だ。相手の体内に振動を送り込むもの。こうしてがサカズキと触れ合っていれば、たとえばサカズキにその一撃を繰り出しても、にも同等のダメージを与えることになる。

「サカズキはね、姉さん。今でもまだ、ぼくをと、よう呼んでくれるんだよ」
「何もかも知っているのに、あなたをそう呼ぶだなんて、酷いひと。悪趣味だわ」

は剣を放し、そしてサカズキの顔についた血を拭った。片手しかないのでは中々難しいが、そっと拭い、痛みに顔を顰めているその様子を見つめる。嘘のように、心の中が穏やかだった。いや、今でも確かに、夜が己に襲いかかってきている。姉のこと、それから、夜の女王のこと。考えなければならないことは、多くある。意地も、ある。だがしかし、こうして、サカズキの頭を膝に乗せていると、なぜこれほど、何も、恐ろしいとは思わないのだろうか。

ゆっくりと姉を見上げれば、姉は、そんな妹を、そして妹が選んだ人をおぞましげに見下ろしていた。は息を吐き、戦場に耳を済ませる。今頃、ティーチと白ひげが戦っている。その気配がわかった。地震の悪魔と、そして闇の悪魔の鬩ぎ合い。どちらがどちらかと、そう、競い合うのは魔女のこと。悪魔の能力者たちは、宿主のその、勢いにある。

白ひげは今日死ぬ。ティーチは、今日は死なない。は僅かに、眉間に皺を寄せた。なぜ、マリージョアであのバカを殺しておかなかったのだ。ティーチは、これからとても酷いことをする。とても、とても、とても、酷いことを、世界にする。それがわかっていたのに。なぜ。いや、そうだ、わかっていたのは、興味がなかったから。世がどうなろうと、それをただ黙っている。それが、の悪意だった。だからこそ、放っておいた。今は、そうはできないのだとしても、あの頃は、そうするのが、当然だった。それを嘆いて、どうなることでもない。

ぎゅっと、目を閉じ、そしては呻くサカズキの顔に自分の顔を近づけた。唇は血の味がする。鼻血を出していても、こんな風に、ボロボロの有様でも、それでも、やはりサカズキは本当に格好いいのだ。は弱々しく微笑み、そして、再び姉に向き直った。

「姉さん、黒ひげは新しい時代を作ると、そう言っているんだね?」
「えぇ、そうよ。素晴らしいと思わない?あなたを虐げてきたくだらない連中はみんな、今度は虐げられるのよ。貴方を真っ赤にしたひとたちを、今度はわたくしが真っ赤にしてさしあげてよ?リリス、もう誰にも貴方を奪わせはしない。もう絶対に、あなたを魔女だなんて、呼ばせないわ」

輝く未来を、宝石のような夢を語るように、姉の声がはしゃいだ。本当に、それを夢見、そして焦がれているのだろう。誰も彼もが、やパンドラを傷つけない世界。は、緩やかに首を振った。

「リリス?」
「ぼくは、あのバカの作る時代なんて、つまらないと思うよ」

はっきりと、は言い切った。確かに、ティーチが作る時代は自分や姉、そして魔女たちにとっては都合がいいのだろう。それは判る。それは、とても容易い答えだった。善悪が逆転するのではない。傍若無人に振舞うことが自由になり、そして、全てになる世界。か弱い者たちは恐怖におびえ一歩も外に出ることのできない、世界。権力になどまるで意味のなくなる世界。過ちを正せるものが誰ひとり、何一つなくなる、世界。

「でもそこには、きっと花は咲かない」
「何を言っているの?綺麗な薔薇を育てましょう。あなたが望むのなら、島をひとつそのまま庭園にしましょう。四季折々の美しい花を、あなたと私で育てるのよ」

楽しいでしょうね、と、そう姉の言葉は続く。も、少し前は、そんなことを思い描いた。この戦争が始まって少し、ドフラミンゴと湾等にいるときに、そんなことを、考えた。あの日、自分が死ななければ、今でもまだ、姉と二人で庭にいて、そして花を育てていたのではないかと。この時代に関わらず、誰も自分たちがいることを知らないで、そういう、世界に、生きていられていたのではないかと。そんなことを、考えはした。

は姉の顔を見つめ、目を細める。

「ぼくはね、姉さん。ぼくや姉さんを拒絶したこの世界に咲く花や、生まれる愛が、とても綺麗だと思うんだ」

今だって、こんな世界は、嫌で嫌でたまらない。世界なんて呪われてしまえばいいと思う。政府のしたこと何もかも、呪われてしまえばいい。しかし、でも、しかし、サカズキが守りたいものがある世界が、ずっとあればいいと思うのだ。

サカズキは、己に花をくれた。夢を見て、泣いた眩しい朝に。サカズキは薔薇を一輪、くれた。初めてだった。初めて、自分に対して、サカズキが何かくれた。あの日のことを、今でも覚えている。あの日から、ずっとは薔薇を髪に飾り続けてきた。

赤々しい薔薇の花は、暖色の己の髪の中ではあまり目立たない。なぜ白ではないのかと、以前クザンが話していたが、それは、たまたまその時、サカズキの手元にあるのが赤いバラだったというだけで、そして、それを貰ったからだと、そんな些細な理由だ。けれど、その花を、は今でも忘れない。

この世界は、今でも嫌いだ。姉と自分を拒絶し、そして、酷いことしかしなかった世界。己にとって愛すべきひとたちを奪い、そして罵り、何もかもくだらないと、そう示した世界。そんなものは、今だって、呪われてしまえばいいと思う。あの王たちのしたことも、自分のしたことも、何もかも、呪われてしまえばいいと、そう、思っている。

それでも、こうして出来ている海軍や、そして、そこにある正義を守ろうとする海兵たちの、心。そしてそこに咲く花を、疎ましいとは思わないのだ。

すっと、は剣を下ろして、そして、姉に手を差し伸べた。

「だから、姉さん。ぼくと魔女の決闘を」





+++


 


「お前が死ぬって?ロジャー」

桜の咲く下に、酒を酌み交わした。いや、そんな優雅なものではなかった。酒便は方々に転がって、すっかりお互い、酔いが回った。もうじきに、死ぬとロジャーが言った。まるでそういう様子は見えなかったが、しかし、嘘を言うような男ではない。顔色は悪くはない(酒の所為で赤かったが)相変わらず、自由奔放な男だった。死ぬようには思えなかったが、当人がそうだというのだから、そうなのだろう、もうじきに死ぬのだろうと、そう思った。

話をした。たくさん、たくさん、話をした。ロジャーも、自分も、普段仲間には話さないことを、話した。船長でなければ、わからないことが多くあった。それで、話した。たくさん話をした。それで、酔いがまわって、すっかりお互い、気分がよくなってしまった頃に、白ひげはぽつり、と、口を開いた。

のことは、どうする気だ」

ロジャーの船に魔女が乗ってから随分経つ。最初にロジャーがを見つけたその時、エドワードも、いた。二人で入った島に、がいた。を連れ出したのはロジャーだった。あの時、もしもがこちらに来ていれば、自分は今のようにを疎んでいただろうかと、そういうことを時々思っていた。だから、聞いた。ロジャーが死ぬというのなら、この男のこと、そうなった時の準備はいろいろしているのだろう。副船長のレイリーも、そういう準備ができる男だと知っていた。だが、魔女のことはどうするのだと、そう、聞いた。

ロジャーは途端黙り、そして、酔いがすっかりさめたような顔をして、口を開いた。

「あいつは捨てる。適当な島に置いていく」
「追ってくるんじゃねぇか。あいつは、お前を信じてんだろ」
「おれは、よりもよく、あいつを知っている。白ひげ、おれが死んだらお前があいつを引き取るか?いや、そうはしねぇだろ」

その通りだったので、別段白ひげは何も言わなかった。だが、奇妙には思った。がロジャーに向けている感情は、とても大きいのだろう。何においても、ロジャーの言葉を守り、そしてロジャーを守ることに全てをかけている。嘆きの魔女。それなのに、ロジャーは、それにひとしいほどの感情をに向けてはいない。

「あいつが嫌いなのか?」

思わず聞いた。そして、豪快にロジャーが笑い、ばんばん、と地面を叩いた後、もうすぐ死ぬ、というその男はゆっくりと、静かに口を開いた。




+++






ボロ雑巾よりも粗末な格好、それでも真っ赤な唇が、毒々しいその色を恥じることなく静かに言葉を紡いだ。目の前にいるのは何よりも大切な妹。立ち上がり、その背に腹立たしい男を庇っている。そうしてそのまま、真っ直ぐこちらを見つめている。は妹のその言葉に目を細めた。

「何のつもりかしら」
「魔女と魔女、その互いの存在をかけての決闘を申し込むと、今ぼくは申し上げているのですよ。お姉さま」

先ほどまではこちらが言葉を発するたびに怯えていたというのに。今はまるで雲が全て晴れた晴天の空のような、すがすがしい声、態度である。魔女の決闘、と口の中で返しては眉を寄せる。インペルダウンで己と、あの破廉恥な女が繰り広げた決闘のように、互いの全てをかけて競い合う戦い。それが魔女の決闘である。

敗北したものはその途端全てを奪われる。あの女と己は決着がつかないというかなりの異例の事態になったが、しかし、通常、敗北した方は消える。その決闘を、今この状態で妹が己に挑む、その意図が判らない。

何より、妹は今現在、その魔女の力を全て失っているはずだ。いや、素養は残っている。それは消せるわけもないものだ。だが、妹はもう魔女ではない。魔女でないものが魔女の決闘を行えるわけがない。

しかし妹がそんな愚かな提案をするとは思えない。どういうつもりかと凝視して、パンドラは目を見開いた。

「リリス、あなた」

妹の手には、小さな林檎があった。赤い果実。赤々としたその腹。いつのまに用意したものか知れない。だが、ただの林檎である。


「“白雪姫”の林檎。お姉さま、魔女の戦いは何も特別な力が必要なわけではないでしょう。そういうファンタジーはちょっと、ねぇ?」
「……えぇ、そうね。ナンセンスだわ」

は声を固くして妹の言葉を肯定した。童話の力は妹のもっとも得意とするところ。赤は少女、そして女の象徴でもあり、そして血につながり生命をも司る。林檎は罪とも、または豊穣のしるしとも言われている。黄金のリンゴ、勝利の実であるという歴史があるように、赤、そして林檎というのは何よりもリリスに相応しかった。その、最後の道具を持ちだした妹の意思に気付き、は真っ直ぐ、妹を見つめる。

「本来、魔女とはただ、他とは違う女のことだった。つまりは、少し妙な女であればその資格になる。ぼくは一人の女として。お姉さま、ぼくと魔女の決闘を」

止める間もなかった。林檎は妹の手であっさりと二つに割られ、そしてその一つが何の意図もなく、こちらに差し出される。受け取らなければならない。受け手のいない「決闘」は挑んだ方への恥じとなり、途端灰になる。つまり、が受けねば妹は死ぬ。

「なぜそこまでするの?その男が、あなたに何をしてくれたというの」
「サカズキがぼくに何をしてくれたか、ではないよ。ぼくが、サカズキにしてあげたいの」

半分になった林檎を受け取り、は妹を見つめた。白雪姫の林檎は、その配役を決めるためのもの。継母と、そして白雪姫。どちらがどちらかと、そう、競い合う。

「あなたが、わたくしに敵うと思って?」
「そう、確かに、お姉さまはお美しい。今も昔も、まるで悪夢のようにお美しい」
「あなたのその体は自分自身のものではない。そのうえでわたくしに挑む、その心は自殺願望?」
「自殺したいならここで首を落としているよ」

にこり、とリリス、いや、もはやと言うべき少女が微笑んだ。その顔には死への恐怖がない。だが、己に勝てるという慢心も見受けられなかった。は妹ほど童話の力に詳しくはない。まだ己とて知らぬ効果があるのかと勘繰る。だが、魔女の争いは、どんな仕様があれ美しさを競う、その原点に変わりはない。美しさは見かけだけのものではない。その内面も、何もかも、だ。

美しさは己の方が勝っている。それは間違いないとパンドラは確信していた。ならば当てがわれる配役は白雪姫になるはずだ。童話でも白雪姫の方が美しいのだから。敗北したお妃は炎に焼かれて死ぬ。妹の死因はいつでも炎になる。だが、それならなぜ今己に勝負を挑む必要があるのだ?妹が死ねば、己から大将赤犬を守る者はいなくなる。そんな愚かなことをする妹ではない。

はっと、は妹の顔を見つめた。何を考えているのか、今判った。だが、その時にはもう遅い。妹の赤い、小さな唇が赤い、林檎を一口齧った。

その途端、の体が強制的な力によって崩れ落ち、瞼が落ちる。強い呪いだった。最古の魔女の扱う呪い。抗うことはこの己とて難しいもの。は歯を噛み締め、襲い来る強烈な眠気に必死に抵抗しつつ、声を絞り出した。

「リリス……!!!そんな、嫌よ……!!!!!」

必死に、声を出し、上げ、の意識はそこで途切れた。

「さようなら、姉さん」

静かなの声が、それにかかって、響く。




+++





白雪姫の林檎の毒が、緩やかに己にも浸食していくのをは静かに感じた。眩暈に負けぬように唇を髪、ぐっと、は胸を抑える。勝者となった。だが、それは歓喜には繋がりはしない。

白雪姫の童話の力。あまりにも、単純なものだった。白雪姫になった者は眠り、そしてお妃さまは、そのかりそめの死を見送って、焼かれるものだ。相手を殺すためのものではない。相手を、眠らせることがこの力の目的だった。己の全てをかけて、相手を眠らせる。そして、その結末、焼かれ死ぬことに、意味がある。そうして初めてこれは完成するのだ。

ぐっと、は呻いた。

「ピアくんは、怒るかな」

魔女を救う、王子さまになると、そう言った。だがしかし、結局自分になれたのは、魔女だった。


は、再び己が魔女になったことを理解した。お妃さまの配役になった途端、魔女としての力が戻る。そしてそれは、再び、あの女、夜の女王を受け入れることができてしまったことに他ならない。

姉の体を優しく抱きとめて、はその頬を撫でた。千年にも及ぶ、狂気を孕んだ姉。全てを救うことなど、己にはできなかった。いつもそうだ。己にできるのは、姉を一時的に眠らせることだけ。その間に、何か解決策がないかと、いつもいつも、逃げていたのだ。

パンドラの体にしゅるしゅると夏の薔薇を巻きつける。髪と、そして首、手、足に薔薇を飾り、気休め程度の強化を施した。姉ほどの力のある女性なら、白雪姫の眠りも自力で打ち破るだろう。いつも己は彼女には何もしてやれない。いや、今そんなことを後悔しても意味はない。今、だからこそできることを。は黒ひげによって目覚めさせられた姉が、このまま眠り続けてくれればいいと思った。ティーチと姉が、また組み合えば、どうなるか。は唇を噛み、そして、姉の豊かな胸に触れた。憎悪が彼女のこの胸には詰まっている。

「………さようなら、姉さん」

はそのままサカズキに近づき、頬に触れる。姉の意識が遠のいたことにより、悪魔の声も若干おさまっているのだろう。低く呻いた後、サカズキが目を覚ました。

「………
「……痛いところは?」

夏の薔薇はどこまで痛みを和らげられたのだろうか。白ひげに砕かれた骨は、修復できたはずだ。まだまだ、戦争は続く。サカズキが両腕を使えぬ状態でいることがには嫌だった。案ずるようにサカズキの傍らに膝をつき、手を伸ばす。サカズキは状況を把握しようと、を見、そして地面に転がるパンドラ、そして、その手に乗った赤い林檎を見て、目を見開いた。

「貴様……!!!!!」

ダン、と、サカズキがを押し倒す。

「怒らないで」
「……ッ………!!!」

乱暴に地面に叩きつけられ、組み敷かれ、は怯えることなく真っ直ぐ、サカズキの怒りに満ちた瞳を見つめ返した。傍には眠りについた姉の体がある。はそれに視線を向けてから、再びサカズキを見上げた。

「怒らないで」
「………怒られんと、思うちょるんか……!!!」
「ごめん」

言えば、サカズキが沈黙した。忌々しそうに歯を噛み締め、を抱き上げる。の、その体からは死のにおいがした。は自分の体から臭うその死に、顔を顰める。片腕はなく、無理やり繋げた腕ももう、今にも千切れそうである。まぎれもなく、もうすぐにこれは死ぬのだと、サカズキの目が理解してた。この素早さはとて予想外だった。だが、姉が来たということは、当然あの男、黒達磨、じゃなかった黒ひげもここにきているのだろう。あの男の心には闇がある。悪魔の、闇の悪魔は夜を濃くする。その影響力が、の身にも出ていたのだ。

間違いなく、あの女がこの場に現れる。その気配をは濃厚に感じ取っていた。いや、あるいはもう具現しているのかもしれない。あの女の狙いはが宿る体だが、しかし、そのために他の体を一時的に使い、を死に至らしめることもあろう。狙われるのなら、一番はトカゲだろう。今現在、の次に、夜の女王に相応しい肉体と力を持っているのはトカゲだ。だが、はそれほどその点を案じてはいなかった。

トカゲがあの女に敗北するとはどうも、思えない。パンドラに打ち勝ち、そして、この自分の憧れであるトカゲが、あんな敗北者にどうこうできるわけがない。

はぎゅっと、サカズキの襟を掴んだ。そこには再び、夏の薔薇の刺青が入り込んでいる。そうしようと思ったわけではない。けれど、これから先、サカズキが持っていた方がいいと思ったのだ。

「わしは何を、間違えた?」

ゆっくりと息を吐くを見下ろし、サカズキが静かに問いかけた。は首を振る。

「何も。サカズキは何も間違えてないよ」

間違えたのは己だったと、は判っている。どこから間違えたのか、それはもうわからない。サカズキを愛してしまったことからか、などと、そんな都合のいい展開ではない。違う、もっと前から、自分はきっと、間違えていたのだ。

パンドラのことを思う。彼女の眠りが覚めた時に、今日はもう終わっているだろうか。今頃、白ひげが死んでしまったような、そんな予感がにはした。あの男も死に、そしてエースも死んだ。今日は、たくさんの人が死んだ。その中に、自分が入る。それだけのことだ。言葉にすれば、それだけのことだ。

だが、は今、そうとわり切れなかった。

堪え切れぬ感情が、今この胸に湧き上がる。けれど、はそれに押し潰されるより先にしなければならないことがあることを知っていた。ゆっくりと、は朦朧とする意識と戦い、サカズキの胸、シャツを強く握りしめる。全身が寒い。何もかもが、心から奪われてしまいそうな、そんな気がする。

「ぼくの部屋のものは全部、灰にしてしまって。何一つ残してはだめだよ?」
「わかっちょる」
「それから水の都にぼくのヤガラがいるんだけど、あれはパウリーくんに譲ってあげて。借金のカタにしたら本当に怒るって伝言もお願いね」
「あぁ」
「アーサーと、ジョージには手紙を書いておいたから、あの二人は大丈夫。きっと、ぼくを助けてくれたように、君の相談相手になってくれる」

遺言など考えたことはなかった。誰もが己より先に死ぬのだと、そう思っていた。だから、後のことを案じる人の気持ちなどわからなかったが、しかし、今こうして見て、いろいろ心配になってしまうことが分かる。あれこれと、は考えられるさまざまなことを口に出した。生きてきたこの長い時間で自分が手に入れたものを思い出す。サカズキは辛抱強く頷いて、の髪を撫でた。

「わかっちょる。何も、貴様は心配するな。するべきことは、心得ちょる。水の都の貴様の養い子のことも、貴様を慕う貴族のことも、貴様は、もう何一つ、心配するな」

サカズキの言葉にふわり、とは表情を緩めた。これまで多くのことを考えなければならなくて、そして、がんじがらめになっていた。しかし今、サカズキがそれを全て引き受けてくれると、そう、言う。できるかどうか、それはもわからなかった。けれど、サカズキがそう約束してくれたことが、の心を軽くする。いや、サカズキなら、きっと、約束を守ってくれるだろう。その信頼もあった。

「姉さんを、お願い」

じっと、はサカズキの瞳を見つめ、懇願した。サカズキの目は何も浮かべない。その反応をどうとるべきかと一瞬迷い、は続ける。

「これから先、姉さんを守ってあげて。ぼくを守ってくれたように。世の敵意から、姉さんを守って」
「……これは世界の敵。これまで通りにそうと、扱う。貴様もわかっちょるじゃろう」

パキパキ、と、の体に亀裂が入る。体は石のように固く、重くなってきていた。それでもサカズキは、何でもないように見つめている。

はそれ以上、頼まなかった。サカズキは大将だ。大将としての己を、けして捨てはしない。それであれば、姉のことはもう、何も言わなくてもいいだろう。

体がひび割れて、ところどころが砕けて行く。は何とか手を伸ばし、サカズキの頬に触れた。

「それじゃあ、これが最期。大将閣下に、お願い」




+++






抱きしめた体は氷のように冷たかった。いや、普段から体温は低かった。だが今は、もうどうしようもないことを、どうにもできぬところまで迎えてしまったのだという、事実の付きつけだった。サカズキは脆くなったの体を受け止め、見下ろす。

死ぬとは、判っていた。だから、開き直った。どうあがいても結果が変わらないのならと、己の感情を受け入れた。こうなることは、わかっているこだったはずだ。

何も、己は間違えはしなかったのだろうか。は間違えてはいないと、そういう。だが、己は本当に、何も間違えていなかったかと、サカズキは自問せずにはいられない。
もっと、これの話を聞くべきだった。もっと、何かしてやるべきだった。そんなことを、思う。後悔、ではない。なぜしなかったのだと、自分を責める。いや、しかし、そうはできなかった。これまで、一度も、そうは、きっと、できなかったのだ。

「ぼくを焼き尽くして」

最期の願いと、そう前置いてからが静かに告げる。大将に向けられた、魔女の頼みごとだった。

、」
「お願い。わかって、いるでしょう?」

言葉に直接出しはしなかった。それで、こちらが理解していることを諭す。忌々しい、井戸の中でパンドラを唆した女の存在を、サカズキは思い出す。はパンドラを眠りにつかせるため、再び魔女になった。その身は再び、あの女を受け入れるに足る器となった。夢物語じみたものだが、しかし、どうしようもない事実だ。

井戸の中で、死んだ双子。唆したあの女は、姉に囁きかけた。妹を生き返らせる、その代わりに、妹が「女」になったその時、その体をもらいうけると、そう、誓わせた。

その女の正体を、サカズキは正確には知らない。だが、どこからかやってきた、破滅を引く夜の魔女。名を、リリスと言った。双子の妹は、名がなかった。魔女の名を与えられることで、ひとつの個として存在することができるようになった。あの女、リリスの名を得て、夏の庭の番人リリスはこの世に現れた。いつか、その身をリリスに明け渡すために。

「わしに、貴様が殺せると思うちょるんか」

何度も、殺しかけたことはある。マグマの中に投げ込んだこともある。だが、今、殺意をこれに向けることができるわけがなかった。

だがは、悪意の魔女としての顔で今、こちらを見ている。

「リリスはこの世に破滅をもたらすよ。正義の大将が、赤犬サカズキが、それを許していいの?」
「妻を守るんが、夫の勤めじゃろう。、妻を手にかけたとあっちゃァ、正義の名が泣く」
「リリスは姉さんを殺す。どちらが大事か、なんてわかっているでしょう」

ごほり、と、が血を吐いた。サカズキは歯を食いしばる。そのサカズキの頬に手を触れ、が目を細める。目じりに浮かんでいる涙がこぼれた。

「お願い、ぼくを誰にも渡さないで」

その目が、魔女としてではなく、一人の人間としてサカズキを見ていたのなら、サカズキはその言葉に逆らった。だがしかし、それでもまだ、の目は魔女としてのものだった。サカズキを、大将として、海兵として、扱う。その、意思の強さ。だがしかし、指先がほんの僅かに震えている。それだけで十分だった。サカズキはを抱きしめ、そして、歯を食いしばる。





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「恋っていいよね、ラブロマンス」
「その辺の海兵相手ではするなよ。面倒だ」

シェイク・S・ピアの恋愛小説を読み終えてから、そう言えばきっぱりと吐き捨てられる。はおや、と肩を竦めてソファに身を沈めるとそのままずるずると横に倒れた。ごろんとなる視界に見えるのは相変わらず何が面白いのかさっぱりわからぬ仕事、黙々とこなして続ける中将どの。おひとりさま、ならこれほど楽なこともなかろうに、この男も他の中将らと同じように、縁談を進められているらしい。だからそのうち、おふたりさま、になるのかもしれない。手は速そうな男だからさっさと子供の3,4人でも作るだろうか。

「恋、恋、恋、ね。してみたいって、そう思ったことはないかい?サカズキ中将どの」
「誰に物を訪ねているか一度考えてから口を開け」

ばしん、とこちらに向かってインク瓶が投げ付けられた。今日は気に入りのショールなので汚れるのは嫌だと思い、はひょいっと指を振ってインク瓶を机に戻す。サカズキが不快そうに眉を跳ねさせた。それで、いまさら薄汚れても大差ないだろうとそんな視線。女心というものを理解していない不作法者が、とは口の中で呟いて、目を閉じる。

この男は、人に恋をすることはないだろう。それがわかる。

「君が誰かに恋したら、その相手は酷い目に会うだろうね。だって君、独占欲強そうだし。焼き尽くされちゃうんじゃないのかい?」

冗談めかして笑い、はそのままソファに寝転んだ。






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(そのぼくがサカズキに恋するなんて、どんな珍事?)

思い出し笑いをすると、サカズキが顔を顰めた。ぱちぱちと、体が端から燃えている。はサカズキに抱きしめられたまま、徐々に自分の体が燃えて行く、いや、マグマに溶かされていくのを感じた。痛くないわけがない。だが、は首を振った。

「平気だよ」

骨も、ちりも何一つ残してはならない。残してしまえば、それがあの女の手に渡れば、何もかもが無駄になる。サカズキもそれは知っていよう。だから一瞬でマグマに包むわけにはいかなかった。何もかもをひとつずつ、念入りに熔かさなければならない。はびっしりと、額に汗を浮かべた。この体はとうに致命傷を負っている。それでも死なないのは、ただの入れ物になっているだけだからだ。今もこうして、足がなくなったくらいでは、意識は消えはしない。ただ痛みがあるだけだ。

はふと思いつき、軽く指を動かす。ぽうっとその部分が赤くなり、一輪の薔薇が現れた。別段魔女の道具、ではない。サカズキが眉を寄せる。

「覚えてる?」
「…知らん」
「ぼくがきみに、最初に貰った薔薇なの。取っておいたんだ。ずっと。よかった、魔女の力が戻ってきたから、もう一回出せたね」

冗談めかして笑ったのだが、サカズキは笑わなかった。は息を吐き、その薔薇をサカズキの胸に飾る。白ひげに打ちのめされた時に落ちてしまったのか、今はもうなかった。やはり、サカズキには薔薇の花が似合うと思うのに、ないのはさびしい。

きちんと定位置に収まったのを見て、は満足げに目を細める。途端、体を焼かれる感触が戻ってきて、は思わず顔を顰めた。サカズキは奥歯を噛み締め、の頭を強く抱きしめる。傷みはあるだろうと、そう、声に出さないでいるサカズキに、は首を振った。

「痛く、ないよ。本当だよ。サカズキがくれるものなら、最後まで、ちゃんと全部感じていたいの」

この痛みも何もかも。は否定しなかった。そしてゆっくり息を吐き、サカズキを見上げる。

「眼、閉じていてくれると嬉しいな。ぼく、すごく汚くなるから」

段々と腹部にまでマグマが浸食してきた。まずマグマは皮膚を焼き、そして肉、骨をどろりと溶かしていく。辺りには人が焼ける悪臭が充満していた。目を覆うような、醜い有様になるのだろう。サカズキがこれまで容赦なく熔かしてきた海賊、犯罪者たちと同じように、何の違いもなく、熔かされる。正しい末路だ。正義の大将によって、悪意の魔女が、葬られる。正しい結果ではないか。

「泣かないでよ、サカズキ」
「泣いちょらんわ。バカタレ」
「鼻血流してても全身真っ赤でも、サカズキは溜息付きたくなるほどカッコ良かったけど、泣いてるの見たら、ぼく、苦しくなっちゃうよ」

ゆっくりと息を吐けば、サカズキの眉間に皺が寄った。ぱちぱちと、炎が胸を焼く。マグマが、腕を腹を熔かしていく。はぽたぽたと己の頬に垂れる水を指で撫でてから、サカズキの目じりを指で拭った。

「これまでね、ずっと、泣くのはみっともないって思ってたんだ。死ぬのはしょうがないって、だって、そうでしょう?いろんなことをして、死ぬのは、道理だって」

エースが、死んだ。その時のことを思い出す。周りで海賊たちが大声で、泣いていた。叫んでいた。死ぬなと、必死に言う姿があった。そんなもの、みっともない、見苦しいと、はこれまでずっと思っていた。死ぬのは仕方ないことではないのか。長い時間を生きてきたは、よく知っていた。死ぬと決まっているものは、どうしようもないことだ。喚くのは、みっともない。受け入れる心が、強さがあってこそではないのかと、そう、軽蔑していた。

「でも、違うんだね。サカズキ、違うんだよね?」

はサカズキの目、こぼれる水を拭い、ゆっくりと息を吐いた。肺がない。ひゅうひゅうと、音を立てる妙な感覚だった。炎が髪を焼く。髪の燃える臭いほど嫌なものはない。顔を顰めて、サカズキが目を閉じてくれればいいのにと、そう思った。けれど、サカズキはけして目を背けはしないだろう。己が、最後の最期までサカズキからの何もかもを受け入れると決めたように、サカズキも、の最期の、最後まで見続けると、そう、決めているのだろう。

「大好きだから、大事、だから、泣いてしまうんだね」

どんなに強い意志、心があっても、悲しまないことは不可能だ。は、今日それを初めて気付いた。失われていく命。もう二度と、目を開けてくれなくなる恐怖。死ぬことが、恐ろしい。は、初めて知った。命というものを、初めて感じた。

ノーランド、ロジャー、トム。これまで己が大切だと思った数々の人のことを思い出す。彼らの死を、己はなんとか乗り越えてきた。けれど、それは魔女としての意識をはっきりと持てたからだ。そういうものなのだと、頭の隅で理解もしていた。置いていかれるのが当然だという、覚悟の上の悲しみだった。

これまで、はサカズキを失うということを、考えたことがなかった。バカのような思いこみだ。サカズキだけは、絶対に自分の傍にいて、そして自分もサカズキの傍に居続けられると、そう、思っていた。

白ひげや、エースのことをは思い出す。彼らは、何も間違ってなどいなかった。

理性、ではないのだ。大事なひとが死のうとしている。それを、どうにかしたいとなりふり構わないのは、しようのないことなのだ。これまで、知ってはいることだった。けれど、あれだけの責任を持つ人間が感情的なそれを選ぶことがみっともないと、そう、笑っていた。

「サカズキ」

失うことは、慣れていた。大事な人が自分を置いていってしまうことには、慣れていた。それが当然だと、もう、諦めていた。だが、これは初めての経験だ。

おのれが死ぬ。以前、井戸の中で死んだ時の記憶はない。当然だ。自我の芽生える赤ん坊だった。だから、今初めて、死の恐怖が己を襲う。

置いていかれることは何度もあった。だが、今日は逆だった。自分が、大事なひとを残していく。もう二度と、会えなくなる。エースのように、微笑んで死ぬことはできない。恐怖で、今も体が震えた。

これから先、サカズキの傍にいられなくなるのが、怖い。サカズキに何かあっても、自分はそれを知ることができない。己が、終わってしまえば、もう、己がいなくなったら、サカズキを見ることが、できなくなる。

「サカズキ」

は頬までマグマが浸食してきたのを感じた。骨だけになった体は崩れ、マグマの中に沈む。己の体がどんな状況なのか、もう判らない。目だけがまだ、見えていてサカズキを見つめることができていた。唇も、もうじきなくなる。

「ごめんね」








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井戸の中で、パンドラが願った気持ちが初めてわかった。愚かな願いだと、思って来た。だが、閉じられる眼。もう二度と動かぬ唇。冷たくなっていく身体が、その思考力を奪う。これまで何度も、何度も見てきたはずだ。人の死など、何度も見てきた。その度に、乗り越えてきた。死者が安らかに眠れるようにと、その志を継いできた。

だが、しかし。今この胸にあるのはこれまでのどんな感情とも違っていた。

歯を食いしばり、サカズキはマグマの腕でを抱きしめた。焼け付く皮膚。ひとの肉の焼ける臭いがした。どろどろと、それは酷い有様だった。だが、眼を逸らさなかった。自分が与える何もかもを最後までが受け入れたように、己も、最後の最期までが見せるものから眼を背けずにいるつもりだった。

愛してなど、いなかった。これは罪人だ。正しく生きられなかった女。罪と嘘を重ねてきた、醜い女だ。己の欲のために姉を騙し、故郷を捨て、恋人を殺し、国を滅ぼし、姉の子供にまで手をかけた。これは、そんな醜い生き物だった。

瞼の裏に、それでも浮かんでくる。か細い肩、こちらが触れればすぐに悲鳴を上げるほど弱々しく、薄い身体だった。何度も何度も、打ちのめし、そして世界に打ちのめされて、それでもまだ足りぬのだと、その眼がいつも言っていた。昔のことなど何も覚えていなかったのに、己がどうされるべきかを知っていた。

ただの一度も、これは己の境遇を嘆かなかった。

「ごめんね」

体中がマグマに埋まり、それでも泣き叫ばなかった。臆病者のくせに、うめき声ひとつ上げなかった。嵐が来ただけで泣き叫ぶような、根性なしだったくせに。ただ、顔を僅かに顰めそして、掌を強く握っていたことには気付いている。その掌をといて、掌を合わせた。握りしめた手の力は強く、どれほど痛みを感じているのか、わかった。

マグマに呑まれて、溶けていく。ドロドロになり、何もかも、残してはならない。大将としての義務だった。一つでも取りこぼしがあれば、これの死の何もかもが、無駄になる。

オハラのことを、思い出した。己とが二度目に会い、そして捕えた場所のことを、思い出す。

学者たちが潜んでいるかもしれないという可能性で、自分は避難船を沈めた。全ての犠牲を無駄にしないために、悪は可能性から根絶やしにせねばならなかった。

だが、オハラではニコ・ロビンが生き残った。

二度と、そんなことをしてはならない。もう二度と、悪を逃がすことはしない。サカズキはもう意識のないの体をマグマの腕で抱き込み、更に熔かしつくした。一度溶けたマグマを、更に焼き尽くす。何度も、何度も、繰り返した。

最期の、最後まで己は海軍本部の海兵で、そしては、魔女だった。







Fin