逃げようとする、のその腕をシャンクスは掴んだ。力を入れるつもりなどはなかったのに、絶対に今、彼女に逃げられてはもうどうしようもないほど遠くに行かれるような気がして、それで必死に、ぐっと、強く掴む。柔らかな肌と肉の感触を味わうより先に、が掴んだ痛みに顔を顰めぬかとそればかりが気になった。腕を掴み、飛んで逃げようとしたその身体を留めて、ぐいっと、シャンクスはの身体を抱きしめた。カタカタと、小さく震えているのは拒絶かと絶望感に押しつぶされそうになる。必死に抱きすくめたために顔が見えない、不安ばかりが増している中、シャンクス頭、左耳の付け根から静かに、が髪に指を差し込んで、そして、小さな声を出す。

「……どうしてきみが、震えてるの」

の声は戸惑っていた。もちろん、シャンクスの急な言動に対する恐怖はしっかりと、急変した少年から男へえの態度の変化に怯えもあっただろうが、しかし、それよりもには今、シャンクスがまるで嵐にあった被害者のように震えている様子のほうが気がかりのようだった。

「……震えてなんか、いない」
「嘘。ばか、そんな声、顔しないでよ。ねぇ、ぼくがきみに酷いこと、してるみたいだよ」

言われてシャンクスは、カタカタと身体を震わせているのは自分の方だったと、そう、気付く。こんな恐怖はこれまで一度も感じたことがない。心の奥底からの恐怖がじんわりとあった。全身からどっと汗が出てくるようなのに、どこか底冷えしているよう。カタカタと、緊張ゆえなのか、恐怖ゆえなのかわからぬが、シャンクスは身体を震わせていた。

「…おれ、かっこ悪ィな」

こんなことは初めてだ。いや、似たことなら何度かあった。に喜んでもらいたくて、立ち寄った島の崖の上に咲いている花を摘んできて、そして渡すその瞬間や、笑って欲しくてバカをやったとき、どんな顔をしてくれるのかと振り返った瞬間に感じる、期待や恐怖不安の織り交じった、ただ只管心臓の鼓動が早くなって息も出来なくなるような、あの時とよく似ていた。けれど、今はそれらよりも随分と「大きい」気がする。これまでぐっと腹に力を入れれば、手は震えたけれどなんとか堪えられた。今はそんなこともできないよう。そして、をこんなにも近くに、触れることができているということがさらに輪をかけているのだ。

「すごいね、シャンクスの心臓すごくどきどきしてるよ」
「口から飛び出しそうなんだ。全力で陸を走ったあとみたいに、苦しいんだ」

たった一言、言っただけではないかと、シャンクスは自分で自分に呆れる。ただ一言、と「生きてくれ」とそう言っただけだ。盛大な愛の告白ならもっと気の利いた言葉もあって、そちらの方が緊張しそうじゃないか。それなのに、たった一言、こんな言葉だけで自分はなぜこんなにも動揺しているのか。

ぎゅっと目を伏せると、が身体を捩った。これ以上触れ合っていればシャンクスは気が可笑しくなりそうだが、けれど今ある体温が離れることが嫌で抱きしめる力を込める。

「シャンクス、ぼくの返事を聞く気はないの?」
「『はい』以外なら聞きたくない」
「子供じゃないって言ったのは自分だろうに、何を子供みたいなことを言うのかねぇ」
「どうせ断るんだろ」
「もちろん」

若干期待も無いわけではなかったが、のそのあっさりとした言葉にシャンクスはぐっと、息をつまらせる。いや、わかっていたことではないか。がロジャー船長以外の手を取ることなどありえない。そういう様を何年も見てきたのだ。たとえばレイリーさん、副船長やクロッカスさんなら別の選択ということでその手を取る可能性もあったかもしれないが、海賊見習いの、のことをまるで知らぬ自分を選ぶ、選ばれるだけの何かなど、シャンクスはないと、自分でもきちんと自覚してはいた。

シャンクスはむっと眉を寄せて、の青い目を見つめる。真っ直ぐに見つめれば相変わらず自分の姿が写っていて、がころころと笑いの形を取ればその瞳の中の自分が揺れた。

「だって、シャンクスはロジャーじゃないもの。きみはきみで、ぼくは、ロジャーと「生きることができれば」と思った理由をきみに求めはしないんだよ」
「…つまりは?」
「自分でお考えよ、きみは頭がいいんだから」

「Yes/No」ではないと、シャンクスは判断した。そうしてじっくりと、を見つめる。明日、は船を下りる。そうと命じられてもは反論しなかった。「ロジャーが決めたことならね」と彼女はどこまでも船長に従う魔女だった。レイリーさんは何か言ったそうだが、シャンクスには聞こえなかった。そうしては明日船を下りる身で、そして、シャンクスはまだ、明日もまだ船にいる身だ。その上で、が「はい/いいえ」ではないのだとそう言う意図を考える。

「つまり、」
「うん?」

これが正解かどうか、ということはシャンクスにも、そして当人にも「構わない」のだろうと頭の隅で思いつつ、シャンクスはの手を取った。左手首をやわらかく押さえ、その細く小さな指に顔を近づける。薬指に噛み付くには丁度いい距離だったが、触れた途端びくり、とが強張らせたのでシャンクスは何もする気はないと目を伏せて告げ、が「安心」だと思う距離を取った。

「アンタは臆病で逃げ癖があって自分がとんでもなく年上だからっていう理由でアンタを好きだっていう奴らを全員「子供扱い」することで退けるような卑怯者だから」
「喧嘩売ってるなら買うよ?」

ノンブレスで言い切る。は眉を寄せて不満を口にするがその声は若干かすれている。結局のところはそういうことなのだ、とシャンクスには最近、わかっていた。結局が己までをも子ども扱いするのはそういう防衛なのだと、そう、気付いてしまった。そもそもが御伽噺どおりの「魔女」であるのなら慈愛・慈母の精神なんて持ち合わせがあるわけもなく、それでもは「子供扱いが上手い、優しさのようなものを持っている」というその顔は、結局のところは、自身に対して向けられている自己憐憫なのではないか。いや、には確かに優しさがあるとシャンクスは知っている。だがその優しさは自分たちを「子ども扱い」している心から出るものではなく、あくまで「子ども扱い」している心というのは、自己防衛のものでしかないのではないか。

シャンクスが何か言うのを待つ、待ってそして出された言葉をどうチャカして乗り切ろうかとそう必死に思考しているの瞳を覗き込んで、怯えさせぬようにぱっと手を放す。

「おれはアンタが怖がらないでおれに触れてくれられるほど、アンタから信頼されるようになりたい。ロジャー船長とは違う理由をアンタがおれに見つけてくれるようになるほど、おれはアンタの中で生きている男になりたい」

はそういう生き物だ。「×××だから」ロジャー船長を選んだ「〜〜〜ということがあったから」ロジャー船長を選んだ、というのではない。その人そのものを、丸裸の原点をしっかりと理解してその付属品である「理由」を飲み込むのだ。はロジャー船長を「信じ」た。だからこそ、ロジャー船長と生きる「理由」を見つけてそれをずっと抱えてきた。卵が先かひよこが先か、とそういう問答なのかそれはシャンクスにはわからない。けれどは、シャンクスが何を言っても、何をしても現時点では「選び」はしない。シャンクスを「選んでいい」と思えるほどの中で割合が大きくならなければ、たとえシャンクスがロジャー船長とまるで同じことをできるとしても、を笑わせることができたとしても、はシャンクスを「坊や」というのみなのだ。

「急に動いてアンタを怯えさせたりしないし、大声を出して怖がらせたりしない。礼儀正しく接して、アンタが、おれを信用できるように努力する」

こう云いながらシャンクスは今現在必死にのその白い頬に触れたい衝動を戦い、堪えることが出来る自分なら「可能」だとそう信じた。実際のところを前にし続けて、どれだけ押さえることができるのかという微かな不安はないわけではないが、に信じて欲しいという己がそもそも自分を信じずにどうすると、そう言い聞かせる。

「それができればどれほど、」

は安心したというよりは、眉を寄せ苦しそうな口調で言った。シャンクスへの面当てではない。本心、普段からあまり「本心」というものが感じられぬの珍しい「本音」がこぼれる。最初から信じる可能性事態を否定されていると、その声音はシャンクスに告げた。そうなれば自分のしようとしていることがすべて無意味に思われるが、しかしシャンクスは面白くないと思う自分を我慢(それこそ子供だ)しての手をぎゅっと、握る。

「約束だ。おれは絶対に、アンタを裏切ったりしない」

だから手を握り返してくれと、切に願い俯いて始終、星の瞬きの下ずぅっと二人でそう沈黙していて、結局のところ夜明け前までには、は、結局は、シャンクスの手を握り返してそして、おずおずと、ぎこちなく微笑んだ。

「それなら、ぼくはきみを好きになってもいいんだって思えるように、努力をするよ」








え、ちょっと昔の男だったの!!!?(←タイトルは冗談です)






戦場に立ちシャンクスは目の前に対峙する「最高戦力」の一人を真っ直ぐ見据えた。この頂上決戦の名に相応しい戦争ではいくら自然系の身といえど無傷ではいられぬようで負傷はしているが、しかしそれでもまるで怯まぬ、傷など負っていないという堂々としたその態度。同じようにこちらを睨みつけているその視線を受けて、シャンクスは内心で動揺が起こらぬようにと自制した。

今この場で己が考え発言することは、船の中で何度も考えてきた。しかしこうして、実際のところ、この20年というものを傍に置き続けたという「大将赤犬」を目の前にして、そしてその傍らに今現在の姿がないことに、シャンクスは動揺せずにはいられなかった。この男が、この、「絶対的正義」を魂にまでも刻んで他を一切認めぬような苛烈極まりない男が、20年もの長い間を傍に「置いて」いたのだ。どんな態度であったのかは少なからず耳に入っている。酷いことばかりしているのだと聞いて何度を助けに行こうと思ったか知れない。半死半生になって海に落下したと聞くたびにシャンクスは何もかもをかなぐり捨てて海軍本部に行こうと思ったことか。

だが実際シャンクスはこの20年間一度も「そう」はしなかった。正確には、できなかった。自分の身を弁えていた。20年前ならまだ駆け出しで身の程を自覚しているゆえ、そして海で名を上げ力を付けた後は、そういう自分が「海軍本部」に赴くことが世界にどう影響を与えるのか、己の身分の責任を自覚して、シャンクスはと会う選択をしなかった。己個人の感情と世界のどちらが「どちら」とその判断をして、その結果だ。

しかし、今現在、シャンクスはけして来ることができなかった「海軍本部」に立っている。を助けたいという理由では動かなかったこの足も、この「戦争を止める」という目的のためであれば動き、そして覚悟を決めることができた。

結局のところは、己はいつだってを一番に選ぶことはできないと、そう突きつけられる。

「おどれ、何しにきた」

対峙しにらみ合うだけでも緊迫した空気がどうにかなりそうな中、赤犬が口を開く。びりびりと相手を威嚇するに相応しい声音だ。シャンクスは一瞬「いつもにこんな声を向けていたのか」と思う心に蓋をする。今、考えるべきことではない。今のことを頭の中から切り離すべきだ。そうとわかっている。しかし、シャンクスの目は自然に、当たり前のようにこの戦場にの姿がないか、それを探していた。

(あいつの姿がない。おれが「見えない」だけなのか。それとも)

いや、今考えることではない。シャンクスは一度、隙にならぬように注意を払いつつ目を伏せる。の姿がどこにも見当たらない。いる予感がしない。いないのだ、という方が正しいように思える。赤犬が安全な場所に逃がしたという可能性もあるが、そうは思えなかった。

「この戦争を終わらせに来た」

赤犬が顔を顰める。「四皇」の一角の登場はこの戦争、戦場をどう動かすのかわからぬ「大将」ではない。即座にこちらの首を跳ねることが可能なら赤犬はたとえ世界のバランスが崩れようがそうしたろうが、生憎そうあっさりできるほど実力に違いがあるわけではない。

「あれならもうおらんぞ」
「おれを動揺させようとしたって無駄だ。ここへは、海賊赤髪のシャンクスとして来た」
「わしが殺したァ云うても顔色は変わらねェか」

ほんの一瞬、シャンクスは赤犬を罵りそうになった自分を感じた。だが柄を握った手にぐっと力をこめた途端、ふわりと薔薇の、香りがした。





+++





「はいはい、おっはー、世のご令嬢ども期待の元カレ今カレの素敵ドンパチシーン、最前席で面白可笑しく眺めようとしていたこのおれも、今の赤犬の子供じみたやり方にはちょっと失笑してしまって座布団没収を宣言したいところ。長い前置きはどうでもいい、あァ、赤髪、老けたな」

赤犬に半身を解かされ回復に専念しているだけだったトカゲ、何やら面白いことがあるようじゃァないかとニヤニヤ戦場を眺めていたのはいいのだけれど、赤犬と赤髪、本当あの子は赤が好きだと思われるそろいの色所持者の180度タイプの違う男二人のやりとり、聞いていてついつい、口を挟んだ。

ひょいっとトカゲはデッキブラシを使って赤犬と赤髪の間に降り立つ。長身を自負するトカゲだが、それでも赤髪よりは少し低い。ヒールのかかとを上げて、こちらを見つめ目を見開いているシャンクスの顔を覗きこんだ。

「はい、シャンクス、おっはー」
「……おまえ…か?」
「ふふ、ふ、このステキすぎるおれとあの根性なしを一緒にするんじゃァないよ」

間違えられるのはインペルダウンでのバギー以来か、とトカゲは懐かしく思う。髪の色や目の色、それに顔立ちも若干似ている己。20年間と会わなかった赤髪が疑惑を浮上させるのもわからなくはないけれど、あの小娘と自分では気品が違う、とトカゲは堂々と主張したい。

「つい昨日カイドウとやりあっていると噂のあった卿がなんだってここにいる?」

インペルダウンでモモンガ中将をからかっている最中、トカゲは政府より赤髪への使者になるようにとそういう指令を受けた。世の乱れを疎む赤髪ならこの戦争で怒りうる、戦争中の海での出来事を鎮圧するいい手ごまになるのではないかとそういう打算ゆえのこと。当然トカゲは一蹴にして断ったが、しかし「昨日」争っていたという情報はしっかり覚えていた。

そんなに早く移動できるものか、という疑問。そしてほんの一瞬トカゲはその情報そのものを疑う心が必要かと沸いた。よもや赤髪の動きを政府に「把握」させるためにカイドウと図っての「小競り合い」というのなら、それはそれで面白い。そうして目をしっかりと向けさせておいてこの戦場へ乗り込む、とその計算高さはトカゲの買いかぶりか。

戦場は赤髪海賊団の登場にどよめいている。さらに云えば、現在戦争も終盤にさしかかり海兵白ひげ海賊団ともに「疲弊」しているからこそ、保てている均等もあった。だがここで「無傷」の赤髪海賊団の登場だ。それだけで十分な布石になる。

「バギー!!」

トカゲ、シャンクス、赤犬がそれぞれにらみ合って数秒、ふとシャンクスは拾って手に持っていた麦わら帽子をひょいっと、空、未だにふよふよと浮遊していたバギーに向かって投げつける。

「そいつをルフィに渡してくれ!」
「はァ?!麦わら!?なんだっておれが、」
「お前にあげたい宝の地図があるんだが」

条件反射で麦藁帽子を受け取ったものの、これ以上ルフィに接近すれば再度黄猿たちに攻撃されるのではないかと危ぶむバギー。しかも宅配というか、使いっぱりしじみたこと、と難色を示す。それに対してシャンクスは無理を言うわけでもなく、ごくごく自然にそう切り出して、そしてバギーの顔が輝いた。

「何!!宝の地図!!!?ホントかおい!!!待ってろ今届ける!!!」

あぁ、バギー。なんでお前はそんなに癒し系、とトカゲは不憫に思うよりも先に感動してしまい、思わずバギーに拍手を送ってしまった。あれだ。このおっかないドS亭主と赤髪の緊迫してしかたない空気の中、バギーのあの全く持って身の程を弁えない声が響くと、それだけで面白い。

絶対シャンクスの「宝の地図〜」発言は嘘だろう、と、トカゲはこちらのシャンクスとは初対面だが、それははっきりと見破れた。それなのに素直にひょこひょことトラファルガー・ローの潜水艦まで麦わら帽子を届けにいくキャプテンバギー。いや、本当なんだってお前はそんなに可愛いんだ、と、トカゲはもし赤旗と出会わなかったら自分はバギーを嫁に貰っていたかもしれないと本気で思う。

「…!おどれ、赤髪…!!ドラゴンの息子を…!」

四皇に立ちふさがれては即座の追撃も不可能。足止めを食らい、潜水艦が動き出すことに気付いた赤犬が唸る。いかに赤犬といえど海の中に逃げられればどうしようもない。赤髪に攻撃することも厭わぬ、とその目が決意する前に、潜水艦の見える海が音を立てて凍りついていく。

こんなときだけ真面目に働くな、とトカゲは氷河時代を発動させたクザンを罵った。

「わたしたちもいますよ」

だがあの速度なら潜水艦はギリギリ逃げられるかとトカゲが判断したその直後、ヒュン、と、海に向かい無数の光線、それに凍った海の上を黒く発光する文字列が走った。

ベン・ベックマンに抑えられていた黄猿と、さらにはいつのまにか合流したのかその黄猿の背に足をかけているシェイク・S・ピアが攻撃の形を取って飛び上がっていた。八坂の勾玉と詩篇のあわせ技、海面が光に覆われ、高く飛沫が上がる。

容赦ない、これ死んだんじゃないかと、トカゲすら一瞬焦った。

すとん、と黄猿はマストに、ピアはミケの背に乗り換えてトカゲの隣に降り立った。

「これで死んでなかったら、運が良かったということで」
「死んだのは卿ではなかったということは、残るはキキョウか?」

柔らかなわたげのような髪を揺らして立つピアを横目で一瞥してから、トカゲは先ほど感じた「魔女の喪失」を思い出す。てっきりピアでも死んだのかと思ったが、こうしてけろりとしている上に、相変わらず魔女の力も使えるよう。そうなれば先ほど感じ、死んだ「魔女」はカッサンドラの魔女のキキョウか。短く問えばピアは眼を細めて薄く唇を開く。

「彼女、死んだんですか」

一応ピアはキキョウとはそれなりに面識があるように思われたが、今現時点での感想はその一言のみなのか。別段トカゲはピアは薄情とは思わぬが、もう少しこう、何かないものかとそう不服に思う。腕を組んで首を傾けていると気付いたピアが眼を細めて喉を震わせた。

「それなら、今わたしの目の前、赤髪さんの真後ろに立っているのって誰なんでしょうね」

その途端、戦場に女のつんざくような悲鳴が響いた。はっとしてトカゲは銃を構える、ピアは腰の鞭を撓らせて大きく一歩後ろに下がった。だが、「何か」という絶対的なものは起こらない。ただ青い炎がぼぅっと周囲に湧き上がり、赤髪の首を背後から切り落とそうと足を振り上げたキキョウが、マルコによって地面に押さえつけられた。

「キキョウ……!!!!!」

てっきりに殺されたと思っていたキキョウの登場を喜ぶ暇もないマルコ。殺意と狂気に満ちたキキョウを強く押さえつけ、その足や腕につけられた鋭い剣を奪い取る。

「…!!!は、なせ!!!離せ!!マルコ…!!!わたしは…!わたしは!!!」
「待てよい!!この状況でなんでお前が赤髪に手を出す!!!!落ち着けよい!!キキョウ!!」

見えぬはずのキキョウの目はらんらんと憎悪・敵意に満ちていた。頭を振りかざし、わめく姿、トカゲは眉を寄せ、赤犬用にとっておいた悪意の弾丸を構える。

「退け、マルコ。その女は生憎気が触れてる」
「おれの妹に手ェだすんじゃねェよい」

何か嫌な予感がトカゲにはあった。それは同じく魔女のピアも同様のようで、わめくキキョウを「みっともない」と皮肉を言うより先に、ピアはこの場から距離を取り、その身を詩篇で固めている。片手には黒い背表紙の本、てっきりあれがリリスの日記であると勘違いさせられたもの。しかし、その本が今はカタカタと震えているではないか。

「マルコ…!!マルコ…!!!わたし、わたしは…!!エースも、白ひげも助けられなくって…!!!」

わめき散らして暴れていたキキョウが、マルコの言葉にやっと正気を取り戻す、かのように急にしおらしくなる。

(この違和感はなんだ)

叫び頭を振り乱していたキキョウはふるふると身体を震わせ、その見えぬ目から大粒の涙を流してぎゅっと、マルコに身を寄せた。エースを、そして白ひげを失った悲壮感を漂わせ悲しみに打ち震えるというその姿。マルコは家族としてその痛みを察するのか、ぎゅっと唇を噛んでキキョウの細い肩を抱きしめた。

「……マルコ、もうこれ以上応戦するな。手を引け」

戦場で深い悲しみを響かせるキキョウの姿に、赤髪も眉を悲痛なものでも見るように眉を寄せて、そう呟いた。その言葉にトカゲは我に返る。キキョウが唐突なキャラチェンジ、というのは聊か腑に落ちない。こうもあっさり、涙涙を露にして男に抱きついて震えるような、そんな女であったのか、そうだ、魔女とはあくまで『魔女』であり、女の生々しさに悪意が感じられてこそのもの。それであるのに、あのキキョウはまるで「女」ではないか。そのことが、妙にひっかかりはする。しかし、今この戦争のことを振り返り、トカゲは赤髪に視線を戻した。

「これ以上を欲しても、両軍被害は拡大する一方だ。まだ暴れ足りねェ奴がいるなら」

すっと、シャンクスが剣を引く。すると船から降りてきた赤髪海賊団の面々がその背後に立ち並んだ。早々たる面子。どれもこれも『強者』というほかない海賊が、堂々としてその場に立ち、海軍・海賊たちに向き合った。

「来い…!おれたちが相手をしてやる…!!」






+++






ひょいっと、パンドラは長い髪を結わくのに丁度よさそうな紐を見つけたので腰を屈めてそれを拾い上げた。元々は海兵が刀を縛るのに使っていたのだろう、しっかりとした、色の鮮やかな紐だ。元々は黒かっただろうそっけなさはあったが、今は持ち主のその血で丁度良い色合いになっている。

「あら、わたくしあの方になら相手をして頂きたくてよ?」

戦場の最前線、現れた赤い髪の海賊には興味を持った。堂々としたその姿。礼儀正しさもどことなく感じられ、金髪でないのが惜しいほどだ。あの海賊の名は知っているが、リリスの記憶には殆どなかった。あまり付き合いがない、あるいは、己に渡したくない記憶があったということだろう。赤い目を細め、そしてパンドラは首を傾ける。

「ねぇ、ラフィット、これで戦争はお終いになるのかしら」
「まぁそうでしょうね。赤髪のシャンクスの登場、彼の言葉通りこれ以上戦ってどちらも大量に死者が出るというだけのことです」

それのどこが悪いのかしら、とは呟いて、そして己に背を向けすたすたと歩き出した男に声をかける。

「あなた、わたくしを殺したいのでは?」
「無論」
「ではなぜお引きになるのです。まだ戦争は続いていてよ」

先ほど己が背を向ければ「逃げるのか」と言ってきた男が、今度はあっさりと己に背を向ける。この男は気まぐれなのか、それとも独自のルールがあるのか、それはパンドラにはわからない。

「白ひげと戦うことは承諾したが、赤髪は協定の範囲外だ」
「つまらないことをおっしゃるのね、殿方は、とりあえず殺しあえればいいのではないのですか」

この男とあの赤髪は知人なのか?それだから戦うことを避けているのか、とそんなつまらぬ予想くらいしかパンドラには立たない。その可能性はないだろうとは思いつつ、他にどうというものも浮かばぬのだ。協定の範囲外、というのはどういう意味だ。この男は政府の肉きり包丁で、結局のところはどこぞで強い者と切り結べれば構わぬという戦バカなのではないかと、そう思うのだが、違うのか。

わからぬ、という顔をするパンドラを鷹の目が振り返り、帽子に隠れがちになった黄金の目を細める。

「おれは斬ることしか頭にないような狂人になった覚えはただの一度もない。そなたと同じように」

パンっ、と、パンドラは一歩前に踏み出して、鷹の目に手を振り上げていた。単純な平手打ちである。容易く避けられるもので、あっさりと鷹の目は手を掴み、それを止めた。パンドラのまあかの瞳と男の黄金の目が合う。パンドラはその赤い唇をわなわなと震わせ、何か叫びだしそうになるのを堪えて、ぎゅっと唇をかみ締めた。その必死に「耐えた」顔を間近で眺めた鷹の目はそのまま感情の篭らぬ平板な声で口調で、口を開く。

「やはり、貴様、正気だな」






Fin




(2010/07/13 21:19)