海軍本部の最奥にひっそりある空間。大将や元帥の私室もあるその場所に、階級を持たぬ生き物の部屋がある。部屋の細部には海楼石が施され、窓は透明だが開かぬつくり。密室というよりはいっそすがすがしい牢屋であると冗談めかした少女の軽口、聞きとがめた大将によって蹴り飛ばされ黙らされたのはもう随分前のこと。
暫く大将赤犬が多忙によりの監視が出来ぬとのこと。これは職権乱用じゃないのかとそんな疑問もわくのだが、例によって例の如く、のお守りを言いつけられた我らが不遇のチャンピョンX・ドレーク少将。
朝からの妙な言動に今日もキリキリと胃を痛めつつ、やっと昼時。大人しく届けられた弁当を食べてコロコロと、がソファで転寝を始めたので、油断した。
チョキ、と、妙な音がしたので顔を上げ、ドレークぎょっと目を見開いた。
「っ、何をしている!!!!」
銀色の鋏を手に持って、鏡もなく下に紙を敷くわけでもなく無造作にちょきちょきと、髪を切っている、小さな少女。ドレークが駆け寄ってハサミを没収すると不満そうに眦を吊り上げた。
「返してよ、デュエス少将」
「何をしているんだ!危ないだろう!」
何をしているのかなど見ればわかるのだが口をついて出てしまう。ぎょっと驚いたが自分でも何故止めたのかわからぬ。危ない、とは言ったものの、鋏程度で傷を負ったところでこの生き物、どうにかなることなどない。しかしその柔らかな白い肌が鋭利な刃物で傷つけられて赤い血を流すのは忍びないという思い、ないわけでもない。
は不機嫌に唸り、がつん、とドレークの弁慶を蹴る。赤い靴、つま先の程よく硬質化された靴での一撃は中々答えた。それをぐっと堪えてデュエス・ドレーク少将、どんな星の元に生まれたのか、常であれば准将以上からとそういうはずの「海の魔女」のお守を中佐時代から任命されてしまった、少将殿、負けぬよう腹に力を込めてをきつく咎める。
「髪を切りたいのなら散髪師を呼ぶ。だからこんなことは、」
「バカだねぇ、このぼくの髪がただの人にどうこうできるわけないだろ」
ふん、と、鼻を鳴らしてドレークを睨む。傲慢・尊大・自分中心を人の形にしたような生き物。普段機嫌の良い時はコロコロと笑いながら子供の声を顔をするのだけれど、今、相当に不機嫌な時はとことん、ドSである。それなりにとの付き合いも出来てしまったドレーク、これまでの経験からロクなことにはならないとビクリと、身構える。それを見てが詰まらなさそうな顔をした。
「心配しなくたって。怪我なんかしない、そんなヘマはしないさ。それにほら、面白くもないけど」
パチン、指を鳴らす。ふさりと、切ったはずの髪の長さが綺麗さっぱり元通り。床に落ちていた切った髪はふわりと塵になって消えた。時の止まった少女の体。全ての現象は「なかったこと」となる。その速度は度合いや条件によって異なるらしいのだが、なるほど今はの意志により戻った、ということ。
髪の長さが元通りになったことになぜだかドレークほっとする。己の意思ではない。数年前に口にした悪魔の声、心だ。その真理を追究したものは海の悪魔になるという。何のことかはわからぬが、しかし、そんなことになったとしても誰も幸福にはなれぬとそういうことは漠然とわかっていた。それはさておき。
「ではなぜ切った」
溜息一つを吐いて問う。理不尽な話ではあるが、この少女の一切、大将赤犬のもの。その髪の一本だって彼女の好きにさせてはならぬのだと、そう、言われている。本人が「どうしても切りたい!」とそういうのなら赤犬に自分も一緒に罰せらて我を通させてやりたいが、こうしてあっけなく戻したところを見れば、そうでもないらしい。
「なんていうか、暇つぶし?」
飽きたんだよねぇ、なんて容易くいいながら爪を弄る。どっぷり黒く塗られた爪、そういえば白いときを知らない。まさかこの爪の黒さまで「道理」なのだろうかとそんなことをぼんやり思えば、気付いたのかが面白そうに笑う。
「ふ、ふふふ。爪は塗ったんだよ。上から塗られたものは構わないんだ。これは毎晩手入れをしてるんだ。最近黒い服を着ないから」
「それと爪が黒いのとどう関係があるんだ」
「無粋だねぇ。デュエス少将」
の言動、まともに取るだけ胃が痛む。(←ヘタレ)軽口のように目を細めてころころ笑うに機嫌が戻ったのだろうかと思いつつ、ドレーク、鋏をコトンとテーブルの上に置いた。そうすると素早くが鋏を取ろうとするので、もう一度取り上げる。
「少将!」
「意味のないことならするな。お前は何がしたいんだ」
「暇つぶし?」
なんで疑問系なのかとかそういう突っ込みはするだけ無駄である。、嘘は付かないが本当のことを言うかわいらしさなどない。この口調、言葉遣い、先日マリージョアに赤犬の同行をさせられた時に知った七武海の男そっくりである。余計なことを教えられてきたに違いないと思い当たれば本当に胃が痛い。
そんなドレークの様子を眺めていた、不意にふっと、真顔になる。
「?どうし、」
「ねぇ、デュエス少将。素朴な疑問なんだけど、ぼくが准将以下の海兵にちょっかいかけたりしたら、どうなるの?」
「悪い意味で、人生が変わります」
問われた言葉、声音は「海の魔女」のもの。普段わがままをいう、どうしようもない幼子のものではない。いろんな決まりごとをしっかり承知で、余計なことをせぬ魔女のもの。そういう時はドレーク、敬意を持って接する。年功序列というわけでもないのだが。、とんでもなく年上のうえに、さらに、ドレークには到底及ばぬ知識、経験を持っている。こうして子供の姿ゆえに侮ることも容易いが、しかし、どこぞの国の賢者らにも及ばぬ叡智の持ち主なのだ。
(いや、その大半、悪戯にしか使われないが)
こほんと、ひとつ咳をしての反応を待てば、、ふん、と鼻を鳴らした。
「はっきり言ったね。なぁに、ぼくは迷惑なの?」
「事実を言ったまでです。貴方の意思がどうであれ、貴方の行動がどうであれ、海軍に属し、しかしまだ将官ではない海兵が貴方の存在を知れば、それは、良いことではない」
准将に上がったものは、皆元帥より直々に「悪意の魔女」の存在を知らされる。海兵として海を行き来していればおのずと「海の魔女」の名を聞くこともあり、海兵の階級が上がるたびに徐々に、真理へと近付いていくのだ。悪意の魔女の存在を知ることは罪ではない。知らなければならぬこと、でもある。だがその段階が必要なのだ。階級を上がることは、成長すること。知識を増やすことである。徐々に、徐々に、魔女の悪意に慣らされなければならぬ。出なければ唐突に「悪意の魔女」を知れば、拒絶の意が強く出てしまう。そうなった人間は海軍本部には不要だ。そんな人間はいてはならない。だからこそに、准将から、なのである。
「……」
言い切ったドレークに、普段であれば何事か言い返してくるが珍しく沈黙した。じぃっとドレークの瞳を見つめる、その様、何か言うことを躊躇う類。がそんな思考をもてるのかと些か驚き、何も言わずにいるとぽつり、とが口を開いた。
「つまんない」
それは本当に言おうとした言葉ではないこと、容易くドレークにもわかった。嘘は付かぬ生き物。だが本当のことを言うことは滅多にない。随分と長い時間を一人で生きてきたのだ。言葉がどう作用するのか承知で、だからこそに、貝にはならず、戯言ばかりを口にする。
溜息を一つ吐き、ドレークはひょいっと、を抱き上げる。そのままテーブルの上にちょこんと座らせて、鋏を手に取った。
「少将?」
「こんなことは、意味はないのだがな」
ちょきん、と、の前髪を切る。普段額にかかった、やけに長い髪をばっさり切ればが目を見開いた。それに構わずちょきちょきと、前髪を切っていく。ざっくばらんに、ではない。きちんと揃える。こういったことは得意ではないのだけれど、海兵、将校、無人島などでの任務時ですら己の身だしなみを整えることは義務であるのだから、嗜みで出来る。
「眼を閉じていないと髪が入るぞ」
「……」
言っては見たが実際はどうなのだろう。の髪、その体から切り離されれば床に落ちる前に霧散する。この体から残せるものは何ひとつもない。
しかし大人しく眼を閉じたに、ドレークは再び溜息を吐く。こんなことに意味はない。髪を切ったところで、元に戻るのだ。普通の人間が髪を切るのとはワケが違う。
(例えば小さな娘が髪を切り、その切った部分がまだ生え際にあったころの、出来事、記憶一切を捨て去るのとは、わけが違う)
なるほど人は、常の人であれば、多くのものを持ち、多くのものを捨てることが出来る。だがこの生き物は、そんなことは出来ない。そうは、なれない。何もかもが元通りになるだけだ。そして何も変わらず、何も、得られない。
「ねぇ、デュエス少将」
目を伏せたまま、軽く眉を寄せてが問う。
「ぼくのこと、すき?」
ギョギン、と、耳の後ろの髪が盛大に、切り落とされた。びっくりしたのは互い様、目を見開いたドレークと同じ顔をして、右耳のあたりに手をやって「あー」と、顔を顰めた。
「ざっくりいったねぇ、酷いよ」
「……お前が、突拍子もないことを言うからだ」
悪いと思う心はある。こほん、と咳をして「すまん」といえばが肩を竦めた。別に元に戻るからいいとそういう気安さ。今回は素直に助かった。しかしどう整えればいいのかと鋏を持ちながらきった場所を凝視していると、ぐいっと、がドレークのネクタイを掴んだ。
「な、なんだ!?」
些か乱暴な勢い。態勢を整えるように足に力を入れれば、ドレークの顔を両手で掴んでじっと見詰める。その瞳の、赤いこと。ぶるり、と、ドレークの見の内から何かの声がし、震える。
「結構本気でね、ぼくは君を気に入っているんだよ」
赤い、赤い目。普段は青だ。だが時折、本当に時折この生き物の瞳は本来の色だという暁の色を取り戻す。普段の青い色が古の海と空の色ならば、この今の赤は最初に流れた血の色だという。誰のものか、それはドレークなどには及びも付かぬ、遠い昔の、古の咎人の血。
デュエス・ドレーク。少し前に少将に上がった。立派な海軍将校。のことは中佐時代から承知している成果、他の海兵たちよりもよくよく知っている。だから、に己が気に入られている、というその事実が、良くないことだとも、わかっている。
触れるその手を握り返し、そっと、の膝の上に戻す。明らかな拒絶、が目を細めて、薄く、唇ばかりは笑みの形を引いた。諦めたような、魔女の笑み。そんな顔をさせたことで、見の内の悪魔がドレークを苛む。きつく心臓を荊の縄で締め上げられたような感覚にぐっと耐え、膝を着いた。
そのままを見上げる。その手を取り、目を細めた。
「俺は、お前を選ぶことは出来ない。俺の正義、俺の信念は、お前を軸にはしていない。全ては、ただ、俺自身の信じる正義の為に」
の、パンドラ・の存在を知った海兵は皆、誓わされる。いや、強制的にではない。そのころ、絶対正義を持って上り詰めた海兵は皆それぞれの掲げる絶対正義があり、その根底がこの、であることが道理になるのだ。そういう、仕組み。それこそがこの世界の、正義の姿。パンドラへの謁見、今のドレークのように、膝を着いて、その手を取る。騎士が忠誠を誓う姿のような荘厳さだというのに、しかしそれは、確実な呪いであるのだ。双方にとっての、災いにしかならぬ、呪い。
ドレークが言葉を一言一言吐くたびに、悪魔が叫ぶ。何を、そんなこをというなと、必死にドレークの身に爪を、牙を立てる。しかし耐えた。それは、もう、耐えなければならないのだ。でなければ。
「俺はお前を置いていくだろう」
かたんと、テーブルが揺れる音。がドレークの首にしがみ付いて、ぎゅっと、力を込める。その小さな力、愛しさが沸きあがり、しかしドレークは抱き返すことができない。
震える小さな背を眺め、ただ目を伏せた。
(愛しているのに、な)
Fin
さんは結構本気でドレークさんに罪悪感を持っていればいいです。そしてドレークさんのさんへの「愛」はどこまでも、あれです、親愛です。だからこそ、切ないんですね。
(09/1/31
12時44分)