「うん、よし、逃げよう、ノーランド」
ぽん、と、名案を思いついた少女の顔でが手を叩いた。
鉄格子に囲まれたノーランドを、親しい友人の家を気軽に尋ねる程度の心持で面会し、驚くノーランドが何か言う前に、そう、あっさりとしたご提案。
モンブラン・ノーランド。これからまさに、処刑される寸前のところ。航海日誌の最後のページになるだろう場所を、涙で滲んだインクで書き綴っていたそのさなかの、あっさりとした声。
「……?」
なぜ彼女がここに、などという疑問は浮かぶだけ無駄である。
今回の航海には連れていけないと妻のところに残した、小さな少女。10年前に出会った時と何一つ変わらぬ、幼い顔の、あどけない生き物。
大きな青い目をまぁるくしてきらきらと、ノーランドを見つめている。
嘘付きノーランドの話
と出会ったのは、ノーランドがグランドラインの航海を最初にした、10年前のこと。グランドラインに点在する小さな島に、は住んでいた。50年くらい住んでいる、とあっさり言ったその時、それをノーランドたちは信じなかったが、島民たちが、何事か災害のあるごとに「神」とあがめているに生贄を差し出している風習を知り、を咎めた。
別には「頼んだ覚えもない。島民が勝手にやっての自己満足、好きにさせればいい」という、その無関心さにノーランドが激昂したのだ。そして、島民の信仰の対象となっていたを連れだした。がいなくとも、何も変わらぬということを知らせるため。そしては、ノーランドの仲間になった。
「うん、そうだよ。それがいい。ぼくならこの檻も何もかも、なんとかできるし、それに、グランドラインに入ってしまったら、あのバカ王は追いかけてこれない。マリージョアの鬱陶しいオッサンたちに借りを作るのは嫌だけど、でも、なんとでもなるよね!」
嬉々、として檻の前であれこれ話す、無邪気な子供。10年前と何も変わらぬ容姿。いとけない子供のまま。
は、生まれたばかりの赤ん坊のようにノーランドの目には見えた。いつから、どうして、あの島にいたのか、それは語らなかったが、しかし、何もかも知っているようで、何も知らぬ幼さが、ノーランドや船員たちには憐れうつり、あれこれと世話をしていくにつれ、もよく懐き、ノーランドたちにとっても大切な“子供”になっていた。
「そうしようよ、ノーランド。君とぼくで、カルガラたちを探しに行こうよ」
5年前、ジャヤで出会ったカルガラたちが、を「パンドラ」と呼んだことから、ノーランドは、妙に違和感を覚えるようになっていた。国の調査隊がグランドラインを後悔するには、世界政府の認可がいる。そのために必ず往路に使うマリージョアで、その名を聞いたことがあったのだ。
最初に聞いた時は、何のことかはわからなかった。パンドラという、奇妙な生き物がこの世界には存在していて、それは何よりも“悪いもの”らしい。何が悪いのか、それはノーランドにもわからない。けれど、パンドラは悪いもので、とても危険だと、そういう話。
ただの迷信だと思ってた。だが、5年前、ジャヤの島に、黄金郷を守るシャンドラの一族に、はパンドラと呼ばれ、酋長がひっそりと、何かを告げていた。
「」
楽しそうに、あれこれ「ノーランド脱走プラン」を立てるの声を遮り、ノーランドはじっと、その幼い顔を見つめる。
こうして、今、がここにいる。そのことが、ノーランドには妙に恐ろしい。
船で航海している最中も、は妙な力を使った。ふわりと浮かびデッキブラシであちこちを移動することは、グランドラインなら「まぁ、アリ?」と思われた。だが、悪魔の実などで得られる能力は一つだけ。ノーランドが把握している限り、の妙な力は、千以上もあった。
何かいたずらを思いついて実行する、そんなささやかな程度のものしか感じさせない、の言動。ノーランドのまじめな目を見て一瞬ためらう素振りを見せたが、しかし、かまわずに続ける。
「島が沈んでしまっていたって、カルガラがそう簡単に死ぬわけないし、きっとどこかにいるんだ!探そうよ、ねぇ、楽しいよ、きっと。今度はおっきいまっ白い船がいいな。甲板に芝生とか植えて、ノーランドの好きな植物を栽培しようよ」
「、私の話を聞いてくれ」
ころころと声を弾ませて、あれこれ提案。この牢獄か出ること、不可能とは微塵も思っていない声。そして、それが悪いことだとは露とも思わぬ、己の思ったとおりに全てをかなえることができる生き物の顔。ノーランドはやや強い口調で呼んだ。
「ヤダ」
「」
「嫌、だって、ノーランドは逃げないって言うんでしょう」
ぷいっと、頬を膨らませて、が機嫌悪そうに眉を寄せる。その仕草は子供のなんでもない、かわいらしいものなのに、今、何か、の正体を掴みかけているノーランドには、ぞっと寒気のするような恐ろしいものに見えた。
己が返答を誤れば、どうしようもないことになるのではないか、そんな予感がふつり、と湧いてくる。しかし、それでもまだノーランドはに期待をしていた。己の予測などただの杞憂、はただのちょっと変わった生き物で、己の説得にも応じてくれる、と、そういう、期待があった。でなければ、事実はあまりにも、恐ろしい。
「あぁ、そうだ」
ゆっくり頷く、びしり、と、何かが軋んだ。
「王さまが死ねって言ったから死ぬの?ねぇ、ぼくわかんない。あんなバカ王のどのへんがいいの?」
5年前のジャヤへの旅、その後にあちこちノーランドは船を出したけれど、はこの国の妻のところに長く預けていた。大人しく待っていてくれ、必ず帰るから、と約束すればはあっさり頷いて、信じてじっと、待っていた。
成長せぬを恐ろしがる者も時折いたけれど、ノーランドの持ち帰る不思議な話からすれば、こういう生き物もいるんだろうと、誰もが次第に飲み込んだ。
その5年の間に、はこの国に馴染んだ、と言えばそうでもない。とくに、ノーランドが仕える「国王陛下」には、妙に嫌悪感を抱いていたようだ。
こうしてあっさりバカ王、と己の君主を言われて、ノーランド、思わぬことがないわけではないけれど、怒鳴る心があってはならぬ。ぐっとこらえて、首を振った。彼女の正体がノーランドの想像通りであるのなら、彼女は「王」というものに厳しくても、それは仕方のないこと。
「それでも私にはお仕えするただ一人の君主だ。あの方がいなければ、私はこれほどの冒険はできなかった。4度もグランドラインへの入港許可をもらえたのも、この国あってのものだ」
「わかんない」
しかしじっとノーランドの言葉は聞く。うーん?と不思議そうに、わからないと首をかしげはするものの、耳は傾けるのだ。
「私はこの国の期待を裏切った。黄金郷は存在していた。それに間違いはない。だが、そうと示すことができなかった。私は、国を裏切ってしまったんだ」
「だから、その汚名を晴らせばいいでしょう」
埒があかない、と、己の思い通りにいかぬ子供の小さな癇癪。がつんっ、と乱暴にの足が格子を蹴った。グァングァンと鳴る音が響く。少し、鉄格子が歪んだ。
怒ったように顔を赤くしたは、ぎゅっと唇を噛んでから、やたらにいい笑顔をノーランドに向ける。
「ノーランド、ぼくと一緒に来るって言わないと、今から王国滅ぼすよ」
「……!」
「だって気に入らない。王国なくなったらノーランドもあっさり諦めがつくでしょ。誰もノーランドに裏切られてないし、それで解決だよ」
名案〜☆ぼくってすごい!なんて、手を叩いて笑う、どう聞いても、本気で言っている。その無邪気な声にノーランドは血の気が引いた。これまで10年間、ノーランドは彼女と一緒にいた。どれほど己がに懐かれているのかわかっている。彼女が一体どういう生き物なのか、ノーランドは知らなかった。だが、しかし、時々恐ろしくなることがあった。あまりにも、純粋に過ぎる悪意を秘めていると、そういう予感があって、しかし、それは今、確信へと変わっていく。
幼い子供が、気に入らぬからと羽蟲の羽をもいでしまうような、無垢な様子で、あっさりと非道にしか聞こえぬ所業を行える。それだけの力すら、持っているのだ。
「ノーランドが一緒に来てくれて、ぼくと一緒にカルガラを探してくれるなら、この国は放っておくよ。バカの王さまも、ノーランドがぼくのそばにいてくれて、悲しい顔をしないように生かしてあげる。でもノーランドが死んでしまったら、そんなことにはならないよ」
ふわりと、微笑む青い目の、奥底にあるのは無邪気さを通り越した、歪みである。ノーランドは己が返答を誤ったことを悟り、そのために、国中が危機にさらされている現在を知った。
これはもう、どうしようもない。
「……わかった」
己の決断一つで、何もかもが誤ってしまう。そうして、一瞬考えた。そのままに頷けば、ぱぁあっ、と、これまで危うい光をたたえていたの顔が無邪気に輝いた。
「本当!?ぼくと逃げてくれるの?」
「あぁ。本当だ」
「じゃあ今すぐこれ壊すね!」
重い鉄格子やら石の壁ひょいっとが力を込めればなんとでもなるだろう。いや、ノーランドにだって、この程度はどうにでもなった。だが、しなかった。逃げることはできないと、そう、覚悟を決めていた。無念ではあるけれど、先ほどに語ったとおり、己は国を裏切る形になってしまったのだ、とういう罪悪感があるから、その事実がノーランドを殺そうとしていたのだ。
「その前に一つ頼まれてくれないか」
ひょいっとデッキブラシを取り出したに待ったをかける。
「?なぁに」
「先に私の家族を逃がしてくれ。私が脱獄したとなれば、妻子に追及がかかる」
「逃がしてる間にノーランドが処刑されたらどうするの」
「そうはならない。私の処刑は三日後だ。その前に、妻と子をどこか安全な場所に連れていってくれ。そうしなければ、安心できない」
そして机に戻ってさらさらと、何かをしたためる。丁寧に折りたたんで、それをに差し出した。
「これを妻に渡してくれ。逃げる時に役に立つことが書いてある」
受け取って、はまだ納得のいかぬ顔をした。
「今ここで一緒に逃げたほうがよくない?」
「それはだめだ。私が逃げたことがわかればすぐに追っ手がかかる。妻と子と、三人を守れる自信はさすがにない」
言っての頭を撫でる。子供のように扱われて、時々は怒るが、しかし、ノーランドがこうしての機嫌が悪くなったことはない。
「うん、わかった」
少し考えてから、しかし、真っすぐにノーランドの目を見てが頷く。
「うん。約束だよ、ノーランド。ぼくと一緒に、カルガラを探しに行くんだ。まぁ、セトくんもおまけで探してあげてもいいよ」
「そうだな。セトとムースは似合いの二人に見えた。ひょっとすると結婚しているかもしれない。会いに行こう、約束だ」
話に応じれば、がうれしそうに笑った。そして手紙を大事そうに懐にしまい込み、さっと、ノーランドに手を伸ばす。
「指きりして、約束」
差し出された小さな手、白い小指、ノーランドは自分の太い指を絡めて、頷いた。
「あぁ、約束だ」
うん、と、無邪気に頷く、の目、幼い子供が、大人をただ無条件に信じてしまう、愚かさがあった、とは、ノーランドは思わない。ただ、胸の内に湧き上がる。後悔の念。
月明かりを背にして、がばっ、と姿を消した。
後に残されたノーランド、航海日誌の最後のページに筆を下した。
◆
ノーランドの言ったとおり、屋敷は兵士たちに囲まれていた。何かしでかすのではないかと、危ぶまれてのこと。そんなことをしなくても、守られる奥様と幼い子供は何もできやしないのにね、とはさめざめ思いながら、ひょいひょいと、デッキブラシで兵士たちの背後にまわり、ばったばたと殴り倒していく。単純だが、てっとり早いといえば、てっとり早い。
そうしてさっさとさっくり婦人と子供を救出。も顔みしりであるから、それほどの驚きもない二人。ただ、ノーランドの手紙を渡したとき、ほんの一瞬、婦人の顔が曇った。
「?どうしたの?」
「あ、いえ。なんでも……」
「なんでもないの?」
嘘はよくないよ?と眉を寄せるに、婦人は何かためらうように眉を顰め、しかし緩やかに首を振って、口を開く。
「さん、よく聞いてください。これから私たちは北の国の××の方向にまで逃げます」
「うん、わかった」
「しかし、デッキブラシは置いていって頂きたいのです」
「なんで?」
「置いてあれば、私たちが遠くへ逃げた、とは思わないでしょう」
そういうものなのか、とは首を傾げたが、婦人の言葉には従うようにとノーランドに昔から言われている。うん、わかった、と素直に頷いて、デッキブラシを、誰の目にも明らかに「放置してます」とわかる場所に立てかける。
そうして、闇夜に紛れてひっそりと、と婦人、子供の逃亡が始まった。
◆
こうして逃げながら、はこの十年のことを考えた。
ノアの体を得て、自分はこうして、世界を回れるようになった。マリージョアとエニエスに閉じ込められてばかりの400年、よくは思い出せないけれど、それでも、とても苦しかったような気はする。何もかもに押しつぶされそうで、それで、ノアの体を貰った。
ノアの死因は自殺だ。ノーランドが知ったらどう思うのだろうか、と、ふとそれを考える。
ノアは今はインペルダウンのある場所の、上に浮かんでいた島の司祭長だった。小さな子供だけれど、生まれたときからそうなるべく、運命づけられてきた子だった。
どうしてノアが、パンドラ・のために死んでくれたのか、それは、覚えていなければならないはずなのに、は覚えていないのだ。
「ま、それはどうでもいいんだけどさ」
「?さん?」
ぼそりと呟くの声に婦人が反応して顔を上げる。走りながらでは目立つからと、ゆっくりゆっくりの移動。ノーランドと違い、ただのか弱い女性の婦人に強行は仕入れないだろうとのの配慮もある。自分の思考が沈みかけていたことに気づき、は首を振った。
「なんでもないよ、ふ、ふふ、楽しみだね。明日のお昼には隠れ家についてるし、そうしたらその足でぼくはノーランドを助けに行く。そうしたら、三日目にはみんなでグランドラインにでも入ろう」
婦人はグランドラインは初めてだから、きっと何もかもが驚きに違いない、それはそれで楽しいよ、と、はあれこれ思い出を語る。
「航海はとっても楽しいんだ。ノーランドはいろんなことを知ってるから、危ないことはないし、それに、強いから、海王類に襲われたって平気だよ」
あ、海王類っていうのはね、と楽しそうに語る。婦人の隣を歩いていた、子供が、ぐいっと、の腕をつかんだ。
「?なぁに」
「…………」
子供、と言うが、もう随分と大きい。最初に会った時はセトと同じくらいの少年で、今はより背も大きくて、力も強い。
その青年が、何か言いたげに、を見下ろす。ぴたり、と、足が止まった。
「どうしたの?」
「……、あのな」
「?なぁに?」
かげる青年の表情、は、なんだか嫌な予感がした。こういう魔女の予感はよく当たる。不吉なことばかり、よくわかってしまう。聞きたくないのに、顔ばかりが笑顔を作り、続きを促す。どうしてか、そんなこと、聞いてはならぬ気がした。
「ごめんなさい……ッ……!!!」
突然膝をついて、婦人が叫んだ。泣き崩れて、口元を押え、嗚咽を噛み締める。
「嘘なんです……!!!それは、嘘なんです……!!」
「え?」
「三日後では、ないんです……!!あの人の処刑は、今日の正午……!!」
唐突な告白、は目を見開いて、首を振った。
「!!嘘…!!だって、ノーランドは……!!僕に約束してくれた!!!」
約束を、してくれた。ノーランドはうそつきではない、黄金郷は本当にあったし、ノーランドの数々の冒険は本当だ。ノーランドは、嘘なんてついていない。
「嘘なんです…!!貴女が、処刑の場に来ないようにって……!!!私たちは、貴方が戻らないように…見はっていたんです……!!!」
「どうして、どうして、そんな嘘……!!だって、このままじゃノーランドは死んでしまうんだうよ!!!?」
泣き伏して、地に腕を叩きつける婦人。手紙にそうと書いてあったことを、そのままに告げる。
「貴女が……!!!貴女が、国を滅ぼすから!!!貴女が国を滅ぼすかもしれないから、だから、どんなことがあっても、戻って来るなって……あの人が……!!!」
「……っ!!!」
「ごめんなさい……!!ごめんなさい!!!!」
嬉々として、ノーランドとの未来を想うを見て、婦人も、子供も、心が持たなかったのだ。あどけない子供、何も知らぬ、ただ大人の“嘘”を飲み込んでしまっている子供を、見て、耐えられなかった。必死に謝る、その言葉はに向けてのものなのか、それともノーランドに向けてのものなのか、それはもう、本人もわからないのだろう。
◆
(まだ、間に会う……!!)
踵を返し、婦人の告白を受けて、は必死に、今着た道を走り戻っていた。もう空は明るくなり、温かい。それでもまだ、間に合う、いや、間に合わぬだろうという心には蓋をした。己は、諦めるな、諦めない、必死に、必死に、走って、走った。
途中、何度も転んだ。デッキブラシは使えない。空のとべぬ己、持っていないから仕方ない。それがなければ移動手段、ただ走るだけだ。どうしてこんなに、自分の足は遅いのか。デッキブラシで空を飛べば、十分もかからぬ道のり。何度も転んで、血が出て、その度に直っていく体。化け物だ。自分は、おぞましい。
その、おぞましい自分が、ノーランドを殺してしまうかもしれないのか。ノーランドは逃げない、そのまま処刑されるつもりだ。と一緒に逃げてくれると約束したのに、守らないつもりで、いた。
(どうして、なんで、どうして?)
が、国を滅ぼすからだと、婦人は言った。そんなことは、しないのに。ノーランドさえ一緒にいてくれるのなら、そんなことは、しないのに。
婦人は言った。たとえ、今はそうであったとしても、いずれ、はこの国を許さない。だから一刻も早く、をこの場所から遠ざける、そのために、ノーランドは逃げると嘘をついたのだ、と。
ノーランドは、生きるつもりはなかったのだ。最初から、処刑を受ける気であった。その決意は変えない。だが、己が死ねば、が「どう」するのか、それが分かっていた。だから、嘘をついたのだ。
(それでもノーランドは、ぼくの頭を撫でてくれた…!)
ノーランドが殺される。嘘をついたから、殺される。は、何かがゆっくりと「道理」になっていく、世界の軋む音を聞いた。ノーランドはうそつきではなかった。だから、そのまま彼が殺されてしまえば、ノーランドは歴史の歪み、理不尽さに殺されてしまった「殉教者」になるはずだった。だが、しかし、今は違う。今は、ノーランドはうそつきになってしまった。
に嘘をついたから。とても、とてもひどい嘘をついたから、だから、ノーランドは「うそつき」として殺される。それが、道理になってしまう。ノーランドは、罪人になる。
(そんなことには、ならない!そうは、させない!!)
自分が、ノーランドを嘘付きにはせぬと、は歯を食いしばった。まだ、間に合う、まだ、たどりつける。そうして、何もかもを考えずに、ノーランドを助けて、そして、四人で海へ出よう。カルガラたちは、きっとどこかにいる。ジャヤがどうなったのか、はこの目で見ていないけれど、でも、きっと、見れば何かわかるかもしれない。だから、ノーランドを、助けて、そうすれば、何もかも、の望んだ通りになる。
歯を食いしばって、血へどを吐いて、必死に、必死に、ただ走る。堪え切れぬ、苦しさ、それで何度も、むせた。耳の奥で、世界の軋む音が止まない。うるさい!!と頭を振って乱暴に腕を振った。その度に、の腕の先の建物や、森が灰になったが、そんなことはどうでもいい。
そして、ついに王国の入口が見えてきた。広間まで、走る、走る、ただ、走って、途中に何度も、心臓が貼り裂けそうだった。血の味が喉からした。これまでこんなに必死になったことは、ない。息が切れてきて、目から涙が滲んだ。鼻水も出てきて、ボロボロになった全身からぐっしょり汗をかいて、それでも、走った。
「ノーランド……!!ノーランド!ノーランド!!!!!!」
王国から処刑広場へと続く道は、人であふれかえっている。兵士たちが規制している。
人をかき分け、蹴り倒し、小さな体が前に進んでいく。
「ノーランド!!!!!!!」
やっとのことでの広場への到着。の身はすでに満身創痍だった。けれど、張り裂けそうになる喉、そのままに叫ぶ。
広場を埋め尽くす、「うそつき」と罵る大音量。かき分けて、必死に、必死に、叫ぶ、ぐいっと、その肩を掴まれた。
「ちゃん!!!」
「ドクター!!!!」
「提督が死刑に!!!」
解っているよ!と叫んだの声は、いっそう大きな歓声にかき消えた。
ごとん、と、切り落とされた首の落下する音、の目が大きく見開かれた。
◆
遠く、遠い、遠い場所で誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。
誰のものか、よく思い出せない。
それはとても悲しくて、近い人のもののようなのに。
今はもう霞みかかった記憶よりも朧げで、でも確かに、聞こえる。
◆
叫ぶ民衆たちの声、たった一人の男が、うそつきだったと、そんなくだらぬ理由であっさりと殺された。茫然と眺めて、真赤に染まった悪意の瞳を虚ろに揺らし、ゆら、ゆぅら、と、の左手が動く。
ざん、と、あたりが一瞬で暗くなった。突然の“夜”のおとない。人々が、先ほどとは違う種類の声を上げる。その暗闇の中、とん、とんとん、とん、と、小さな音が響く。
兵士たちのたいまつに照らされた、処刑台に、小さな、小さな少女が立っていた。どこまでも赤く燃え上がるような髪に北の地にふさわしい、雪のような白い肌は青ざめ、ぼんやりと、今まさに落下した男の首を眺める。
突然の暗黒、それに、不気味な少女の登場にシン、と静まり返った。
「ちゃん……?」
遥か遠くにいる、彼女を知る人間だけが、何か不吉な予感を感じ取る。しかし、何ができるということもない。とんとんとん、と、小さな足音を立てて、落下したノーランドの首をぎゅっと抱きしめて、震える小さな背。小さな嗚咽はない。ただぎゅっと、抱き締めて体を揺らしているだけの姿。
何が起きているのか、誰にもわからなかった。だが、誰の心にもふと、何かよくないことが起こるのではないかと、そんなぼんやりとした不安が芽生えはじめた、その時。
「その者を取りおさえろ!!!」
朗々と、高らかに響く、この国の王の声。何ものかは知らぬけれど、この場に現れたこと、その手段がただの人間であるはずもない。化け物、得体の知れぬものを恐れる心はそのまま肥大して、拒絶へとつながっただけのこと。はっきりとした自覚あっての命令ではなく、半分以上が恐怖に苛まれてのこと。それでも、いったい何が起きているのか判断できず戸惑い、呆然としていた兵士たちは、動ける理由をいただけて、あっさりと、鉛のように重かった体を動かす。
つい今しがた、罪人の首を落とした刃でもって、怪しげな少女の身を捕えた。そして、得体の知れぬ少女の小さな身に、凶悪な刃が向けられ、ざくりと埋め込まれる。
ぽたり、と、生首を抱きしめた少女の背が突かれ、胸が突かれ、滴り落ちる深紅の血。真赤に染まった少女の瞳が、人々の目を越えて、王国そのものを捕える。血の付着した赤々しい唇が、虚悪の花のように震えた。
「“呪われてしまえ”」
刹那、少女の唇から紡ぎだされる小さな旋律。子守唄のような単調なメロディ、それが、余すことなく響き渡る。有象無象の区別なく、浸み渡る。
あとはただ、王国に巡り走る、千の絶望。
それでしまいだった。
◆
一歩、歩くごとに髪が抜ける。
一言、言葉を話す事に歯が抜ける。
一度、恐れるごとに骨が砕ける。
老いも若きも男も女も。
生まれたばかりの赤ん坊も、何もかも、許される道理などはなく、ただただ、朽ちて果てて、死んでいく。
たった一人の正直者が殺された。
何も悪いことをしていないのに、彼を悪だ!と叫んだ連中。
彼を助けられなかった連中すらも死するべき者たちだ。
(あぁ、そうだ、もう何もかもが、許し難い)
◆
たったひとりきり。廃墟となった王国の、瓦礫の上にちょこんとうずくまり、手に持った生首だけを抱えて、少女が歌う。
己に向かって叫ぶ、懐かしい声はあった。ドクターとか、そういう風に呼んでいた男だったり、甲板でに星の読み方を教えてくれたり、料理を一緒に作ってくれたりした連中。必死に、必死に、魔女の歌を止めようと叫んでいた。己らも例外なく毒を受けている。を呼ぶ度に喉は避け、目は飛び出し、骨はくだけ、それでも、それでも、彼らは叫んでいた。
己らの、延命を乞うものではなかった。けれど、には聞き取れなかった。ただ歌う。何もかもがもう、煩わしい。
三日三晩では足りぬ。まだ生き残ってしまった連中がいるかもしれぬ、と、巡る魔女の悪意はもう十日目。何もかもが朽ち果てた。燃え尽き、灰となった。あれだけ栄華を誇ったくだらぬ王は真っ先に死してやりたかったのだけれど、それでは手ぬるいと、最後の最後まで取っておいた。肉がただれ、血が吹き出し、ジュウジュウと蒸発していく体液、激痛にのたうちまわり、必死にこの魔女への命乞い。金銀財宝、なんでもくれてやる、と。ノーランドの罪状を帳消しにすると、なりふり構わぬ様子に、魔女はただ呆れた。
誰も王国から逃れられぬように、すべてを呪った。人の体が生きようとするたびに、悪意の毒が浸み渡る。一度魔女の歌声を聞けば、もうあとはただ爛れてのた打ち回るだけという。それでもまだ、己だけは助かろうとする国王陛下に、はほほ笑んで、残った肉片を押し潰した。
そうこうしている間にもの唇からは世を呪う悪意の歌が続けられている。王にかける言葉などはない。死んでしまった、もう元には戻らぬ男の、名誉を回復してどうなるのか。そんなことに意味があるのか。死んでしまったのに、もう、戻ってはこれぬのに、名誉など、名声など、何の意味があるというのか。
(世界など、呪われてしまえばいい。遠く、遠く、何もかも、破滅へ向かえばいい)
半身が骨になってもまだ死ねぬ、悲鳴を上げる喉すらない、それでもまだ全身の激痛を感じながら、それでもまだ、生きているつまらぬ王を眺めながら、、悪意の魔女は至極つまらなさそうに目を細めた。
誰の声ももう聞こえない。
懐かしい、仲間たちの声、必死に、必死に、己らの体が灰になろうと、叫んでいた言葉。には聞こえない。たった一言、彼らは一様に叫んでいたのに。喉から血をあふれさせながらも、必死に、たった一言、同じことを、叫び続けていたのに、もう、聞こえない。
『提督が、悲しむよ』
それだけだったのに。には届かない。
魔女の悪意は廻り、北の大国を滅ぼした。
そして北の地には“嘘付きノーランド”の伝説だけがひっそりと残った。
Fin