山の音 夕暮れ時に走る足から伸びる影の長さは、もうどれほどだったのか記憶にはない。それでも随分と長かったような、何しろ夕日傾いて真っ黒な鳥もカアァカァと鳴いていた頃のこと。そりゃあ暗くなる前兆、夜の帳もひっそりと下りて一日の幕がさぁ降りようという時だもの、影は長かっただろう。そう言うのは暖炉の前に腰掛けて、ゆっくり、揺り椅子に座った老婆。長い銀髪に、皺だらけの手。眼はとうに見えなくなったのに、昔の癖だと軽く笑い彼女はまだ度のあわぬ黒縁の眼鏡をかけている。駆けてきた息子の愛弟子を迎え入れ、その優しい声はどこまでも深く響く。 出歩くには邪魔だからと長く真っ青な髪を窮屈な帽子に押し込んでいた少女は室内でやっと帽子を脱ぎ、ふわりふわりと軽い羽のように柔らかく流れる髪、頭を軽く振って整えた。暖炉の傍らに腰を下ろし、着込んだローブの中からいそいそと野苺を取り出した。雪の中に埋もれていた真っ赤な苺だ。扉の向こうではまた再び雪が吹雪いている。ほんの僅かに止まった間を何とか見計らって少女は外に飛び出した。老婆は止めたが、とめて聞くような少女でもない。こうして手が悴んで今にも凍傷になるのではないかというほど冷え切って帰ってきても、少女は己の望みは果たしているのである。摘んできた野苺を少女は老婆の手元にある小さなグラスに、葉や茎を取り払って一つ一つ入れていく。ガス入りの水の中に沈んだ。これを暖めて飲めば老婆の青白い顔にも僅かに赤味がさすものだから、少女は毎日毎日、夕暮れを狙い外へ飛び出すのである。王国の栄えた場所からは随分離れた場所ではあるけれど、それでも魔女とそしられている少女が出歩けばよくないことが怒る。それは解っている。賢い娘だ。きっと誰よりも賢い。何もかもを知っている。いや、だが遠慮を知らぬのだ。配慮を知らぬ。太陽の沈む時刻を狙って出るのは師が「せめて」と前置きしたからだ。そうでなければ日中堂々と、フードも被らず町の中心を歩くくらいの悪意が彼女にはあった。それが悪意なのかどうかという基準は誰がするわけでもないのだが、しかし、それは確かに悪意のある行動であった。 だが今、老い先短い老女に、寒々しい雪の中を一人進み野の苺を採ってきて与えるその行動は果たして悪意なのだろうか。 「随分と、無茶をしたねぇ」 パチと暖炉の中で薪が燃え鳴る。少女はローブの中から次から次に出てくる野苺の処理をしながら顔を上げた。真っ赤に燃える赤い瞳は炎よりも赤い。眼の見えぬはずの老婆はしっかりと顔を少女に向けて、気の毒な生き物でもみるかのような、憐憫、同情、そして若干の、羨望の交じり合った奇妙な表情をした。 「私はもう随分と生きたのだよ。十分、すばらしい人生だった。明日、今日の夜にお迎えが来ようと、何の問題もないさ。ねぇ、神の庭の子。お前は何を恐れているんだい」 炎の揺らめきが暖炉の中で起ころうと、少女の瞳は揺らがぬ。手元は止めぬまま、真っ青な髪の少女はきょとん、と、いっそ可愛らしいと見える仕草、小首を傾げた。 「私はまだお別れしたくないの。だから死なれては困るわ。あの鬱病染みた黒衣の男がこの家の敷居をまたごうとする、そんな展開は認めませんよ」 「このババを守ってくれるのかい。あぁ、それでも黒い犬に逆らうんじゃあない。お前は狼には勝てるかもしれないが、犬には負ける定めなんだ」 「犬も狼も一緒でしょう。同じ畜生じゃあないですか」 「同じじゃあないのだよ。ババの言葉をちゃんと覚えておいで。いつかきっとお前の身にしみる。牙を持つのは狼だ。爪を持つのは狼だ。だがね、だが、犬はお前を縛るだろうよ。いつかきっと、お前は、いや、お前ではない、しかしお前を、ヴァスカヴィルの犬が追いかけてくる」 着込んだ厚手の肩掛けがさらさら揺れた。椅子から腕を伸ばして老婆がそっと、少女の頭をなでる。皺の刻み込まれた手。血管が浮き出て、細い。枯れ木のような腕。老いることは醜いと、そう謗る者が最近、王国の中で妙に増えてきた。不老不死と、そんなくだらないものを求めているらしい。長く魔術を扱っているが、そんな手段は理論が記されても実行できた験しがない。老婆が頭をなでると、少女は目を細めたのが気配でわかった。まだ幼い子供なのに、この少女は子供らしくキャッキャと声を転がして笑うことがない。うつくしい娘だった。既にその美しさは完成されているのではないかと密やかにささやかれるほどの娘であった。パンドラという、古の称号を得られたのも、その外見によるものも確かにある。だがその美しい娘、皮肉めいた笑み、嘲笑めいた笑みしか浮かべぬ。浮かばぬ。 ヒュウウゥと、窓の外で吹雪きが鳴った。今夜は寒い。よくよく温まって眠らなければ。 「春になったら、ババと二人で小川に行こう。花の音がよく聞こえる。あぁ、陽だまりの中の妖精たちの暖かな踊りを見たのはもう随分と昔だったね」 再びぎこり、と、椅子に凭れかかる。まぶたを閉じて手元を動かせば台所からガラスのカップが湯気を立てて寄ってきた。火口の近くに咲いた火緋草のスープである。眠る前に飲めば芯から温まって夜を越せる。老婆には効かぬが、少女にはよい薬だった。こつんと少女が弁えてカップを受け取る。 宮廷に呼ばれた息子はまだ帰ってこない。もうすぐ春の先が来るというのに、まだ冬の顔見せをしていない。こうして少女を預けてきたのは夏の口の頃だったというのに。あの子は何をしているのだろうか。 Fin NEO HIMEISM |
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