(今は思い出すというやり方がわからず困っているんだ)
こつん、とブーツの踵を故意に鳴らして、立ち止まった。マリージョアのの私室。この付近にはサカズキ以外は誰も立ち入ることのないように、と言い渡されているはずのその場所、目の前、部屋から出て気に入りの中庭にでも行こうとしていたの前に立ちはだかる、一人の海賊。
「……」
見止めて、すぅっとの蒼い目が細められた。魔女の月のような鋭さを帯び、そして部屋を出たときは機嫌良さそう、可愛らしいお嬢さん、今日はどちらへおでかけで?というような陽気な雰囲気出していた、それをものの見事に消し去る。冷え冷えとした、今にも世界を凍りつかせそうな気配を出して首を傾ける。
「退け」
「ゼハハハハ!!いきなりそれはねぇだろう!」
独特な笑い声。廊下中に響かせて、身を潜めるそぶりも見せない。許可でも取れたのかと一瞬思うが、この場所に限りは世界政府、海軍のどの戦力も及ばない。ただ一人、サカズキが認めぬ限りはどんな生き物とて侵入を許されぬ場所。いくら七武海といえども。
「何か用か、と、それくらいは聞けよ。なぁ、海の魔女」
「馴れ馴れしく呼ぶんじゃない。白々しい、ずぅっと、狙っていたクセに」
仰々しいコートなんぞ羽織っているが、不精に伸ばし放題にされた黒い髭、粗野な格好、近くにいけば酒やら汗のにおい(それに血)がしそうな男。海賊だ。黒髭ティーチとかそういう名の。海の屑のロクデナシだ。いや、海賊はいい。あれは面白いい着物だとは常々思っている。だが、この生き物は何一つ愉快に思えない。ティーチが柱の影から姿を現してこちらに三歩ほど近付いた瞬間、は左手を振ってデッキブラシを構えた。
「そう邪険にするな。おれとお前は仲間じゃねぇか。なぁ」
言って、そしてゼハハハハと、そう笑う。ひゅん、と、その脇の柱が砂になって崩れた。さらさら流れる砂。動揺することも、注意を払うこともないティーチに、は一層冷めた目を向けた。
「二度言ってみろ、原子元素の限りを持ってお前の存在を消してやる」
「おっかねぇ女だな。ゼハハハ、必死だな。随分変わった。かわらねぇと、そう言ったお前が懐かしい」
知った風な口を聞く。それを咎めたところで意味のないこと。はデッキブラシをティーチに向けた。小さな少女と、大きな男。この男の大きさはもよくよく承知している。くまやモリアーほどではないが、それでもミホークよりは巨漢。ミホークとて小柄なわけではないのだけれど。
「じゃあ聞いてやる。“何か用”?」
侮蔑、軽蔑の一切しか込めぬ声。問う言葉を吐いていても、聞く気などさらさらない。何か一語でも気に入らぬ、無礼極まりない言葉を吐けば其の瞬間消すつもり。七武海の一角に手を出した、などあの老人どもがぎゃあぎゃあ言いそうだが、そんなことは知らない。所詮海の屑だ。サカズキだって、何も言わないだろうから。
「おれと来いよ、海の魔女」
「っは、はは」
言われた言葉、向けられた提案、無礼は無礼だが、あまりにもくだらぬもの。思わず笑う声が漏れ、不快には思ったが、相手の馬鹿さ加減が愉快に思えた。はデッキブラシを床につけて、青い目をティーチに向ける。ならず者がよく似合う男。野心、野望に燃え滾るその内の炎は、あの王国の滅亡の残火か。まぁ、そんなことはどうだっていい。はティーチが嫌いだ。理由はたんとあるが、嫌いと、ただその言葉だけでいい。理由、突き詰めてどうなるものでもない。
笑う、そのの反応をどう捕えたか、こちらにその、けむくじゃらの腕を伸ばして向けてくる、ティーチの顔の歪むこと。
「解って、るだろう?お前を救えるのはこのおれだけだ。これから先どれほど長く生きたって、かわりゃしねぇぞ」
「ぼくがいつ、救いが欲しいなんて喚いたよ?驕るんじゃない、この謀反人が。お前が将来夢やら希望やらなにやらを面白おかしく芽吹かせたって、なんだというんだ。ぼくはお前の手を取るくらいなら千年生きたって構いやしないんだよ」
「くっくく、容赦ねぇなァ。それで、どうするんだ?世界は動き出す。お前を置いていく。これからはじまる激動を、昔のように傍観できるのか?え?」
おかしい。これほど大声で話、これほどが殺気を放っているのに、海兵、役人の誰も来ない。来れぬ場所、とはいえ、騒ぎがあれば何かしらは起こるはず。それなのに今、静まり返った墓場のような、沈黙のみの回廊。
はティーチの体から黒い闇が現れるのを見て取って、眉をしかめる。
「何が言いたい」
「時代が変わるぞ。海の、悪意の、罪悪の魔女。お前の声が果てしなく遠くなる。闇が、侵食してゆくぞ。夜が、夜がやってくる。お前がどうしようもなく恐れてしようのない、光の一切が失われて、お前の声が枯れてゆく、そんな時代がやってくるぞ」
「だったら何だ。それでもぼくは死なないだろうさ。それで、忘れればいいだけのこと、関わりあうのはお前だろう。黒髭ティーチ」
はティーチが嫌いだ。大嫌いだ。ドフラミンゴやトラファルガーも嫌い。ドラゴンも大嫌いだが、ティーチに対する嫌悪は他の類を見ないほど。ティーチ、ティーチ、マーシャル・D・ティーチ。それがどうした。その名前に、何の意味があったとしても、何の、価値をが求める理由などない。その生き物、この生き物は、酷いことをする。最終的にこの男が「実は世界平和のために働いています☆」なんて展開だったとしても、はこの男が嫌いのままだろう。
人の倍以上の時間をゆっくりゆっくり生きる生き物。それは十分化け物だ。
「このぼくを何だと思っているんだ。耐えられないほどの悲しみなんぞもうない。お前が何をしでかそうと、何が終わってしまおうと、全てがぼくのなかで過ぎ去っていくだけのこと。悲しいなど思うほうがどうかしている。通り過ぎると自覚もできないで、千の夜を生きられると思ってるのか」
「大将が死んでもか?」
「人は皆必ず死ぬ」
間髪入れ図に答えられた。即答、には些か不自然さがあったかもしれない。デッキブラシを支える手、指先に変化はないが、長い魔女のコートの中、袖に隠れた開いた手は、小指の爪の先が僅かに揺れた。振動、空気をほんの少しだけ動かしてしまったが、それだけだ。相変わらずの目は魔女のもの。対するティーチも変わらぬ。
この自分が動揺するなどとは、と、は内心焦った。信じられぬこと。理解していると思っていた。だが、なんと弱弱しいものだ。これをティーチに悟られぬことのないようにとは務める。
サカズキと自分の間にある“約束”はクザンしか知らない。ドレークは何となく勘付いているようだが、まぁ、サカズキの部下だったからそれはしようのないこと。昨日今日七武海になって「パンドラ」を承知したこの男が知るには、時間が足りぬはずだ。
海軍本部大将、赤犬サカズキ。七武海になったのなら、パンドラを見たのなら、その影法師というが誰の保護を受けているかくらいは説明を受けているだろう。だが、なぜ、か、どうして、など、は知れぬはずだ。大丈夫、だろう。
思うが、だが、の不安は拭えない。なぜこの男は、あえて大将を上げてきたのか。昨今、はサカズキとはあまり接触していない。ウォーターセブンから戻った後はサカズキが色々と急がしそうで、はガレーラの復興の手伝いをしたかったし、あまり会っていない。問題は、ない。落ち度など、ないはず。
「海軍大将、あの男、あのおっかねぇ目をした男、赤犬殿、そのうち死ぬだろうな。あぁ、そうだ。死んじまう。聞いたか、、海の魔女。火拳のエースが後悔処刑にあうんだぞ」
ばっと、は一足でティーチの胸元まで飛び込んでその首にデッキブラシの毛先を押し当てた。電撃を帯びさせた力、本気の魔女の悪意、バチバチと火花が散る、それを受け止めて、暗い闇が現れる。ゆらゆら揺らめく黒いもの。重力。の嘆きすら吸い取って飲み込む、あの、かつての、残骸。
「この、外道が」
突きつけて、動いた拍子に乱れ顔に掛かった髪の隙間から睨みつける。七武海になった、手土産持参、まぁ、礼儀正しいこと、だと、この、外道。はぎりっと奥歯を噛み締めた。そんなことをしたらどうなるかなど、容易く知れる。何を、なぜ、どう、したのか、そんなことを決定した、老人ども、センゴクは!!
「ゼハハハハハハ!!」
笑い声、響いていく。誰も来ない回廊。誰も、なぜ、来ないのかはぼやりと気付けていた。あの、老人ども、小賢しいまねをする。サカズキは、知らぬのだろうか、こんなことを、自分がされているなどと。おそらく、知らないだろうとは思う。あの人は、あの、ひと、やさしいから。
「さて、どうする、お嬢さん。どうする、海の魔女、悪意の魔女、嘆きの魔女、どうする。誰も彼もが死ぬだろうさ。古い時代は叩き割って火にでもくべてやればいい!どうする、お嬢さん!お前の望んだ幸せ一つ、かなわねぇと知ってるだろうに!」
の小さな身、悪意、殺意が溢れていく。どれほど憎悪を向けたとして、この男には足りぬ。小さな体にたくさんの悪意を込めて、はばっと、ティーチから離れた。
脣を噛み締めて俯き、ぎゅっと掌を握り締めた。口はしから血が伝う。悔しさ、などこの自分が覚えるのはどれくらいぶりか。
「さぁ、おれの手を取れよ、パンドラ・シリュファ。どうすればいいのかなんて、とっくにわかってるだろう」
そして再び差し伸べられる、毛むくじゃらの腕。切り落としてやっても、意味はない。そんなことで、変わることなどない事実。脣を噛み切るほどに噛み締めて、は後ろに下がった。
助けなど、来ない。マリージョアなら、今、ドフラミンゴやミホーク、それにくまがいるだろうか。それなら、助けてくれるかもしれない、などそんな幻想抱くほど無知にはなれぬ。あの老人どもが「そうする」と決めたのなら、あの老人ども、器用に、ものの見事に「今この事態」を隠し通すのだろう。の身に何かが起きているかなど、所詮まだ生きて50年も経っていない彼らでは、気付けぬこと。
とん、と、の背が壁に当たった。先ほど出てきた、扉。この先はの部屋である。誰も入れない、部屋。けれど逃げてもティーチは入り込めるのだろう。
(サカズキ、サカズキ、サカズキ、サカズキ)
喉が小さく鳴る。か細い悲鳴。今にも泣き出してしまいそう。この男、この、生き物は酷いことをする。ひどい、ひどい、本当に、ひどいこと。のこれまでの悪意の比ではないと被害者ぶって言う気はないが、それでも、ひどいことだ。
エースが殺されるなどと知れば、白髭は激昂するだろう。あの男、あの老人、そういう生き物だ。なら、戦争が起きる。世界が、変わる。大きな揺らぎは世に生きれば何度かあること。歴史の流れには必要なこと。その引き金は小さなことだったり、大きなことだったり、何度も、何度も、、越えてきた夜で見てきた。眺めてきた。だからこそに知っている。もうどうしようもないこと。
白髭が怒れば、世界が動く。世界が壊れる。今の、世が崩れる。ドフラミンゴたちも戦うだろう。誰かと、何かと、争うだろう。彼らはいい。死んでもいい。寂しくはなるが、それでもいい。大将三人も借り出される。その為の「戦力」だ。その為の、能力者たちだ。戦って、戦って。
(死んでしまう)
それは恐怖だ。サカズキが死ぬ時は自分も死なせてくれと、その、キラキラとしたの大切な約束。大事に、大事にしている約束。けれど、知っていた。本当は気付いていた。悟って、いた。そんなことには、ならないと。それでも、サカズキはに約束してくれたから。
ぎゅっと目を閉じて、はかぶりを振った。そして息を一つ吐き、顔を上げて黒い髭の悪魔を見上げる。
「ぼくは、お前の敵だ」
吐き捨てる。初めての言葉。生まれて、初めて使う言葉。ゼハハハハと、男が目を歪めて笑った。言ってしまって、飲み込まれる、闇、光、鬩ぎ合う、何か。は必死にデッキブラシを握り締め、ティーチを睨み付けた。
世界など滅べばいい、そうすればこの男の欲しがる一切が消えうせるだろうから。
そう思っているのに、失えないひとがいる。
どうしようもない。
(ぼくは、弱くなった)
Fin
(ここには、光がない)