煤で少々汚れた姿見の前に立ってくるりと身を返していた女、やおら真面目な顔をしてやはりまじめな声で呟く。
「おれって本当、美人だよな」
心底思うているらしいその言動。クロコダイルは袖を通していたシャツをびりっと破りかけ(色合いが気に入っていた)堪える。何を阿呆なことをあの馬鹿女は堂々とのたまっているのかと呆れ半分苛立ち混じりに振り返り、そして眉をしかめた。声だけ聞いていれば真面目中での愉快犯。しかし振り返ったクロコダイルの目に映るのは、鏡の前に立ちそれに映る己の姿を嫌悪している、そんな女の姿だった。
クロコダイルは着替えることを一時止め、手頃なソファに身を沈めた。先ほど用意させた葉巻に火をつけて灰に煙を送り、随分と久しぶりの感覚にじんわりと体内に何かしらの感慨が浸み渡る。レベル6にて麦わらの訪問。壁をどうにかこうにかするには彼を解放するほかあるまいと、苦肉の策、ではないがしかし、クロコダイルは麦わらのルフィに手を貸してやることとなった。あのガキの傍らにいるイワンコフさえどうこうなれば何も恐れるものはないのだ、と、それはクロコダイルの軽い魚の骨の如き。
そうしてレベル6を脱出し、イワンコフの根城らしい“レベル5、5”にやってきた。まさかこんな場所があるとはクロコダイルも思わなかったが、しかし、あるのだと聞かされれば、あって当然だったとも思う。あの砂の王国の下に古代の悪意が眠っていたように、世界の奥底にはありとあらゆる秘密が眠るものだ。
「何が不満だ?」
ぷかり、と葉巻を吹かしてクロコダイルは女、トカゲに問う。随分とくたびれた格好をしていたものだから、クロコダイルが着替えをする時に、ついでとばかりに衣替え。イワンコフの衣装やら(クロコダイル的には)妙なステージ衣装にしか見えぬあれこれを分捕って、先ほどから鏡の前に一人ファッションショーを繰り広げていた。それなのに、いつの間にか静かになった、と思ったら冒頭のセリフである。クロコダイルはじっと、一糸まとわぬトカゲを眺めた。
「何に満足すればいい」
問うたのはこちらであるのに、堂々とトカゲは質問を質問で返してきた。元来、どういう自分勝手さばかりある生き物なのだとうとはクロコダイルにもわかる。それに自分とて何も本気で聞きたかったわけでもない。それでぴくり、ち形だけ眉を動かして不快なように表わすと、義手をトカゲに向けて首を傾げる。
「象牙みてぇな白い肌、血のように赤々しい唇、ホープダイヤかと疑うくらいの瞳、男が口付けするためにあるような唇、それらの持ち主であるお前。何がどう不満なんだ?」
「卿に堂々と口説かれるとは思わなかった。ふ、ふふふ、なんだ、卿、おれに惚れるか?」
「まるで興味がねぇ。ただ客観的な意見だ。骨董品の鑑定は得意なんだよ、俺ァな」
互いに軽口、程度の意味もない言葉しか吐かぬ儚い空虚さが漂った。トカゲが黙ってフン、と鼻を鳴らしたのでクロコダイルも黙る。なるほど、この女はとても良い女だ。美しい生き物のたぐいだとそれをクロコダイルは認める。人間が宝石や絶景、絵画を「美しい」と思う心によく似ている。今クロコダイルの目の前に、豊満な肉体を惜し気もなくさらし、艶やかな髪をかき上げる、目に痛いほどの美貌の女。が、クロコダイルの雄が刺激されるかといえば、そういうことは欠片もないのだ。
するり、と、トカゲの指がクロコダイルの額に伸びた。少しほつれて下がっていた前髪を白い指が撫でてまとめる。その女の太腿がクロコダイルの膝に乗り上げ、豊な双丘が男の目の前で揺れる。じっとトカゲの瞳がクロコダイルの目を見つめた。顔が近付き、互いの呼吸がどれほどのものかとじっくり感じられるほどの距離、クロコダイルは眉ひとつ動かさずにトカゲの青い目を見つめて、その、深海のような眼に映っている己の姿を見た。もしもこの女がと同じ魔女なら、瞳を覗き込むべきではない。魔女の瞳は人間の死に際を映し出すという話がある。本当かどうかは知らない。クロコダイルはと眼を合わせたことがなかった。どんな時でも、それはクロコダイルがした防衛ではない。いつだって、あの幼い顔をした小さな魔女は、他人の目を(見ているように見せかけながら)見ていなかった。クロコダイルはトカゲと眼を合わせることに一瞬躊躇い、そして、そう「怯んだ」己が許せず、真っすぐにトカゲの瞳を見つめた。そしてその瞳に映し出された己の姿を見た。
トカゲの青い目に映る己は、真っ青な海の中に、沈んでいる姿のようだった。が、青の中に自分がいたというだけ。それは、ただ目に映った結果に他ならなかった。何一つ変わらぬ、自分自身がそこにはいた。クロコダイルは口元を歪め、熱心にクロコダイルの前髪を撫でているトカゲの後ろ髪を引き、無理やり頭を引かせると、そのままのけぞったトカゲの喉に噛み付いた。ぐっと、色気のない女のくぐもった声が漏れる。髪を乱暴に引いた手を放し、その豊な乳房をもみ砕くと、トカゲの手がクロコダイルの鉤手を掴んだ。あらゆるものを斬り裂ける鋭利な先端を、トカゲの舌がゆっくりと這う。それでじっとクロコダイルを見つめ、目を細めた。
「おれを食う気か?砂の王」
「魔女の血肉を吸い取ったらどうなるか、それには多少、興味はあるな」
「せめて盛った、くらいは言えよ。こんなに見事な女の肢体だぞ?」
「テメェは嫌悪してるようじゃねぇか」
当然、と、トカゲの赤い唇が囁いた。そしてそのままひらり、とクロコダイルの膝から降りると何事もなかったように再び鏡の前に戻る。くるりと身を回転させて、その恵まれた体を明かりに照らし出す。
「おれが美しいのは当たり前のことだ。何もかもを持っている。美貌も才能も、何もかも。当然だ。おれは神々の贈り物、だからな」
そこで初めてクロコダイルは(どうしてこれまで気づかなかったのか)トカゲの見事な体に、たった一つだけ汚点があることに気づいた。その腹部から背にかけて、見るもおぞましいただれた皮膚の後。赤と紫と茶色が混じり合ったような色、乾いた、カサカサとして固くなった、やけどの跡がトカゲの体にはあった。先ほどは気づきもしなかった。なぜ、こんなにも大きくこの女の身を犯しているのに。
「その火傷はどうした」
しゅるり、と下着を着こむトカゲの背に声をかける。女の体に傷があるのは、抱き心地の良いものではない。そして、見事だと思った女(芸術品)に傷があることが許せぬ心。そういう程度の感慨で問えばトカゲがころりと、笑った。
「女の過去を聞くものじゃあないよ」
魔弾の射手
さて、随分と外が騒がしいことになったものだと檻の中から眺めてシリュウ、にやにやと口の端を吊り上げた。レベル6に投獄されて久しい。目の前にクズはいるのに斬ることもできやしないというのはいい具合にストレスが溜まった。さらに何もやることがない、退屈はリシュウにとって一番の拷問だった。それらをマゼランが見通していたのかそれは、明らかすぎて考える気も失せるもの。
シリュウは今しがたクロコダイルの能力によって壁に穴があき、さらに南の海の革命家の力で螺旋階段のようなものができた天井を見上げる。馬鹿な采配だ。ガス如きであの化け物どもをどうにかできるものか。マゼランはそういうところが甘かった。シリュウなら確実に殺せる毒ガスを流す。それでこのフロアが壊滅しようと、そんなことは知ったことではない。むしろ独房に空室ができて更なる犯罪者を招きいれられていいじゃねぇかと、そんなつもりさえあるだろう。
しかしまぁ、今の時点で言えば、シリュウは確かにマゼランが毒ガスを使わなかったことに感謝していた。もしも毒ガスなら自分も間違いなく死んでいただろう。それはまだ御免である。
さて、インペルダウンの看守ども。自分がいないと靴ひももむずべねぇのかという体たらくはこのあとどうするのか、見ものではあったが、しかし観客でいるのもそろそろと飽きてきた。リシュウ、数時間前に己の檻の前に立ったのことを思い出す。あの子供。真っ青な目を真っ赤に染めていた。
(………別に、あのバカが死のうが生きようが、それはおれの知ったことじゃねぇ)
は少し前まで、このインペルダウンにいた。少し前、というのは十数年前なのだがあの化け物の寿命から考えれば少し前、で事足りるだろう。シリュウにとっては昨日のようにすら思えた。
別段シリュウはのことをそれほどよく知っているわけではない。世界の敵だと、この世の罪人であると、それは、インペルダウンに初めてが来た時に知らされた。敵意に光り輝く目をどう屈辱にまみれさせてやり、そのきらきらした顔を苦痛と苦悩でゆがめられるか、それを考えればシリュウは洗いざらしのコットンに寝そべるよりも良い心持を味わえた。だが、マゼランが、あの野郎が、への拷問を、追及の一切を許さなかった。どう見ても、ただの子供ではないだろうを、こともあろうに、罪人どもを制する義務を持った地獄の長が、ただの子供のように扱った。そのことがシリュウを苛立たせた。そして、そんなマゼランに遠慮して、おっかなびっくりと、にへら、と笑うの顔が、さらにシリュウの気に触った。
インペルダウンの上層部、海上に最も近い場所には、たった一つだけ満足に日が当たる場所があった。そこにがマゼランと土を運んで、よくよく慣らし、小さな小さな花壇を作っていた。天気の良い日は二人でその小さな花壇の上にしゃがみ込んで、如雨露を傾けている。その後姿を見るたびにシリュウは苛立った。なんだそのザマは!それがこの地獄の王か!嘲笑い、指を射して嗤ったこともある。だが、大きな体を丸めてちょこんと、花壇の脇にしゃがみ込んだ、らしくもなく表情を緩めたマゼランは、シリュウを少しも気にしなかった。がいるとき、マゼランはシリュウに気を向けることなどなかった。普段シリュウが何か口を開こうものなら顔を顰め、真っ向から否定してくれるのに、といるとき、マゼランはまるで、シリュウを相手にはしなかった。
そしてある日、ついにシリュウはその花壇を踏み荒らした。どういう理屈か四季を無視した魔女の花壇。ユズリハ、エゴノキ、ルピナス、ケンマ、スイセン、キョウチクトウ、エニシダの咲く土を、力任せにシリュウは荒らした。誰が憎かったのか、何がしたかったのか、それはその時のシリュウだってわかりはしなかった。それなのに、その時に、目の前で、その光景を目にしたが真っ青な目を丸く見開いて、わなわなと唇を震わせていたのを見て、妙にすっきりとしたのを覚えている。
ついでとばかりにの顔を二、三度殴っておいたら、その日の夕刻から24時間、マゼランがトイレに籠ることはなかった。
「……くだらねぇ」
思い出し、ぽつりと呟いてシリュウは欠伸を噛み殺す。ここに閉じ込められてから、一度もマゼランはシリュウに声をかけはしなかった。時折レベル6に下りることはあったが、シリュウの檻の前で立ち止まることがなかった。マゼランが己の牢の前に立ち、くどくどと説教でもしてくれるのなら、シリュウは緩やかな毒を食むような心で穏やかに眠りにつけただろう。あるいは、罪を犯してもいないのに(規律は、まぁ乱したが)牢に部下をぶち込んだことをあの男が悔いて、後ろめたさでも感じそそくさとシリュウの檻の前を通り過ぎてくれたのなら、シリュウはここで骨になっても構わないとさえ思った。だがマゼランは、シリュウをこのレベル6の牢にぶち込んだあとも、まるで何も変わらなかった。そりゃあないぜ、とシリュウは笑いたくなった。己は、マゼランにとって何だったのだろうか。インペルダウンの二枚板。副署長と署長、ではない。シリュウとマゼラン、でインペルダウンを強固なものとしていた。それなのに、その一枚、片翼を自らはぎ取ったのに、何も変わらず堂々と、マゼランは歩いたのだ。マゼランはシリュウがおらずとも「インペルダウンの日常」を続けている。トイレに閉じこもり、仕事をし、毒を吐き、悔やみ、時折海上近くに出て花壇に水をやっているのだろう。シリュウは、この暗闇の中でその、何も変わらぬマゼランを想像するたびに、堪えようのない感情が湧きあがってくるようだった。
それならば、と、シリュウは思う。
己は、マゼランにとって「友」でも「己」にもならぬのであれば、その椅子がとうに埋まっているのであれば、それならば、己がするべきことはたった一つではないのか。
それを、その事実をじっと、シリュウはこの牢獄に閉じ込められてから考えていた。たった一つの、残った椅子。このおれがマゼランに何かをしてやることができることがあるじゃあないか。
けらけらと、シリュウは檻の中で低く笑い声を立てた。看守たちが階段を駆け下りてくる音が響く。バカなやつらだ。クロコダイルがいて、あのイワンコフがいて、そしてイナズマがいて、たかがガスごときでどうにかなるものか。おかしくなり、そして、さぁ来いと構える心。
「ならおれは、お前にとって悪害になってやるしかないだろうよ。なぁ、マゼラン」
うっとり呟くその言葉。囁く吐息のように洩れ、まるで愛しい人への愛の言葉のように、一種の慈愛さえ含まれていた。シリュウは口元を歪め、脳裏に浮かんだの目をもう一度思い出す。あの時、シリュウはの青い目を見つめた。その中に映った己の姿を、きっと己は忘れはしないのだろう。
Fin
閣下……ッ…!!?
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