十隻もの軍艦、早々重厚たる囚送。グランドラインの気まぐれな天候といえど本日、この海域ばかりはその無慈悲さも無邪気さもなりをひそめているように穏やかな航海最中。仰ぎ見る青、天は大空、大海にはり合うような青さがただ面前いっぱいに広るばかり。
「良く見ておけ、最期の空だ」
重々しい鎖で身を封じられ、流れる血を拭うことすら許されぬ身。それでも最後の慈悲のように、船底の暗い場所に閉じ込められはしなかった。エース、先ほどまで、インペルダウンを出る間際まで騒ぎ(けして命乞いではない。そんなことを彼は一度とてしなかった!ただ彼が願うのは“弟”の無事である)が嘘のように冷静に、黙したまま、空を見上げる。
青い、青い、どこまでも青い空。白い雲。カモメが飛び、この世界で最も自由な場所に、今自分はいる。エースは海が好きだった。あちらさんはエースを嫌っていたが(それはエースの所為ではないにしても)それでも、エースは、ポードガス・D・エースは、海が好きだった。
一刻前まで乱れていた心は、今は嘘のように落ち着いている。ルフィ、ルフィ、彼の弟が、自分を救うために来た。そのことは、エースには慰めにはならなかった。そういう弟だとはわかっていたが、しかし、絶対に来るんじゃないと、心から思っていた。ルフィに助けられるのが嫌なわけではない。いや、その心がわずかでもないわけではないのだが、しかし、あの弟が、この世界で最も不落の場所に、己のためにきてくれたという事実は、エースの心、晴れやかにはした。だが、それはほんのわずか。来るだろうと、思っていたのだ。だから、絶対に来るんじゃないと、願っていた。もうどうしようもないこの戦争。海の魔女の封印も解けた。
そう、その事実、エースは誰よりも感じ取っていた。エースは詳しいことは知らない。だが、悪魔の実シリーズの中でもとりわけメラメラの実には魔女に関する何か、特別な因縁があるらしかった。その因縁、いや、絆とさえいえるもの、これまでエースと、あの魔女をどこかで繋いでいた。しかし今は、それが嘘のように消えうせている。エースは、“よくないことが起こる”のだということをぼんやりと、感じ取っていた。それが、自分の処刑と重なるのか、それとも全く別次元の話になるのかはわからない。だが、ルフィが、あの場所にいるのはよくないように思われた。
空を見上げ、エース、己が今は恐怖を抱いているのか、後悔を抱いているのか、もはやわからなくなった。諦めて、はいないだろう。だが、白ヒゲのオヤジが来るという展開は望んでいなかった。今この時代、海軍本部に捕らえられ公開処刑をされることとなった自分を救うことができるのは、海賊王に最も近い男、エドワード・ニューゲートだけだ。だが、エースは、そんなことを望んではいなかった。仮に、そうすることで自分の命が救われることとなっても、そんなことは、望まなかった。
世界中の“正義”の側の誰も彼もが、エースの死を望んでいる。
エースは己の体から流れる血を眺めた。全身の血を抜いても、それで何が変わるというわけでもない。
欲しいものは一つだけ。それさえも、手に入れるには、エースには敵が多すぎた。
信じていらっしゃいますか
バタバタと騒がしい、マリンフォードの港。海軍本部の“奥”の棟。センゴク元帥どのの執務室が現在ひっきりなしなてんやわんやの事態。その部屋に通じる廊下の壁に寄りかかりながらはゆっくりと眼を開いた。
「センゴク元帥!!!」
今まさに、どこぞから駆け込んできた海兵が息をつく間もなく部屋に転がり込んだ体制のまま、センゴクに何事かを告げているよう。やっと気づいたのかとはさめざめ思いながら、入口に近づく。エースの公開処刑まであと五時間と少し。マリージョアにいた七武海は会議を終えてマリンフォードに移動した。そしてこの海軍本部の控えの間にて、三時間前になるまで待機、といったところ。それで、あの曲者連中が素直に二時間待っているはずもなく、大人しくあてがわれた己の控え室にいるのはミホークだけなのだけれど、それはにはどうだってよかった。
さて、このいつ白ヒゲが現れるやもしれないもっとも危険な時間の中に、やっと気づいたらしいこの異変。
はひょいっと、センゴクの部屋を覗き込んだ。
「どうだった!」
「やはり、やはりどこにもいません!!島のどこを探しても……!!王下七武海“黒ひげ”の姿がありません!!」
報告を受け、多少気持ちせいではいるものの、それでも七武海の一人の勝手な行動程度、慣れているといえば慣れているセンゴク元帥どの。何か考えるようにして目を閉じ溜息一つ。それで何とかあららに布陣でも変えて対応しようとしているのがの目にわかった。それで、ひょいっと、センゴクの前に進み出てにこり、と笑顔。
「大変だね。センゴクくん」
ぴたりと、とセンゴクの目がの首に走った。そしてその白い首に本来なければならぬ赤いバラを確認できぬことに気づき、僅かに目を細める。はその行為については何も言わなかったしセンゴクも何も言わなかった。は先だって、センゴクに「我々を裏切るな」と釘を刺されていたことを思い出す。
「何か知っているのか、海の魔女」
その名でセンゴクに呼ばれるのは22年以上久しい。は小首をかしげて、黒ひげ不在の報告をした海兵に視線を向ける。
「きみは、続きとかないの?」
「え?あ……はい、それと、別件なのですが、出航許可のない軍艦が一隻、インペルダウンに今着港したと……!!」
に促され報告を続ける海兵。その事実を突き付けられた瞬間、センゴクの顔に困惑、そして、あってはならぬ可能性に気づき、青ざめた。はさめざめと目を細めて微笑み、ころころと喉を鳴らした。
「あーあ、大変ね。だから言ったのにね。あの黒達磨、嫌なことしかしない」
言った途端、はセンゴクに胸倉を掴まれた。これまで(この7年ばかりは)センゴクはに対して友好的な態度を崩さなかった。ニッコリと眼ばかりは笑みの形を作り、に甘い男のような印象を与えてくれていた。だが、けしてそうではないことはも重々承知している。厳しいだけならサカズキだけで十分。良く言えばアメとムチのアメを担当していたにすぎぬ。だがしかし、今この状況において、その、立場を忘れるほどの動揺があるらしい。
急に息苦しくなり眉を寄せながら、は首を傾げた。
「なぁに、センゴク元帥」
「貴様……何を知っている。何を企んでいる」
「僕がこれから何をするつもりなのかは、あの五人の老人どもがよくよくご存じだよ」
海軍本部のトップは、けしてセンゴクではない。海軍本部はあくまで世界政府直下の軍である。総帥は五老星。世界政府であった。そしてその、世界の意思がの行動を承知している。それならば、それ以上元帥風情が海の魔女を詰問することは許されてはいなかった。
はセンゴクから解放され、軽く息を整えながら自分を睨みつけてくる男を見あげ、自分は随分と性格が悪くなったと笑いだしたくなる。さすがにそんな品のない行いは御免こうむりたいので、気の毒そうに眉を寄せて、白々しく、同情するようにぽん、と、センゴクを叩いた。
「残念だったね」
◇
色は青。真っ青なインディゴブルー。上質なモスリンと厚手の絹を贅沢に使用した一着。夜会であればイブニングがハンカチーフが良いと思っていたのだけれど、しかしこれもこれで悪くはない。パンドラは長い髪を靡かせて顔を覆うヴェールを持ち上げた。
インペルダウン正面入り口、着港した軍艦が一隻、ざわざわと騒動になっている。窓の外からそれを眺めながら、パンドラ・は先ほどまで自分の話し相手をさせていたヴァン・オーガの姿が見当たらないことに気づいた。
子女が支度を終えた真っ先に、褒め称えるのが紳士の勤めではないのだろうか?見つけたらどう罵ってさしあげようかと、美しい柳眉を寄せながら企み、不快な心も晴れてくる。トン、とパンドラは新しい靴の履き心地を確認して、真赤な唇に笑みを引いた。
「どうだ、パンドラ」
「まぁ、旦那さま。完璧よ。えぇ、何もかもが素晴らしいわ。わたくし、本当に美しいでしょう?」
「あぁ、そうだ。お前は何よりも美しい女だ」
ノックの音は聞こえなかったが、ひとつ粗野な気配がしたと思えば、そこにはパンドラの「主人」たる男が立っていた。随分な巨体。これは受け入れる時に覚悟が必要だとうっとり思い、身の内をざわつかせながら、にこりと微笑む。
「行くのですか」
「あぁ、行くぞ。おれについて来いよ、冬の魔女。おれがお前の望みをかなえてやる」
差し出された手を取って、パンドラは一度目を伏せた。穏やかなまなざしが己を見つめている。パンドラの心はどこまでも冷ややかだった。それが、この男にはもう気づけているのだろうか。狂気、が自分の心に浸透していく様子、パンドラにはよくわかっていた。その心地よさを世界中に教えてあげたい。世界に悪病を撒き散らし、絶望を突き付け、悪意に染め上げるこの、快楽を、この世界の全ての“正義”に知らしめてやりたい。
その熱意だけがいま、この呪われた身を情熱に焦がしている。
そこでふとパンドラは船内までもが騒がしくなってきたことに気づいた。
「旦那さま、何かなさっているのですね?」
「もう着いちまったからな。中の連中は必要ねぇだろう」
「まぁ、酷い……!!」
耳を澄ませば虐殺する音がパンドラの耳に響いてくる。眉をよせ、パンドラはティーチの腰に縋りついた。
「ねぇ、わたくしの旦那さま。どうしてそんな酷いことを?わたくし、まだ寝起きで体調がすぐれないの。掃除ならわたくしにさせくださってもよろしいでしょう?」
囁くように呟いて、そっと瞳を青く染めれば、その赤い唇が滅びを口ずさむ前にティーチが指で押さえつけた。黙らせられ、パンドラは子供のようにすねる。ゼハハハ、と男の豪快な笑いが、殺伐とした船内に似合わず響いた。
「さぁ、さ、行くぞ、あぁ、行こうぜ、冬の魔女。ここから先はお前の好きに殺して構わねぇ」
まぁ、すてき、とパンドラ、はしゃいだ声を出して化粧台変わりにしていた机の上に置いた道具を手に取る。二股に分かれた金属製の道具である。別段黒ひげが用意したものではなくて、これは自身の持ち物である。長い眠りの中でも朽ちることなく、持ち続けていた唯一のものである。手に取って、柄に彫られた名を確認してから、パンドラ・、ドレスの裾を持ち上げた。
「さぁ、さ、地獄へ参りましょう。わたくしの猊下」
◇
『王下七武海マーシャル・D・ティーチ、黒ひげとその一味!!明らかな敵意を持って獄内へ侵入!!目的は不明です!!指示を、お願いします!!ぐわぁあ……!!』
通信は途中で強制的に発信者の生命が遮断されて途切れた。ザーザザ、と砂嵐のような音のみが響く。これで何度目のことだろうか。ハンニャバルは白眼を向いた。
(終わった……!!私の人生、これで終わった…!!)
指示を求める看守たちの通信が次々と途絶えていく。これはいったいどんな罰ゲームだ?虎視眈眈と署長の椅子を狙っていたのがそんなにまずかったのか?なんでこんな、いじめとしか思えない事態が、何で、発生しているのだろうか。
インペルダウン副署長、ハンニャバル、口から泡を吹きながら、今にも意識を失いそう、いや、失えたらどんなに楽かと泣きだしたくなった。
(いやッ、これは、私の不幸の始まりだ…!!署長になれない私の暗い人生が始まりマッシュ……!!)
冗談なら、夢ならさっさと覚めてくれ。今日ばかりはドミノの説教も辛辣な言葉も署長の毒舌にも耐える一日でいいから、だから夢だったらマジでさっさと覚めてくれと、完全に現実逃避。
レベル4には麦わらのルフィ、レベル2では道化のバギーが囚人どもを扇動して大暴れ、さらに正面玄関には黒ひげ。こんなもの、いったいどこから手をつければいいのだろうか。というか、何これ、どんな冗談だ。
「……」
なにからどう処理していけばいいのか、考えるだけで心臓に悪い。ハンニャバル、一度深呼吸をしてからゆっくりと落ち着きはらい、指示を待つ看守に告げた。
「モニター室へ戻っておかき食べないか」
どんな采配が出るのかと心待ちにしていた看守、盛大に咽せて、「お気を確かに!!」とすかさず突っ込んでくる。気は確かである。悪いが、現実逃避できるほどハンニャバルは心、弱くはなかった。それが厄介、でもある。
やっぱり駄目だったか、この案。と、半分真面目に言ったのだが却下され、ハンニャバルは唸る。といって名案が生まれるわけでもない。さてどうするかと困惑していると、そこで電伝虫の鳴る音。
『ハンニャバル!聞こえるか』
「マ、マゼラン署長!!」
エースの護送を行っていたこの地獄の長の声にハンニャバルの声が上ずる。
「今どこですか!!?」
あんたがいないからこんな事態になったんでしょうが!と喉まで出かけた言葉を飲み込んで問いかける。この、最悪の事態の中で、署長でもどうにかすることはできないかもしれない。それでも僅かな望みのようなものがほこり、とハンニャバルの心に沸いた。
『今レベル2だ。暴れだしたバカどもの処置を終えた』
「え!!?」
『このフロアは出口も塞ぎじき全員が動けなくなる』
通信の背後で囚人たちのうめき声が聞こえた。先ほどハンニャバルが看守より受けた通信では看守たちの悲鳴しか聞こえなかったものが、マゼランからのものでは、その逆の状況になっている。
シュウシュウと強い瘴気の音さえ聞こえてくるのだから、おそらくは毒(死亡レベルではないもの)を使用したのだろうとはわかる。ハンニャバルの脳は冷静にレベル2の暴動鎮圧を把握する前に、ただ混乱した。え、え、えっと、それで、それでは、どうなるのだ、と。
混乱するハンニャバルが理解するのを待つことはせず、マゼランが静かに言葉を続ける。
『黒ひげ襲撃の意味は全くわからんが、不本意ながら苦肉の策でもう手は打ってある。海軍本部に援軍は頼めない。我々だけでなんとしても切り抜ける。お前たちはレベル4の鎮圧に全力を注げ』
マゼランの声が、いつになく深刻であった。署長、地獄の釜の底にいるマゼランどの。インペルダウンの「日常」を乱されることを何よりも嫌う。憎んでいる。その決意の声がハンニャバルの混乱する頭に届き、そしてさらに言葉は続けられた。
『おれも程なくレベル4へ向かう。おれが行くまで持ち堪えろ、ハンニャバル…!!』
その声には信頼があった。電伝虫の、くぐもった音声の中でも、その確かな信頼と、そして頼もしさはハンビャバルの耳にしみ込んだ。
ぼろり、と、知らず、意図せずハンニャバルの目から、涙がこぼれ落ちる。
「ウ、ゥゥオ、ォオオォオオオォオオオオオ!!!」
鼻からみっともなく鼻水さえ出てきた。涙をぬぐおうとしたが、とめどない。なぜ泣いているのか、ハンニャバルはよくわからなかった。自分の情けなさ?署長の、頼もしさの実感?いや、そんなものではなかった。それらも、確かにあっただろう。弱いと、心が、まだあの男には届かぬと突き付けられた心は、たしかにないわけではなかった。だが、そんなことよりも、ハンニャバルの心にあったのは、マゼランへの、信頼だった。
自分でもなぜ叫んだのかわからない。だがハンニャバルは雄叫びをあげ、両手を空に突き付けた。
「署長!!署長!!署長!!」
先ほどまでは本当に、絶望があった。何をどうすればいいのか、終わらぬ仕事が机の上に山積みされているのとはわけが違う。何か一つでも己が采配を間違えれば、どうしようもない事態になる。どうにもならぬことだが、しかし、どうにかせねばならぬことを突き付けられた。ハンニャバルはどうすればいいのかわからなかった。だが、マゼランは違った。状況は、何も変わっていない。やらねばならぬことがなくなったわけでもない。だが、署長は、違った。署長は、ハンニャバルが考えられなかった「どうするべきか」を考え、そして、ハンニャバルを駒として扱ってくれた。自分が主力として、全てを引き受ける、だから、それまでできることをしろと、そう、託してくれた。
情けない、とハンニャバルは自分を恥じた。
署長は強い。そんなことは百も承知だ。だが、ハンニャバルは彼になりたかった。署長の椅子、もそうだが、しかし、ハンニャバルは、マゼランになりたかった。
この悪夢のような状況を、それでも目を逸らさずに“平静”に戻そうとすることのできる、マゼランになりたかった。
だが、まだそれはできないということがいま付きつけられた。情けない、とハンニャバルは歯を食いしばる。だが、だがしかし、悲観しているだけならば、それは首をくくるしか道はない。
マゼランは、そんな自分に「おれが行くまで」任せてくれた。
それなら、自分はそれに応えるべきだ。まだ、手が届かぬとしても、あの男が、そんな自分を信じてくれているのだから。
ハンニャバル、ごしごしと眼をこすり、レベル4への階段を進んだ。
(ちくしょう、目がかすむ)
Fin
|