大きく目を見開く。マゼランの、大きな体からすれば小さな目には、キラキラとした太陽のしたに真っ赤な髪を煌かせる少女が映る。その真っ白いワンピースには皺ひとつなく人懐っこく引き伸ばされた口元が開けばころころと鞠が弾むような軽快な笑い声を立てた。そっとこちらに手を伸ばして小首を傾げてくる、マゼランは四角い固く閉ざされた部屋の中、正気を失いそうな瘴気の中に身を置いてじゅうぶん経つ頃合。いっそこのまま窒息死してしまえればいいのにと思いながら毒の身。そのような展開だけはありえぬものだとわかりきっている事態。ひとも何もかもこちらを見捨て、おっかなびっくりと扱い、おずおずと様子伺いである、というのに、その少女。まるでマゼランが日曜の太陽に溢れた公園の中にいる、平和ボケして何をすればいいのかわからぬ、が、しかしその状態がいいのだ、と楽しみ平穏に生きている暇人か何かのような、そんなごくごく「平凡」なものでも扱うような仕草、表情でこちらに、この、全身が毒、その上にその能力がまるでうまく扱えずにいて周囲に多大な被害を撒き散らす、マゼランに、微笑みかける。
「ぼくはきみなんか、ちっとも怖くないんだよ」
真っ白さは雪のよう、そんな童話を思い出す。あれは確か北の海に幅広く知られた話。雪のひどい夜にお妃がどういうわけか指を怪我して滴る血。赤々しいことこの上なく、その上、雪の上に落ちたものだから一層その増すところ。ため息ひとつでささやいた。あの白さにどこか似ている、そんな白さであった。
冥王は春の乙女に恋をした
は夢のような生き物だと、マゼランはいつも思っていた。現実を忘れさせてくれる。たとえば瀕死の老人にすら、青春時代を、それまでの人生でもっとも楽しかった時代を、まるでそれが「今」であるように思い出させ、感じさせ、突きつけてくれる。砂糖菓子のような甘い、甘い、眼差し。ひとの絶望の淵に現れて「それがどうかしたのかい」とそんなことはなんでもないように微笑む。彼女はこの世のあらゆる苦痛を知っていた。百年や一千年思い煩っただけでは到底知りえないような、この世のすべての破滅と憎悪と絶望を知っていた。それゆえに彼女の微笑みを見た、世の絶望に打ちひしがれるものたちは、「自分は彼女よりはましだ」とそう思うことができる。もっとわかりやすく言えば、自分よりもひどいものをみて蔑み、己の優位を確信し、優越感に浸れる、それゆえに心が晴れると、そういうことだった。
それこそが、彼女が「世界の敵」として負わねばならぬ義務である。普段傲慢に振舞い、他者を圧倒する。誰もがに傅き、愛さずにはいられないだろう。神に愛された愛娘以上に何もかもに秀でた少女。だが、その、根底は、そんなに「完璧な彼女」を「自分は彼女よりましだ」と思い、心の平穏を確保する、そのための、何もかも。
マゼランは瓦礫をなぎ払いながら、脳裏にの笑顔を思い浮かべた。
(なぜ、お前がそこまで背負わねばならないのか)
マゼランはが何をしたのか、はっきりとは知らない。なぜがそこまで苦しめられねばならぬのか、はっきりとは知らされていない。しかしこの地獄の長となったとき、世界がひたかくしにし続ける「秘密」のひとつを知らされた。そして、それを守り続けることを誓った。
瓦礫のわずかな隙間から、マゼランは毒の蛇を進ませ、前方を崩し広い空間へたどり着く。真っ赤な髪を惜しげもなく揺らした長身の女と、緩やかなウェーブのかかる青い髪をなびかせた艶然たる女を見つける。どちらも恐ろしいほどに美しい女、ではあった。マゼランはそのうちの一人、赤毛の女、トカゲ中佐、つい数時間前までは同じ政府の関係者、であったはずの、トカゲ元中佐をにらみつける。
「裏切るつもりか、貴様」
こちらの毒の竜をあっさりと霧散させた二人。どちらも魔女である、という事実がここではっきりと突きつけられた。魔女に手出しなどするものではないと、マゼランは以前に忠告されている。そのときは自身に関わるなという警告であるのかと捕らえたが、しかし、昨今の情報に寄れば、魔女は複数人確認されている。
「ふ、ふふふ、くだらんことを言うんじゃあないよ、毒の王。おれはいつだっておれと赤旗のハッピーエンドのためにしか動いていない。おれはなぁんにも間違えちゃあないさ」
「貴様も魔女であったとは、計算外だ。そして、その女、」
軽口をたたくトカゲを一瞥し、マゼランは穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめる美貌の女をにらんだ。誰か、などわかりきっている。世界の果て、世界の敵、正義に敵対した意思、パンドラ・。がパンドラ・であるとそう、長い間知らされていた。しかし、こうして退治してマゼランは理解する。とは、この女とはまるで違う生き物であったのだ、と。この生き物を永い眠りから覚まさぬ、そのためだけに存在していた、夢なのだ、と。
「目覚めてはならぬ罪人、なぜ貴様がここにいるか、それを聞く時間すら惜しい」
「あら嫌だ。殿方がそう急ぐものではありませんよ。あなたにはいろいろと聞きたいこともあるの、少しお相手いただきたくてよ?」
ひゅっ、と容赦なくヒドラを繰り出したマゼランを避けて世界の敵が笑みを濃くする。よくもまぁそんな踵の高いヒールでうまく飛び跳ねられるもの、と感心したくなる足裁き。パンドラの手がマゼランの方へ向けられ、空気が震えた。
「!!!」
切り裂かれた肩を押さえ、マゼランは膝をつく。この女がどれほどのものであっても、この己の毒にはかなわぬと、そう信じる心はまだ消えぬ。が、しかし、しかし、それでもこの女の力は、よりも上であるのだと思い出された。マゼランは、たった一度だけの本気の悪意と相対したことがある。ずいぶん昔、水の都にて司法船の襲撃事件があった折、エニエスから連行された魚人とともにがこの監獄にやってきたことがある。そのときに「トムを帰せ」と叫んだの、なりふり構わぬ悪意を見たことがあった。しかし、今、ほんの一撃でしかなかったパンドラの、敵意に比べればのあの、当時は恐ろしくて仕方なかったほどの悪意など、ただの子供かんしゃく程度であったと、そう、思わされる。
どういう原理か、切り裂かれ肩から溢れ出した血はそのまま下に流れることをせずにジュウジュウと音を立てて蒸発していく。沸騰、のような状況。マゼランは顔をしかめた。得意そうにパンドラが鼻を動かして、目を細める。満足している、というのはマゼランが膝をついたから、ではないだろう。どちらがどちら、という魔女の争い、マゼランの中の「」と「」どちらがどちら、という意識下の優劣が定まったことに対する、己への勝利宣言である。
かちゃり、とマゼランの後頭部に銃口が当てられた。
「ふ、ふふふ、悪く思って構わんぞ?毒の枢機卿どの、卿がルフィを追っかけるといろいろと都合が悪いんだ」
「あら、嫌ね。あなたひとの獲物を横取りするの?狐のように浅ましい女」
「おれとて卿のような狂女との共闘などごめんだ。知らんのか?こういうときは早い者勝ち、とそれが昔からのルールだ」
人の生死をそのようなゲーム感覚。この魔女どもが、とマゼランは口の中でつぶやいてまだ無事だった片腕を振る。ぶんっと容赦のない毒の濁流にトカゲが「おや」と楽しむような声を上げたことが腹立たしい。
「おいおい、まさか今のこのおれに毒なんぞ効くと思えるのか?」
「ますます化け物じみてくるのね、痴女に化け物の要素が加わったら、何になれるのかしら」
ガン、ガッシン、とマゼランの存在など半分無視をして、トカゲとパンドラがそれぞれ手を振りお互いの頬を張り飛ばす。何だこの女の修羅場は、とマゼランに続いてこのフロアへやってきた看守たちが顔を引きつらせた。マゼランは深いため息を吐き、とりあえずこの女二人を毒死させられないものかと謀ってみたが、看守たちがあわててガスマスクを装着する中、ここが空気のすがすがしくうまい高原でもあるように、魔女二人は深呼吸さえしてみせた。
+++
まぁ、実際のところは遊んでいる場合ではないと、それはトカゲもわかっている。目の前には毒の王。そしてお隣さんはパンドラ・とどう考えてもまともな状況ではない。マゼランの毒はもう自分には聞かぬとそれはわかっているけれど、しかし、やはりこの女にも効かぬのかと、いささかあきれてくる。どんだけ最強設定だお前、と突っ込みを入れたい。しかし考えてみれば毒や死などありとあらゆるこの世の厄災を司る「冬の庭」の番人なんぞ勤めてきた女。確かに、たかだか悪魔の実程度で手に入る毒ごとき、効くと思う方がどうかしている、のかもしれない。
ぼんやりそんなことを考えながら、確実に一撃必殺、といえるマゼランの攻撃を避ける。それでいて、本気で頭を打ち抜こう、とは思わなかった。いや、身体能力的に自分はマゼランより劣っている、という自覚もある。いくら魔女の力を取り戻したとはいえ、それでも魔女は魔女である。問答無用の最強、ではない。
トカゲが今マゼランの攻撃を退けていられているのは海兵としての実力であった。この世界に着てから、トカゲが必死で手に入れた実力である。性分なのか6式を覚えることはできなかったが、しかしそれでも、そこそこにはなれているらしい。今度モモンガ中将どのに会ったらお礼を言おうと、まず裏切っている時点で恩知らずはなはだしいトカゲ、それでも堂々と心底感謝の念なんぞ抱く。
しかし、それにしても、とトカゲは目を細めてパンドラを見た。この女、何を考えているのだろうか。この女が本気を出せばマゼランなど最初の一撃でとうに報いを受けて死んでいる。しかし今も、この女はマゼランに対して決定的な一撃は繰り出していない。明らかな敵意と殺意を向けられているにも関わらず。
焦っているのはマゼランのほうだった。確かにここで下手に時間を食えばルフィが逃げる。が、それだけだろうか。この海の監獄、たとえ地上にたどり着けたとて正義の門がある以上逃げ延びることなどできはしない。ジンベエがいるから海を渡ることはできなくもない、だろうが、しかし、それでも今ルフィがきっちりと脱げ伸びてさようなら、をする理由にはなれない。どこでマゼランが追いつき、捕まるか、というだけだ。それならマゼランがここでこうも、焦る、その理由がわからない。
トカゲは銃を構えてマゼランに2、3発打ち込み、こちらにどっぷりと向けられた毒の蛇を足で払い落とす。当然触れた箇所から腐食が始まるが、ウンケの屋敷蛇が腹にある以上、それがなんだというのだろうか。
とん、と、トカゲの背とパンドラの背が重なった。
「ふ、ふふふ、不愉快だ。卿、ノーブラか。無駄にでかいんだから、垂れるぞ」
「コルセットでかためるなんて無粋なまねをなさるのね。女のやわらかさを押し込めるのはおろかなことよ」
背中越しにそれぞれ伝わる情報に悪口を放ちつつ、トカゲは目を細めた。
「卿、なぜマゼランを殺さない?」
「あなたに答える理由があって?」
確かにない。それではとトカゲは憶測を始めた。この女の目的と願い、そして先ほどの言動とを組み合わせて何がどうか、という答えを探す。こういうのは自分よりもの方が得意なんだが、と眉を寄せつつ、トカゲは自分に向かって放たれた監獄弾をひらり、と避けた。あれは自分には凶器であるし、この女にとっても、だろう。トカゲはマゼランを観察した。パンドラの悪意に真っ向から立ち向かう男。いくらパンドラが本気の悪意を放っていないとはいえ、しかしそれでも、先ほどあのクロコダイルですら強制的に平伏させられたほどのパンドラ・の悪意に、ただの男がいどめていることがトカゲには信じられなかった。
「たっぷりと注がれてしまったらとても切なくなれるけれど、でも、そろそろしまいになさってくださいね。わたくし、あなたにひとつだけ聞きたいだけなの」
大きく振り下ろされたマゼランの拳を避けて、その周囲を青い蝶で囲んだパンドラがささやくように問いかける。女が褥でつむぐ睦言のための声に似ていた。つくづくカンに触る声だとトカゲはうんざりし、ここでパンドラがマゼランの息の根を止めてくれるのならルフィは暫くは安全だと、そういうことを考えた。
マゼラン、愚かではない。周囲にめぐらされた青い蝶が起爆するということを悟っているのか、ぴくりとも体を動かさずただパンドラをにらみつける。視線だけでこの地獄の囚人どもを震え上がらせることのできる署長どのである。トカゲでさえ惚れ惚れとするほどの敵意と殺意、しかし受けて、パンドラは恍惚、というような表情しか浮かべぬのだから、この女脳が沸いて感覚麻痺してんのか、とそうトカゲは突っ込みたい。
パンドラの、どこまでも楽しそう、という声が続く。
「棺はどこ?」
++
「ここは囚人たちを収容する監獄、死者は袋に詰めて海へ流す。棺などはない」
きっぱりという、その顔や声に嘘は感じられぬ。さいかし、ぴくり、とほんのわずかに揺れた小指の先、それだけでにはじゅうぶんだった。二度も同じことを聞く必要はない。
「まぁ、海にごみを捨ててはいけないのよ?」
「卿、何をどうどうと死体をごみ認定してるんだ、この外道」
突っ込みを入れてくる痴女の言葉をきれいに無視して、パンドラ・はマゼランの周囲の蝶を爆破させた。あの反応だけでじゅうぶんだ。ここに、あの子の棺があると、それさえ確証されればあとはどうとでもなる。
爆音と上がる煙には目を細めて、ノアのことを思い出した。棺、棺、本来、ノアが、あの混血の司祭長が収まるはずだった最後の褥。彼女の死後、その棺は隠された。リリスとノアの「秘密」を明らかにはせぬために、世界から隠れたのだ。隠したのは誰だっただろうか、とは思う。もうそのころ自分は眠りについていたので、詳しいことはわからない。だがどこぞの貴族が最終的には守ることになり、そして数年前に、その貴族の一族は政府により滅ぼされて、棺はこのインペルダウンにひそかに運び込まれたはずだ。
エニエスにはパンドラ・の体、海軍本部には。そしてインペルダウンにはノアの棺。ちりばめられた悪意が、今こうして一箇所に集まろうとしていることがには面白い。あの大将どのの反応が見たかった。そうはならぬようにと、これまで必死に、を、誰にも触れさせぬように、軟禁、行動の制限という子供じみた方法で守ってきた、あの男。さぞかし苦しむだろう。嘆き悲しむだろうか。泣いてくれればこれほどの心が穏やかになることはない。
ぐいっと、の首が掴まれて地面にたたきつけられた。いっそこのまま骨まで砕く、というくらいの勢い、力強い腕には目を見開く。
「・・・あら」
先ほどの爆発でもまるでダメージを受けておらぬ、マゼラン、この地獄の番人がを地面に押さえつけていた。ぼたぼたと垂れるのは有毒である。体中に男の体液を浴びる趣味はないのだけれど、とは目を細めて腕を振る。ザン、とマゼランの右腕が切り落とされた。自然系、ではないのだから簡単に戻りはせぬ。
「一生片腕でいなさいね。このわたくしを押し倒すなんて、恥知らずだこと」
「貴様の狙いが何であろうと、この監獄を侵させはしない」
の軽口など聞きもせず、先ほどよりも一層敵意を膨らませたマゼランが、びりびりと空気が震えるほどの大音量で叫んだ。
シラを切りとおさぬだけ好感は持てるが、などとどこまでも上目線で判じながら、は微笑む。
「必死ね、えぇ、必死にもなろうものですよね。あなた、あの子を愛しているの、そうでしょう?」
どこまでもどこまでもおあつらえ向きに伸びていく、螺旋階段のようなパンドラの声。響く、響く、細く響くそれは蜥蜴の尻尾の揺らぎにも似ていた。はさしあたって何の脅威も感じてはいなかったが、しかし、今すぐにこの男の首をはねると、そういう気はなかった。
何しろこの男、を心のそこから愛してしまった、下らぬ男の一人である。いや、世には多く、あの子を愛しているとそのような思い違いを堂々として必死にあの子を追い掛け回す連中が後を絶たない。それは千年も前から何も変わらぬ。だがこの男は、数少ない「本物」だった。本当の、本当に、あの、嵐や暗闇、孤独を恐れる小さな肩を守り続けたいと、そのように願う一人だった。
それならは、あの子の目の前で直接、この男を殺してやりたかった。それこそが、パンドラの凶器。腐りきった悪意、深い不快な井戸の底にこびりついた女の敵意。そのときのことを思い浮かべればうっとりと目が細く、月のように歪むこと。あの子がどんな顔をするのか、それを見たときに、の心は華やかな光を放つ。
「あの子を愛してしまう何もかも、わたくしは気に入らない。あの子は、たった一人で打ち震えて孤独と恐怖にさいなまれれてくれなければ、わたくしの気がすまないのよ」
++
動け、動け、と、ハンニャバルは自分に言い聞かせた。目の前でマゼラン署長が、悪魔のような女どもに翻弄されている。あの女、トカゲ中佐の方には覚えがあったし、もう一人の嘘のように美しい女にも、覚えはあった。
(バカですか、署長。あんた、能力者なんだから、世界の敵に勝てるわけがないでしょう)
必死に叫びたかった。それでもハンニャバルの喉はかすれて声が出ない。目の前で、目の前で、マゼランがトカゲ中佐に撃たれる、
世界の敵に罵られる。ハンニャバルは署長のそんな姿を見たくはなかった。嘘をつけ。本当は、署長が完璧なわけではないと、知っているのに。頭の中で誰かがささやく。悪魔の声、嫌、違う、自分の声だ。ハンニャバルにとって署長は完璧だった。しかし、知っている。知って、いたのだ。マゼランの弱さを、本当は知っていた。
(あんた、無理でしょ。あんたはがすきなんだ。だから、世界の敵を倒すことなんて、できっこないでしょうに)
ハンニャバルも、のことは知っている。とても愛らしい少女だった。それでいて傲慢で、尊大に振舞う少女だった。といるときのマゼラン署長は子供のような顔をしていた。和らいだ、安らいだ顔をしていた。そんな署長をリシュウは疎んでいるようだったが、ハンニャバルは、そういうマゼランを悪くはないと思っていた。一緒に働くようになってもう二十年以上がたつ。だから、どれほどマゼランが、苦しんできたのかも、本当はちゃんと全部、わかっていた。
署長は強い。そんなことはわかってる。けれど、だめだ。あの女にだけは、署長は勝てない。わかってる。倒せば苦しむ。ハンニャバルは署長を信じてはいた。けれど、あの女を倒せるとは思っていない。署長がいればどんな不安もなかった。署長になりたかった。ハンニャバルはマゼランのようになりたかった。
だがしかし、今、ハンニャバルはマゼランではないから、だから、あの女を殺すことができる。
ふるふる、と震える体を叱責してハンニャバルは立ち上がる。手に持った血吸、振れば炎が現れて、ハンニャバル、そのまま世界の敵へ身を投げた。
+++
燃え上がった、己のスカートの端に、が目を見開き、そして喉からか細い悲鳴を上げる。おや、とトカゲはひどく耳鳴りのする中ぼんやりとそれを眺め、命知らずにも、パンドラ・とマゼランの間に飛び込んだ、インペルダウンの副署長の名を呼んだ。
「ハンニャバル?」
刹那に散る、真紅の血。吹き飛ぶ被り物、腕は片方折れ曲がり、足は無残に両方が折られた。それでも、残った腕で柄を握り、倒れぬ男。驚くマゼランと、それに、炎に包まれたの悲鳴が滑稽に思われた。
「ご、ごごば、地獄の入り口!!最後の砦!!!!お前のような魔女に、ごごは落とざせはじない!!!!」
口の中に血でもたまっているか、聞き取りづらい発音である。しかしそれでもトカゲの耳にはよく響く。珍しいことに、トカゲはこの男の心に正義を感じた。自分の弱さなど百も承知で、それでも、そんな自分よりも弱いもののために立ち上がる心。そして自分よりも強いだろうマゼランを、守ろうという、愚かしくもいとしい、感情。
「こ、このわたくしを焼くなど・・・!!!!!!身の程を知りなさい!!!!!」
腕のひとふりで身の炎を消したがすかさずハンニャバルに繰り出した蹴り。ゴジュッ、と骨の砕けて臓器がえぐれる、嫌な音がした。
「お前ごぞ、身の程をして!!!悪魔のような魔女め!!!!」
ぶんっ、とでたらめにハンニャバルが薙刀を振る。の髪を掠めただけだった。
「退いていろハンニャバル!!!貴様ではその女の相手は、」
「じゃかあしい!!!署長!!あんた、バカですか!!?あんたじゃ、この女には勝てないって、わかってるでしょうが!!」
ぐいっとハンニャバルの肩を掴むマゼランを、振り払って叫んだ。そのさなかにも、薙刀は炎を生む。それがをかろうじて退けていた。駆け巡る炎はフロアを包み込み、灼熱地獄さながらな光景。びっしりと、の額に、暑さのせいだけではない汗が浮かぶ。温度は上がっているにもかかわらず、その顔は蒼白だった。
「その炎を消しなさい・・・!!!」
「嫌だね!!!魔女は火あぶりにすると世界の法で決まってる!!署長、あんたは引っ込んでてくださいよ!!!」
「ハンニャバル!!!!」
どん、と、ハンニャバルの薙刀がの胸を貫いた。が、その途端、は自分の体に埋め込まれる刃を掴み返し、ハンンニャバルに向かって音の悪意を放った。
「ぐ、・・・・は」
体中から、血が噴出す。内面に振動を受けて、臓器や血管、神経が破裂したよう。今度こそハンニャバルが意識を飛ばした。白めを向き、泡を吹くその体が壁にたたきつけられる前に、受け止めたのはマゼランだった。
「……ハンニャバル」
トカゲの目には、そういえば、この二人の関係はちぐはぐに見えた。最初に見たときも、そうだった。信頼などしていないような、身の程知らず名弱者と強者、のように見えた。しかし今、ハンニャバルを受け止めるそのマゼランの手、そして見つめる眼差しは、なんだ。
「こんなところでくたばるんじゃない」
おれの後任は、お前しかいないのだ、と、そう小さくつぶやく声、ぎりっとかみ締められた奥歯にトカゲは片眉を上げる。どっちかというと早死にしそうなタイプはハンニャバル、とそういう突っ込みをするところでもない。マゼランの眼差し、そこには憐憫などはないのだ。他者を見る、のでもない。そこに、かつての己の若き姿でも重ねるような、そして絶対の信頼があるような、そんな、友を見る眼差しである。
(こんな顔もできるのか、地獄の王が)
それがトカゲには面白い。マゼランは看守たちにハンニャバルを引き渡して、を、先ほどよりも一層強い眼差しでにらみつけてくる。
トカゲはハンニャバルを一瞥し、そして次にマゼランを見ると、そのままの背を蹴り飛ばした。
「何のまね?」
前のめりになりながらもきれいに受身を取ったが、目を細めてこちらを見つめる。それには答えず、トカゲはマゼランに視線を向けた。
「気が変わった。毒の王、この女の足止めはここでおれが引き受けてやる。卿はルフィを追えばいい」
「どういうつもりだ。トカゲ中佐」
「おいおい、魔女の行動を理解しようとすると、熱を出すぞ?いいから行け」
ガヅン、とトカゲの銃がの頬を殴打した。先ほどはこれっぽっちはなんのこともなかったが、炎の成果、よく怯むこと。ぼんやりと、トカゲはこの女のことを考えた。も、炎を恐れていた。それは死因が火刑であったからだ。ではこの女は?とすぐに見当もつく。己と同じ理由だ。この女、パンドラ・は王国が滅亡した夜、めぐった炎が心に焼き付いている。おびえて悲鳴すら上げるほどの、心の傷だ。
トカゲは自分の体が震えていることに気づいていた。同じである。だが、これを利用せぬ手などない。
「ふ、ふふふ、このおれがこんなマネ、絶対に、やりたくはなかったがな」
マゼランとハンニャバルを背にして、トカゲは懐から取り出した小瓶をに投げつけた。そのままパチン、と指を鳴らす。あっさりとした、魔女の攻撃。しかし、緑の炎がその、青い魔女の身を焼きこんだ。
絶叫が響き渡る。それど同時に、トカゲの身も炎に包まれた。
Fin
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