注意
この回では会話がR指定入りそうなところがありますが、パン子さんとパ嬢がそろって顔を合わせたしようのない結果と諦めてください。










現れた海色の髪の女の、何か聞き取れぬ妙な言葉によって、己の全身が鉛のように重くなった。呻く声がいくつも聞こえ、誰も例外はないらしいとはわかる。クロコダイルは地に膝をつきながら、この己が、女などに跪かされる屈辱に唇を噛んだ。いや、しかし、わかってはいることだ。人が、人として存在している以上抗うことのできぬ、女の声。人間が人間として存在している限り、それは高く、高く響き、誰も彼もを跪かせるという。この世に生まれ、そしてたとえ無法者であろうと、世の道理の上に生きているものは、跪く。何か特別な力があってのことでは、ない。そんな魔法じみたものなどこの世には存在していない。あのの、常人には魔法か何かとしか思えぬものさえ(本人が冗談めかして魔法と呼んでいても)それはレベルの高い科学、あるいは思い込み効果によるものだと、そう、いつだったか当人が話していた。のその力の原点は「幼さ」「穢れなさ」だという。あどけない少女のようであると他人が認識し、人の目にが幼い少女に見える、それが一人でもいる限り、は少女のままで存在すると、そういう、ことだった。

とっくに身も心も穢れきっているだろう生き物が、その白さを己とする、その根底を突き詰めれば仄暗い悪夢のような心持だろう。つまりは、どんな生き物との邂逅でさえ、あの魔女の心を芯から侵食するには足りていないという証明。クロコダイルがを愛さなかった原点である。そうとわかれば、あの生き物は、あの魔女は誰も本心から愛しはせぬ、いや、あるいは、愛していたとしても心の底では深く認めてはおらぬという、その末路ではないのか。

それならば、この女を脅威と見るその「理由」は、何か、それさえわかれば抗える。

クロコダイルは砂を舐めながら、咄嗟に手に握りしめたものを確認し、じっとその機会を伺った。少し離れたところ、崖の一段下でトカゲが“世界の敵”に頭を踏みつけられている。あの傲慢な女からすればさぞ屈辱だろうとせせら笑いたいが、状況は己も、まぁ似たようなもの。

そんな中、カタリ、と誰かの立ちあがる音がした。

「おいお前!!!そいつに何してんだ!!!」

麦わらの、声である。

(おい、あいつ、なんで動けるんだ)

常識がない生き物だとはわかっていたが、まさか人間じゃなかったのかと疑いたい。少しだけ視線を動かしてみれば、一様に誰も彼もが首くらいしか動かせぬ、筋肉がすっかり固まってしまって身動きとれぬ状況であるというのに、あの麦藁、かぶったバカはズカズカとトカゲと“世界の敵”に近づいて、その、己よりも長身の女を睨みつけていた。







その女、傲慢








「あら、まぁ。あなた、どうして動けるの?」

自分に近づいてきた小さな子供、麦わら帽子の、かわいい顔をした男の子。見つめてすぅっと、パンドラ・の目が氷る。この己の声が聞かぬ、そういう生き物は世にはいないはず。いや、例外、はないわけでもない。

だが、そういうことができるのは、自分と、今この足下にいる女、それにリリスのような魔女だけだ。己ではないし、この女でもないだろう。だが、リリスが、この子にそれをしたのか?俄かには信じられぬが、しかし現にこの声高く響かせた、余韻でしびれて動けぬはずの中で、子供は普通に、当たり前のように動いている。

「おい、お前!そいつを放せよ!痛がってるじゃねぇか」
「だったら、なんです。わたくしのすることに口出しなど、するだけ無駄ですよ」
「知るかそんなの!そいつはおれとエースを助けに行くって、そう約束したんだ!仲間なんだよ!」

言ってこの己に詰め寄ってくる。その、振りあげられた腕をそっと掴み、は微笑んだ。

これはもう疑う余地もない。なぜ、この子なのだろう。

(この子供、魔女の恩赦を得ている。この子供を、あの子が選んだというのね)

理解はできなかったが、こうして目の当たりにしている以上否定するのもばからしい。てっきり、リリスが選んだのはあの、気に食わぬ苛烈の極み、あの憤怒の男だと思っていた。魔女の恩赦。その生涯、魔女がたった一人にだけ与えることのできる、悪意の無効化の証。それを得れば、悪魔の飢餓に苛まれることもない。そして、魔女の力が利かなくなる。文字通りの免罪符。何もかもが、許されるのだ。魔女はその長い生涯で、それをたった一人にだけしか与えられない。その人間が死ねば、また誰かを選ぶことはできるが、しかし、ということは、リリスは、いや、は、サカズキと知り合った後でも、あの子はルフィと出会うまで誰にも恩赦を与えていなかったことになる。

(どういう、ことかしら?)

ふと、よぎる違和感。己の長き眠りが解かれたのは、間違いなくがあの男、サカズキを愛してしまったからに他ならない。リリスが昔、あの魚人と天竜の混血の司祭長、ノアと共謀してこの己を封じた。その時に使われた、知恵。眠り姫の呪い。それを解けるのは王子様の口付けか、あるいは、定められた王子の消失。の王子様でありえなくなった、サカズキという、くだらぬ男の、つまらぬ男の腕の中で震える姫君になってしまいたいと一瞬でも思った瞬間、の眠りは消えうせた。

それなのに、は、あの子はこの子供にその、魔女の恩赦を与えている。
どういうことか、答えを見つける前に、ばっと、ルフィの手が乱暴に放される。触れた瞬間、軽くの肌が子供の爪で傷ついた。白い手首をさすり、僅かに赤くなっているのをみて、は目を細める。

「あなた、運命によくよく守られているのね。う、ふふふ、ふ、ふふ」

黒い大きな目をこちらに向け、睨みつけられる。はもう一度腕を掴み、今度は振り払われぬように力を込めた。そしてそっと優しくその頬を撫でて、黒髪を首筋から撫で上げる。真黒い髪に、真っすぐな目。こういう配色は嫌いではない。だが、カッと次の瞬間にその子供の身から、に向けて確実な敵意が現れる。それで、向けられる敵意を軽々かわし、言葉を続けた。

「あなた、えぇ、そう、守られているのですね。知っていて?あなたの所為であなたの兄君は、あの処刑台に引きずりあげられるのよ」
「お前…エースを知ってんのか!!?おれの所為!!?適当なこと言うな……!!」

吠えつく声の、かわいらしいこと。はころころと声を上げて笑い、子供の腕を話す。そして足は女の頭を踏み付けたまま、少し上にいる、毛皮のコートの男を指さした。

「わたくしの猊下は、本当はそこの、それの後釜を狙っていたの。海の王者の一角、だなんてたいそうな名を良くつけたもの、みのほど知らずな称号、とは思っていますけれど。だから、それを打ち取ったあなたの首が欲しかったのですよ。賞金も、そこそこには上がっていましたし、ちょうど良かったのですよ」

その頃己はまだ深く眠りについたままではあったが、知らぬわけではない。何もかもを、承知というわけではないが、わかることはわかる。“”はの影法師であるのだから、その体験した記録を知るのは道理であった。

「あぁ、そうだ。だが、白ヒゲの船で大罪を犯したおれを追っていたエースが、お前の兄だった。おれが、お前を殺しに行くという、弟を殺しに行くというおれ達を前に、あいつの退路は断たれたのさ!」

の言葉をディーチが引き取った。自分が彼の言葉を遮っていたことに気づき、はぽっと羞恥に頬を染める。

エース、エース、ポートガス・D・エースのことはも興味があった。この戦争の引き金を引いたのは彼ではないが、しかしきっかけにはなった男。炎の悪魔をその身に宿した男のこと、は興味があった。

炎の悪魔は、と縁が深い。エースが彼の記憶を持っている、とは思っていないが、しかし、炎の悪魔にはの、にも渡さなかった、十日間の記録があるはずだ。あの記憶を、リリスに知られるわけにはいかない。ぎゅっと手のひらを握りしめる。世が、世界がどうなろうと、そんなことはにはどうだってよかった。自分が、あの時に井戸の中で誓った願いはまだかなっていない。叶えるためなら、どんなことでもする。身の内の激情をただ優美なだけの笑みに変えて、は艶然と指先を頬に当てる。出来の悪い教え子に忍耐強く教授する教師のような心持。そのように装いながらも、その装いは淑女のものであるというからして、世は愉快極まりなく移るもの。そしてこの子供が魔女の、とりわけ、の恩赦を得ているというのならこの己が何をどうしたところで、その眼には己はただ、人にしか見ぬのだろう。それはわかったが、そうといって周囲が己を美しい、と認識してしまう結果に変わりはない。浅ましい人の脳髄とせせら笑うのは品がない。

「おわかりになった?麦わらの、かわいらしい方。あなたを守るために、死なせないために、あの炎の方は、猊下に挑み、そして捕まってしまったのね」

世の男はろくでもないバカばかりだと思っているが、それでも、あの男の、エースの行動はには理解できた。己の大切な弟を、守りたいという気持ち。いや、白ヒゲの名に塗られた泥をどうにかにしたいというのが大前提にしても、しかし、それでも、黒ひげを取り逃がした後に、己の弟の命の危機ともあっては、人は、どうしようもなくなる。

「エースの墓前ではよく礼を言うんだな、あいつが現れなかったら、本来死んでいたのはお前だ、麦わら」
「だったら!!!!!やってみろよ!!!!!」

言うや、の前からルフィが消え、次の瞬間、ティーチが盛大に殴り飛ばされていた。それはもう、面白いくらいに吹き飛ぶ黒達磨、ではなかった、己の猊下を見つめてが、面白そうにコロコロと喉を震わせる。と、銃声。足下の女のものではない。見れば、砂の王が、その手に、魔女の小銃を持って構えている。手にしていることは知っていた。今の足元にいる女、彼女がの青い蝶に触れ爆発した途端、手から落としていたものを、あの男が咄嗟に掴んでいた。

「あら、いやだ」

己の髪が、一房消えた。男の分際でこの己に魔女の悪意をたたきつけるなど、無礼もいいところである。そのうえ、長いから、別にかまわないといえば構わないとはいえ、女の髪を切るなんてどういう神経をしているのか。顔を顰めれば、その僅かな隙に、足下の女が逃げた。

「ふ、ふふふ、助かったぞ、クロコダイル。心の底から礼を言ってやる、光栄に思え」
「ちっとも誠意が感じられねぇな」
「細かいことを気にするな、禿げるぞ」

逃れてそのまま、クロコダイルの元に立つ、赤毛、長身の女を見つめは片手に持っていた二股の音叉を掲げた。共鳴させるための柄を強く握る。

「ごきげんよう。第三の地平線、深淵の魔女、パンドラ・
「あぁ、こちらこそ、ごきげんよう。第二の地平線、慈悲の魔女、パンドラ・

双方、持つ名は本来同じである。はこの、隻眼の女が何であるのかわかっていた。それで、音叉を構えて、喉を震わせる。と、そのほぼ同時に、今はトカゲと名乗る、その女の持つ小銃、引き金が引かれた。

響き合う、音の悪意、形こそ違えど、威力はそう大差なかった。元の力はどう考えても己のほうが上に決まりきっているが、この女、トカゲはの名をも持っている。は起った爆風に目を細めて、煙の中から現れたトカゲの蹴りを受け止めた。油断もスキもあったものではない。それはこちらこそも、ではあり、そのまま素早く、トカゲの腹を斬り裂き腸を引きずり出そうと指を曲げるが、トカゲの体を砂が守った。そしてそれだけでは飽き足らぬのか、砂によって持ち上げられた瓦礫が、を襲う。

それを、音波で崩し、はトン、と後ろに下がった。

「賢い鰐だこと」
「直接、攻撃さえしなきゃ、悪魔の報いを受けることはねぇからな」

葉巻を口にくわえ、堂々と言い放つ。クロコダイルとか、たしかそういう名だ。なるほど、が懐いたわけであるとは感心し、同時に敵意も湧く。あの子に近づく男は誰であろうと許さぬ。そう思い、あの男の脳を吹き飛ばそうと喉を鳴らすが、耳に響く、ティーチの絶叫には振り返った。

見れば、ルフィにズタボロにされてのたうちまわっている、すてきな姿。本当に惚れぼれしてしまう、やられっぷりである。闇の悪魔は、その特殊さゆえありとあらゆる痛みを常人以上に引き入れる。どう考えてもM系の方でないと大手を振って歓迎できぬオプションだと思うのだが、さすがはの選んだ方である。鼻血やらいろんなところから血を流し、素敵なありさま。

「止めなくていいのか?あれは、お前の伴侶なんだろう?」

鼻血を拭いながら、トカゲが立ちあがる。の傷付けた腹はシュウシュウと音を立てて回復していた。その有様、なるほど、ウンケの屋敷蛇の力を使っているらしい。は感心して頷く。

「だって、あの麦わらの子供にはわたくしの何もかもが効かないのですもの。挑んで、爪が割れてしまったら嫌ですよ」

奇麗に塗ったエナメルが?がれるかもしれないというだけで大惨事であるのに、と堂々とのたまえば、トカゲが顔を引きつらせた。

「一目見る前から、おれは卿が嫌いだとわかり切っていたが、この外道」
「えぇ、わたくしも出会う前からわかっていましたよ。わたくし、あなたが嫌い。そんな方に私の外道さをどうの言われたところで、なんです」

頷けば、トカゲが額を押えた。それでこほん、と咳ばらいをするのと、魚人の巨漢の叫び声が響くのが重なった。

「まてルフィ君!!もうよせ!!!」

おや、とは振り返り、目を細める。ここで、ルフィがティーチと戦ってくれれば、それはそれでには都合がよいのだが、それを止めるのか、あの魚人。

「何が先か!!よう考えるんじゃ!!!」

繰り出した一撃を受け止められ、興奮気味に歯から息を吐く、麦わらの子供。フーフーと荒い息使いがこちらまで聞こえるようである。

「時間も労力も無駄にするな!感情にまかせて戦っても、エースさんの救出には繋がらん!!」
「正論ね、とても、素晴らしい意見ですね」

パチパチ、とは小バカにしたように手を叩き、魚人の男を見つめる。ルフィを押えこんだままジンベエの目がを捕えた。

「“世界の果て”がなぜ黒ひげといる。お前さんが目覚めたということは、ノアさんは……まさか」

そういえば、魚人のある一族は正確にノアの存在を刻みこんでいるのだったかとは思い出す。消されたはずの存在。なかったことにされた、少女。その何もかもの記憶を詰めた棺さえも安息を得られぬ、追放人となった、ノアのこと。いや、確かあの棺に限っては、どこかの一族が一時は守り続けていたらしいが、政府ににらまれ、滅ぼされたはずだ。その、ノアを知っている生き物を見て、の目がわずかに、やわらかな光を宿した。

問われた言葉には何も答えずに、ただ、静かに膝を折る。ドレスの量裾を持ち上げ、面は崩さずの礼をすれば、ジンベエの体がわずかに震えた。戸惑いや、を失ったかもしれぬことへの恐怖である。だが先ほどルフィを失跡した、冷静な男、ぐっと、手のひらを握りしめるだけに留めた。

はトカゲに向きなおり、その頬を張り飛ばそうと手を振り上げる、その手を掴まれ、逆にトカゲの手がに振りあげられた。空いている手でそれを掴み、トカゲの青い目との赤い目が間近に迫る。吐息が重なるほど顔をよせ、ははっきりとトカゲの姿を目に移し、そしてトカゲの目に己の姿を映した。

「このおれを呪いにかけようとしているのか」
「何もかも、呪われてしまえばいいのよ」
「死にたいのなら、荒縄で首を吊ってくれ」
「お先にどうぞ」

互いの紅い唇が敵意を放つ。互いにどこまでも本気の言動、だが戯言のようにしか聞こえぬ音。トカゲの手が動けば、の手も動く。どちらがどちら、かと競い合う。その根底は、どちらがより「美しいのか」の争いにほかならぬ。くだらぬことと思うなかれ。それもそのはず、あのの力の、あるいは、その思い込み効果の原動は「幼さ」「無垢さ」「純粋さ」の白々さ。それに対して己も、そしてこの女も、その本分は何人をも跪かせる美しさ、である。ただの美醜など軽いものではない。人は、本当に美しいものを見たときに、己の姿に対して劣等感を抱く。いや、どれほど否定しても、それは抗えぬこと。完璧なものを見れば、心に差異が生じる。劣等感は拒絶へとつながりもするが、全ての贈り物の名を頂く、パンドラの美は拒絶など認めぬ。相手がほんの僅かでも、パンドラを見て己よりも美しい、とそう判じ(あるいは恥)た途端、パンドラの悪意は完成する。
殿方であれば、美しいものを得たい(そしてどんな男性であれ女性に服従させられたいという根底の願望がある)とその欲がパンドラを意識の上に上位に置き、女性であれば、無意識にどちらが美しいか、というせめぎ合い。本人に自覚がなくとも、女という生き物は必ずどちらがどちら、という値踏みをする。そうしてパンドラが上であると認められた途端、は勝利するのである。

通常、人の美しさというのは時代の流れあるいは人の好みで左右されるもの、だが世に変わらぬ美しさというものが存在する。たとえば輝く月や星の美しさは言葉を話さぬ時代から人には不可侵な美であると認められてきた。パンドラ・の美しさは、いわばそれに似ている。

そうして相対する、地平線の違う二人の「パンドラ・」持つその美しさは全く同じ、のように思われた。しかし二つのものが存在したときから、それはどちらがどうという、争いのタネ、そして判別が下されるもの。とトカゲの悪意がぶつかり合うなか、どちらが上かという、その諍い。

びくり、とトカゲと双方の細い肩が震えた。

「猊下!!!」
「ルフィ!!」

ばっと、互いにその場を飛び離れ、それぞれ呼んだ相手の元へ降りた。それと同時に、人の悲鳴が奥から奥から重なり合って轟く。

「マゼランだ!!マゼランが来たぞ!!!!!」

監獄署長、毒の王、マゼラン。その、ついにのご登場らしかった。もあの男の脅威は知っている。あのを、心の底から愛してしまった男の一人だ。出来る限り早々に葬ってやりたいとは思っているが、しかし、自分一人ならまだしも、黒ひげやその仲間がいる状況では、面倒が多い。

口々に何かを叫びながらレベル3へ逃げてゆく人の波に負けぬようにティーチに近づき、は口を開く。

「猊下、お急ぎを」
「マゼラン…?とうとう現れやがったか」
「わたくしが貴方をお守り致します。まずはそこの、痴女たちから」
「…マゼランからじゃねぇのか?」

この今の会話の流れだとそうなるんじゃないか、という、ティーチのもっともな突っ込みは聞き流し、は音叉をトカゲたちに向けた。

の声は平時「一万分の一の揺らぎ」を出している。通常であれば限られた人間、高音のオペラ歌手などが「1/Fの揺らぎ」を限られた音で出すことができるが、はそういった奇跡のはるか上を行く。

がかつて冬の庭で作りだした特殊な音叉とともに声を使えば、それは強力な武器となった。このの声をもとにして作りだしたものがが好んで使った音の悪意である。
声を轟かせてこのフロアの天井くらい破壊しようかとしていると、トカゲが天に向かって銃声を放った。

ただの銃声ではない。あの女、銃に弾を込めずに放っている。ただの悪意を銃弾の入る隙間に込めて放つもの。暴発すれば腕の一本くらいは吹き飛ぶことも、容易くやってのけるその姿。騒然とする周囲に響く銃声は、嘶くひな鳥たちを叱責する親鳥の声にも似ていた。確かにギャアギャァアと騒がしいもの。

「先に行け、ルフィ」
「パン粉!」
「だから、せめてパン子と言え。次に会った時に頬を張り飛ばすぞ。さぁ、行け」

黒ひげたちの前に立ちはだかり、ルフィに先を促す。ジンベエと眼が合い、何か頷き合ったようだが、互いに言葉には出さずに、そのままジンベエがルフィの背を押した。

「逃がしませんよ」
「ふ、ふふ、逃がせよ」

ここであの子供に好き勝手されては、リリスの身に危険が及ぶと、そう判断。が地を蹴れば、トカゲが前に立ちはだかった。魔女の本気の眼である。ガチッと互いの足が重なり、軽い衝撃が地を抉る。はじき返されてはクルリと回転すると、ティーチを見上げ、申し訳なさそうな表情を作り、眉を寄せた。

「猊下、わたくし、今はこの痴女をどうこうしなければならないの。先に行っていてくださる?」
「何もかも、お前の好きにすりゃあいい」

言われては顔をほころばせる。それを見てトカゲが「キショイ」とぼそりと呟いたので、青い蝶をその周囲に出現させた。無遠慮な起爆、トカゲの姿が粉塵に消えたが、ふわり、と蓮の花弁が散り、ティーチの頭上からその長身が落下してくる。

ガッシャン、と、トカゲの銃で殴打という、原始的な攻撃を防いだのはヴァン・オーガである。同じ銃の扱い手であるからこその名乗りは正当なものかそれともただ単に命知らずかと、そうが上目線に判じかけていると、オーガを蹴り飛ばしたトカゲが、真っ直ぐに銃口をティーチに突きつける。

「マーシャル・D・ティーチ。貴様のような黒達磨が、そこの狂女の伴侶だなどと、どんな悪趣味かと思ったが、そうか、貴様、なるほど、な。そういうことか。の考えそうなことだ。嘘なんぞつけるようになったから余計にさかしい。今ここで貴様の首を落としておく。それがおれと赤旗のバージンロードのためだ」

放たれた悪意、その銃弾がティーチの首を正確に狙い、打ち込まれるかに見えた。が、先ほどからのとの攻防どちらとも致命的な結果が招けていないように、やはり此度もそのように。

「あら、嫌だ。かなうと思って?貴女ごときが」
「ふふ、いいや?かなうなどと傲慢な。けれど、このおれを倒せると?貴様ごときが?」

立ちはだかったが、トカゲの長い襟足を掴んで、引き寄せる。頭皮を引っぺがすほど強引な力に僅かも顔を顰めることなく、トカゲは白々しく言い放つ。その間にティーチが面白そうに笑いながら、さっさとその場を離れたもので、は遠慮なく、その途端、大声を扱った。

崩れ落ちる、瓦礫、瓦解する何もかも、これであの毒の王の道も立たれれば良いのだが、と思う心の反面、あの男はこの己の手で息の根を止めなければ気が済まぬ、とも思う。

崩れ落ちる瓦礫の下敷きになる人の悲鳴を聞きながらうっとりと、は、いまだ怯まぬ、衰えぬ、トカゲを穏やかな目で見つめた。








ティーチを追いかけてその自慢の黒ひげを永久脱毛してやりたいと、そんな葛藤はさておき、今は目の前の狂女の相手をせねばならぬのかと、トカゲは聊か緊張した面持ち。先ほどから何度か手を合わせて確信している。あの女、確実にその力は己よりも強いもの。それも当然、元もとのトカゲの力はには及ばぬ。その世界が、第三の地平線と呼ばれるところであることから、その結果はわかっていたようなものだ。

だが、傲慢さでは並べているらしい。そこに勝機があるのかどうか、それはトカゲにはどうでもよかった。大事なのは、今あの女を足止めすることである。

あの女は、ルフィを殺すだろう。それがわかった。いや、あの女はルフィだけではなくて、と関わった全ての人間をとりわけ男を憎悪し、殺す。一瞬トカゲの脳裏に、こちらの世界の赤旗が浮かび、その安否が気遣われたが、だがしかし、あの赤旗の傍には魔剣がいる。が心底懐き、そしてこの己でさええ退けられたあの背筋の美しい剣士なら、まぁ、実際パンドラとドンパチしてもなんとかなるだろう。と、本人が知ったらその美しい柳眉を顰めて困惑しそうな一方的な信頼を押し付け、トカゲは息を吐く。

「助けて、さしあげましょうか」

その溜息に込められた意味を理解したわけではないだろうが、絶妙なタイミングで囁かれる女の声。パンドラの声は、女の嬌声にも似ているとトカゲは思った。同性にはどうもカンにさわるというか、なんというか。なんでこんな女が美しい生き物認定されているのか、トカゲは世界中の眼球を調べてやりたくなったが、それは、どっちもどちら、だろう。
コロコロと鈴のような笑い声、その真っ赤な唇に銃口を突っ込んでかき回してやれば少しはくぐもった声を出すのかと、そんな想像。誰かやってやれと他力本願。自分でやる気はない。なんというか、面倒くさいし、真っ赤な唇、口紅が自分の愛銃に付くのは、気に入らなかった。

「卿、己が誰かを助けられるとか、そんな勘違いをどうしてできる」
「あら、わかっていらっしゃるのでしょう?わたくしなら貴女を助けられる。えぇ、そうよ。わたくしならあなたを、元の世界へ戻してさしあげられる」

ぴたり、とトカゲの動きが止まった。己も意識してのことではなく、無意識のことだ。そう、確かにわかってはいた。この世界から己が己の力で出ることは出来ない。だが、、あるいはがそれなりの対価を払えば、できぬことではない。

だがトカゲは誰に頼む気もなかたった。が、それを突きつけられ、戸惑わぬ、動揺せぬわけがない。

瞼の裏に浮かぶ姿。それをもう一度現実のものとできるという、可能性。

「もともとあなたはこの世界で血を流す意味なんてないでしょう?いえ、むしろあなたはあなたの世界でなければ、血を流す意味がない。そうしなければ、あなたは幸せにはなれないもの」

トカゲの動揺をゆっくり楽しむかのように、が流れる春の雪水のような声でつらつらと言葉を繋ぐ。トカゲの脳裏に、浮かぶその姿。己の世界の赤旗。こちらの世界の赤旗とは、色気からしてまず違うと親指を立てて保証できるほど、違いがはっきりとわかる、己の、赤旗。

「誰だってそう。たとえ仮に、別の世界に行ったって、そこで望んだ結果を手に入れたって、それは幸福ではないわ。作りだしたまやかしですもの。あたまの中で都合のよい夢を作っているようなもの。本当に幸せになりたいのなら、自分をごまかさず、妥協せず、自分の世界と向き合わなければならないのよ」
「卿のように、か?」
「えぇ、そう。わたくしは躊躇わないわ。わたくし自身の願いのために」

それは破滅への願い、カウントダウンは3秒あればいいという、周囲を巻き込みかねぬ迷惑なもの。トカゲはの仄暗い言葉ではっと意識を戻し、口元に皮肉めいた笑みを引く。

赤旗。

あの、男。いつもどこか困ったように眉を寄せ、自分を見ていた。迷惑そうにしながら、呆れながら、それでも、トカゲが呼べば振り返り、トカゲが手を伸ばせば、その手を握り返した。ゆっくりと話す声。硬い胸板。首筋に流れる、小麦色の髪を指に絡めて引っ張れば、痛そうに涙目になって睨み飛ばされた。

その全てをトカゲは、こちらの世界に来てからも、一秒とて忘れたことはない。愛しているのだ、心の底から、愛している。

ぎゅっと、唇を噛みしめて、右手を胸の前に当てる。それを怯えと捕らえたか、が麗しい笑み、優雅にドレスの裾を揺らしてトカゲに近づいた。トン、と、歩く音でさえ音楽のように美しい生き物である。触れるほどに近づいて、の指先がトカゲの白い頬を撫で、首筋、胸元、それらを通過し、腹部に触れる。

「わかって、いるのでしょう?あなただって、この世界でどれだけ良い結末を手に入れたって、その心は、体は満たされない」

続けざまに言われてトカゲは唇を噛んだ。この世界で、戯れにモモンガ中将に熱烈な口付けをしてみたり、クロコダイルに誘いをかけてみたりもしたが、己自信の心が氷のようにしかならぬ。自分でやっておいてなんだが、ちっとも身体に火が付かぬ。募るのは、赤旗ではないという現実を突きつけられた嫌悪感。

「対価は、わたくしがいまはもう持っていないもの、貴方はまだ持っているもの」
「……卿にない、もの?」

生憎と、「常識」は自分も持ち合わせがないのだが、と堂々と言うと、があっさり「そんなものわたくしもいりません」とにべもない。

ここに誰ぞいれば突っ込みを入れただろうが、生憎と沈黙の続くのみ。マゼランは崩れた瓦礫の除去に忙しいのかまだたどり着いてこない。それはある意味、ルフィたちへの時間稼ぎになったものだとトカゲは頭の隅で安堵する。そういうトカゲを尻目に、が、短く言い放つ。

「子宮ですよ」

トカゲは目を見開き、が執拗に己の腹部を撫でていること、気付いて咄嗟に一歩、後ろに下がった。そして狂う女の腹部とそして顔を交互に見詰める。

(この女には子宮がない…?)

女の象徴、でもあるものだ。聖杯とも称されるもの。生物の最初の褥。男の荒々しい欲が注ぎ込まれ、女のやわらかさで包み込み、命とする。それを持たぬ生き物、病や何で失ったのではなくて、持っていない、生き物、それは女ではない。だが、男でもない。奇妙な生き物になる。道理から外れた化け物になる。

しかし目の前の生き物は、トカゲの目にはどこまでも「女」に見える。なぜか、考えて、すぐに答えは出た。

「悪い取引ではないでしょう?あなたは元の世界に帰って、貴方の王子さまと結ばれる。わたくしは子宮を手に入れて、願いを叶える」

その願い、やはり破滅への願いだとトカゲは判じた。まさかこの女が世界滅亡なんて面倒なことを、体力のいることを願っているとは欠片も信じてはいなかったが、だが、よくないことを考えているのだとはわかっているつもりだった。しかし、では何を望んでいるのかと、それを正確な形で理解していたわけではない。

けれど今、その疑問がすっきりと、雪の様にとけた。流れ出す水はさらさらと、トカゲの脳に染み渡り、ぞくり、と背筋が凍る。

(だとすれば、この女にとって“”とは…)

解明された、疑問。だが、しかし、それをそうと認めるには、なんと恐ろしいことか。トカゲはこの己が恐れることなど滅多にないと思った。だが、この女の所業は、トカゲをも慄かせる。

というか、どんだけ謎が多いんだこの地平線は、と冷静に突っ込みたくなった。何もかもが、謎やら疑惑やら、その上に、まがい物の回答に満ちている。一つ一つを正確に答えの発掘、などとしていたら年老いる。あぁ、だから今のところだれも答えに辿りつけていないのか、とも思うが、それにつき合わされるのはまっぴらごめんであった。

ついっと、トカゲは両足を、バランスよく立てるように軽く広げ、傲慢・尊大、この己の領分を忘れぬだけの、声を出す。

「たとえ、卿に対価を支払い、戻れたとて、志も果たせず無様に戻ったこのおれが、赤旗の腕に納まる資格があると思っているのか」

ふん、と鼻を鳴らしてトカゲは腰に手を当てた。「見縊るな」と一瞥してから、口元に笑みを引く。傲慢、尊大、だけではない高圧的さを持ってパンドラ・、この世界の敵と向き合った。

「おれの嫁は出来た男だ。当然、おれが戻れば心から喜んで向かえるだう。だが、おれがそれでは気に入らん」

この世界に来た原点を、トカゲは忘れない。己の世界での違和感。赤犬のことなどちっとも想っていないのに、なぜか赤犬とともにいた、己。それは、この世界のの所為だ。第二の地平線から派生した、トカゲの世界。赤犬と、の関係の引継ぎ。トカゲがいくらドレークを愛しても、なぜか、その根底が、赤旗を愛しているということに違和感を覚えさせた。

だから、そうなのだ。その元の世界、この世界のが、赤犬と幸せになればいい。そうすれば、トカゲは元の世界で思う存分、赤旗を嫁に迎えられると、そういうことだ。その為に、わざわざここまで来た。戻れない、とわかっている矛盾点は、それはそれ。己の気がすまぬのだ。

だから、たとえ元の世界に戻れたとて、また同じ違和感、疑問に苛まれるだけ。

「おれはあれを愛したい。心のそこから、体の全てをかけて赤旗を、ドレークを己のものにしたいし、このおれの全てを与えてやりたい。あれの雄々しいものを己の肉の中に受け入れるだけでは物足りないんだ。何もかもを包み込み、そして注がれたい」

それに、あれの子を孕むのはおれだけでいい、ときっぱり宣言できる。赤旗の子、おれに似たら美人過ぎて困るだろう、といつだったか冗談のつもりで言ったことが思い出された。赤旗はいい親になる。トカゲは家庭なんぞ持つのは悪夢か何かとしか思えなかったが、しかしそれでも、赤旗とともになら、悪くないと思っていた。

「くだらなことね、わたくしにはわからないわ。みっともないと思わないのですか。たかが一人の、死すべき者に縋りつくなんて」

静かに語るトカゲを、見下すようにが告げる。おや、とトカゲは眉を跳ねさせた。先ほど、黒ひげを伴侶と選んだ、ような態度をとっていただったが、しかし、トカゲはティーチに己の悪意が届いたことで、結局のところは、この女は黒ひげティーチにすっかりほれ込んでいる、というわけではないことに気付いている。

本当に大切なのならば、魔女は愛した男に恩赦を与え、悪意から守る。自然系なのだから魔女への飢餓からも開放されるだろうに、見たところ、ティーチにはの恩赦が与えられていなかった。

「男を愛したことがないな。狂女」
「愛する意味があって?わたくしが知っている殿方は皆、女は褥に侍る奴隷だと思っている者か、それか、わたくしの大切な妹をたぶらかして攫い、見捨て、売り飛ばした男だけよ」
「何だ、狂女、お前男運ないんだなァ」
「お黙りなさい」

からかうように言えばピシャリ、と睨みつけられた。そういうことではないのだろう。トカゲは一度じっくりとパンドラ・。正真正銘、この世界でのもう一人の自分自身を眺める。まぁ、確かにきれいさっぱり同じデス☆というわけではないのだが、けれども、おそらくは、同じなのだ。

きっと、トカゲと同じように、王国の魔術師、お師匠様に拾われ、アマトリアを兄弟子とし、からかい倒し、時々本気で泣かれたり、同じように国王陛下を「我君」と平伏した。そして同じように王国の滅亡を経験しただろう、女。
それを考えれば、トカゲと同じように、この女も600年前は××に嫁いだのだろうか?それなら、まぁ、確かにそれなら「男運」はなさそうだ。本人が否定しても、トカゲとしては確定事項になる。

それはさておき、とトカゲは咳ばらいをして、ゆっくりと息を吐いた。

「赤旗のことを考える。今は笑っているのかと、それとも泣いているのかと。赤旗のことを考える。心がどこまでも、温かくなる。穏やかに、こんなおれでも、どこまでも、どこまでも優しくなれる。愛は、いいものだぞ、狂女」

自分がこんな言葉を人に語るような日が来るとは思いもよらなかったが、まぁ、いいだろう。トカゲは襟足を払い、リボルバーに指をかける。その銃口をパンドラに向けて悠然とほほ笑んだ。

「愛のない人生など、もうゴメンだな。赤旗なしで生きるくらいなら死んでやる」
「そういう盛大な告白はご本人にされては如何?」
「するさ。あぁ、わかり切っていることだが、言ってやろうとは思う」
「もう戻れないのに?」

ダゥン、とトカゲの悪意がの頭を狙い、さっと、はじき返された。

「ふ、ふふふ、戻れないと決まり切っていても、それでも、おれは戻るさ」

はじき返された悪意が、道を塞いでいた瓦礫を蓮の花弁と変える。ハラハラと舞う花びら、真っ白い美しい吹雪の中に、ズドン、と、毒の竜が現れとトカゲに向かってきた。




Fin