『ちょ、こういうことを普通にするキミが、どの口でそんなこと言った!!?』 『黙れ』
ぎゃあぎゃあと文句を言う、気の強い顔が懐かしい。
「戦場へ戻れ!」
部下を叱責する声そのままに怒鳴れば、一心不乱に走っていた海兵がびくり、と、反射的に身体を硬直させた。 そして、自分が駆け込んだ前方に、今やっと、誰がいるかを視認したようだ。
「た、大将赤犬…!!!」
背後からだれぞ追いかけてこぬかと、必死に必死に、何度も何度も振り返ったのだろう。人の叫び声や、仲間の断末魔とて聞こえたはずだ。それでも、誰か追いかけてこないかと、己の身の安全のみを願うゆえのその恐怖。引きつった顔、じっと見下ろして、サカズキは一度眼を伏せた。
戦場を逃げ出す、その心が一切理解できぬ、といわけではなかった。目の前で自分よりも強いだろう人間が次々と死んでいく。なぜ自分が生き残れているのか、明確な理由もわからぬその状況でどれほど正気を、正義を保てるだろうかと、そんなことは、サカズキにも、判ってはいた。だがしかし、海兵はそうではないだろうと、突きつけられるべきなのだ。 海軍本部の広場で、そうと誓ったのではないか。恐ろしければ、今すぐに逃げ出せと。その時は、弱いことは、罪にはならなかったはずだ。
しかし残った、そして、今日この場に存在している以上、海兵であればその務めを果たさなければならぬ。そうでなければ、何のために我々はあるというのだ。
「み、見逃してください……!!!」
焦りか恐怖か、それとも別の何かか、海兵が膝をつき、サカズキに懇願するように手を合わせた。その身体はガクガクと震えている。必死に走ったために全身からびっしょりと汗をかき、呼吸も乱れていた。
サカズキはこの海兵を知っている。五年ほど前に結婚した、地位は准将だという男。それならば当然パンドラへの謁見も済ませている、世界の戦力の一つに数えられるべき、海兵だった。今は妻の胎に二人目の子供がいると、そう話しているのを聞いたことがある。直接の部下ではないが、人懐っこい様子や、気遣いができる人間であるとクザンがの子守にどうかと薦めていた。それは当然却下したが。
「貴様は海兵じゃろう」
怯えてこちらを見上げる眼、ガタガタと歯を鳴らす様子にサカズキは呆れる。己が海兵らに恐れられていることは判っている。しかし、この状況で一番会いたくない人間だといわんばかりの反応は何なのか。
「か、家族を思うと、怖くなった、死にたくないんだ!!!」 「本当に家族を思うちょるんなら、なぜ逃げる」
一見は筋のあるようで、しかしサカズキからすれば呆れるしかない理由だ。己が大切な人に二度と会えぬかもしれぬ恐怖、そんなものがなんだというのか。
(自分が死ぬよりも、相手が死ぬことのほうが、怖ろしいじゃろうに)
なぜ、海兵でありながらわからぬのか。今日、この戦争の意味を、考えないのか。今日この場で、自分たちが負ければ今この世界にある道理が、正義が揺れる。ここで自分が逃げたために、生き延びた海賊らが、自分の家族に危害を加えることもありえるのだ。悪の可能性は根絶やしに、その原点は、その悪により、失われる命がないようにと、それが海軍の正義ではないのか。 行き過ぎた正義だ、とサカズキや、他の海兵の行動を責める声があることも、わかっている。
(自分がやらねば、別の誰かがやるだけだ)
この戦場、この、何が正義か問うような、この、場所で海賊と海兵、やらねばやられる、という方程式に例外はない。自分が殺さなければ、相対した人間とたとえ離れたとしても、誰かが殺す。赤犬は、別段自分が殉教者のつもりはなかった。ただ、自分は海兵だとわかりきっている事実の上で、そう、行動しているに過ぎない。
「生き恥を晒すな……!!!」
恐怖に慄く海兵を見下ろして、腕に力を込める。ごぼりっと腕がマグマに変化する。逃げようとするその頭を掴んで捕らえ、マグマに沈めた。
再び壁と壁に阻まれた小道に戻れば、壁に背を預け、膝を抱えてしゃがみ込んでいたが顔を上げながら問うて来た。逃げずにまだいたことに、どこかほっとしている己がいることをサカズキは無視せずに、どうしようもないことだと認める。そうしながらも、今でも自分が、この生き物を愛しているようにはどうしても思えない。
「なんぞ文句があるのか」
、と、そう呼ぶたびに白い瞼が神経質そうに動いた。今すぐに何もかも否定して叫びたいような、そんな顔を向けてくる。これで口付けされぬと思っているのだから、これは阿呆だといいたい。サカズキは自分がどういう生き物かをよくわかっているつもりで、だから、この自分にこんな、挑むような眼を、顔をしてくれば、押し倒したとしても文句を言わせるつもりはないのだ。
「あるよ。すごく、すごく、文句、ある」 「なんだ」 「あの海兵には、戦えって強く言ったのに、逃げるなって、言ったのに。どうしてぼくは、ダメなの」 「貴様は海兵ではあるまい」 「この戦いのことじゃ、ないよ」
が膝を真っ直ぐに伸ばして、ゆっくりと立ち上がった。長く伸びた髪、背、何もかもがすっかりと面変わりをしてしまい、まるで何もかもが夢だったような、そんな錯覚を世に撒き散らす。
深い海のようだった青い眼も、血のように赤かった髪も、ばら色の頬も、いまはない。 冬の泉のような瞳、夕暮れの色をした髪、白粉を塗る必要もない白い頬。それでもサカズキはしっかりと、を見下ろした。
何も言わずただ己を見上げるの髪を一房掴み、眉を寄せる。
「わしは短い方が好みじゃァ」 「絶対切らない!」
間髪いれずに叫ばれる。くつくつと喉の奥で笑いそうになりながら、ゆっくりその頬に手を添えた。
「そうじゃァ、おどれはかつて生き残った。無様に、己を守ろうとしてくれた何もかもが死に絶えたのに、生き残ってしもうた。その苦しみを、恥を知っている。だから、今死ぬとそう言うつもりか?」 「キミに何もかもを告げる必要、あるの?」 「わしは貴様の夫になる男だというちょるじゃろうに。隠し事を許すと思うちょるんか」 「これっぽっちも」
にこり、とが微笑む。腹立たしいほどの愛らしい笑顔ではあるが、サカズキは気に入らなかった。この自分に、その他大勢に向けるような仮面性の高い顔を向けるとは。眉を軽く動かせば、が眼を細める。それでトン、とその身を寄せてきた。
どうせ何か企んでいるのだろうとは思いつつも、胸に飛び込んでくるその身体を抱き返す。薔薇の香りに混じった、僅かな血と、死臭。それらが鼻に届くと同時に、全身に激痛が走った。
「……貴様」
サカズキは顔を顰めて、腕の中のを睨みつける。顔を上げぬまま、はサカズキの胸に顔を埋めてゆっくりと息を吐いた。
「回収しておこうと思ってね。君がを縛り付けるために得た薔薇を。あれはもともとキミのものじゃない。かなり痛いだろうけれど、それはほら、このぼくを殴ってきたんだから、しょうがなくない?」
ずるずると、神経を直接包丁で刻まれるような痛み。呻くような醜態をけして晒すものかと歯を食いしばれば、その耐える姿をじぃっとの青い眼が見つめた。
「キミがどう開き直っても、何もかわらないんだよ。バカだねぇ、きみは」
その小さな声に、何か反論しようと口を開くのに、一瞬意識が飛んだ。瞼に、のその顔が焼きつく。何の感情も浮かばぬ顔をしているくせに、サカズキには見えた。自分の胸に手を置く、その左手の小指がほんの僅かに、震えている。
(この、大ばか者が)
がくっ、と膝を突きかけ、目の前が真っ暗になる。強制的に、身のうちに得ていた冬の薔薇の刻印が引きずり出される妙な心地。呻くこともせずなんとか耐えて、この二十年以上己の中にあったものが、あっさりと失われたことを感じた。
奥歯をかみ締めて、ぐっと顔を上げる。
「……」
そこにの姿はもうなかった。
「サカズキ大将!!作戦の準備が整いました!!!!」
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