562話 49号03話 「大渦雲スクアード」
新たな三大将選定後の式典は形どおりのつまらぬものだった。それでも元帥となったセンゴクの最初の仕事であり、元帥としての手腕のお披露目会のようなもの、失敗は許されない、だから絶対に何もするなと言い含められ、は華やかな立食パーティの会場から逃れテラスへ出ていた。
今日は海軍本部、海兵らの中では随分と特別な日だった。長く空席のあった3人定員の大将の地位が全て埋まったのだ。センゴクが大将だった時代は、かたくなに昇進を断ってきたガープのおかげで3大将、というものにはなれなかった。だが、今は違う。
「黄猿、青雉、それに赤犬。なんて、似合わないよ」
「そう?ぴったりだと思うけどね。能力的にさ」
ぽつり、とつぶやくの耳に、やる気があるのかないのかわからぬ、のんびりとした声がかかった。はっとしてが振り返れば、本日の主役の一人であるクザン中将、いや、今日から大将青雉、となったクザンが立っていた。慣れぬ堅苦しい正装は居心地が悪そうだが、鍛え上げられた長身には実際のところよく似合っていた。
「クザンくん」
「いい加減お偉いさんたちの相手が疲れちゃってね。あーゆーのはサカズキに任しとけばいいでしょ」
「今はクザンくんもお偉いさんだよ」
「一個しか階級変わってねぇのにな」
なんだかな、とクザンが肩を竦めた。中将と大将では、言葉の上では一つしか階級は違わぬけれど、その責任や義務、それに与えられる特権は天地ほどの差がある。
「もう押しつぶされそうなのかい?」
はからかうように目を細めて言い、小首を傾げた。もともとクザンは誰かの下で働いた方が真価を発揮できるタイプだった。ガープのもとに配属されたことは彼にとって幸運だったのだろう。そしてこれから先ずっと、そうであると思っていたに違いない。言い意味でも悪い意味でも、クザンとガープはお互いに似通っているところがあるのだ。クザンはガープがいれば海軍の正義に戸惑うこともなかったのだろう。大将の上には元帥がいる、とはいえ、中将の時のような「上官」という意識は持てまい。これまであった天井が唐突になくなり、空気が溢れる屋外に出されるような、そんな、孤独でもないが、妙な喪失感がある。
「そう見える?」
クザンはの隣に立って、手に持っていたノンアルコールのカクテルをに渡した。礼を言っては受け取って口を付ける。
「怖がっていないようには、欠片も見えないね」
「容赦ねぇな。ちゃん」
くしゃりと、クザンはの頭を撫でた。今宵も装いは純白のミニドレスに、薔薇のコサージュである。頭を撫でればクザンの大きな手はそのまま髪飾りも握る。紙で出来ているから壊れるかも、と思えば、意外にもクザンはしっかり、壊れ物の扱いを心得ているようで、何事もなかった。
はじっとクザンの横顔を見つめてから、ぽつり、と、つぶやく。
「君は断ると思っていたよ」
夜風が冷たくなってきた。はショールの前を合わせなおして、位置を変える。クザンは紳士としての礼儀をわきまえているか風上に立ってくれていたが、それは普通の人間の場合の礼儀だろう。氷の体のクザンなら、風下に立って冷気を送らぬようにするべきだ。反対側に移動したにクザンは苦笑して、自分の海兵のコートをかけた。
「おや、気遣いはいらないのに」
「ちゃんに風邪引かせたらおれがサカズキに溶かされるでしょ」
「そう思うなら、持って来るべきなのはカクテルじゃなくて紅茶だったね」
「ちゃん、本当に容赦ねぇな…」
がっくりと落ち込むクザンにはころころと喉を鳴らして笑う。別段、この場に相応しい振る舞いは難しいことではないが、クザン相手にそんな面倒なまねをすることもなかろう。なりの親愛ゆえのこと、それをクザンもわかっているので言葉の上の戯れであった。
クザンはひとしきり己も笑った後、から視線を外す。
「おれが、逃げるって思ってたってこと?」
「断ると、思っていたんだよ」
意味合いが違うとは念を押したが、結局は同じことだったかもしれない。
今ではもう誰も口にしなくなった、サウロという巨人の海兵のことをは考える。オハラに向けられたバスターコールのことを、ゆっくりとは思い出す。あんなことがあったから、てっきりクザンは大将にはならないと思っていた。正義への疑問、ではない。それよりももっと、自分の中にあるだろう罪悪感ゆえに、そうはならないだろうと、は思っていた。
口に出さずともわかっているだろうクザンは一度目を伏せてから、俯く。はその顔を覗き込むような底意地の悪いことはしなかった。
クザンはじっくり5分ほど沈黙していた。その間は言葉を急かすようなことはせず、ただ夜空に浮かぶ星の数を数えてすごす。少し離れたところでは海兵たちのにぎわう声に、今日のために呼ばれた楽曲団がすばらしい演奏をしていた。特にチェロの音がいい。も指揮者や奏者たちに挨拶をしたが、特にチェロの演奏者は最年少だというのに、人一倍技量が優れていた。難を言えば、あの若さですでにあれだけの演奏が出来てしまっていることだが、それは彼を育てる師が何とかするだろう。また聴いてみたい、と素直に告げたに顔を赤くした奏者の顔を思い出しは小さく笑う。そうして、それではあの青年のその後でも占おうかと星を数える。
「上手くいえないんだけどさ」
「なぁに?」
はあっさりと思考を換えてクザンの言葉に意識を向けた。気の毒なことに、ここで魔女の占い、助言でも受けられれば現在天才的な奏者と呼ばれている青年、その後、才能の行き詰まりに悩み挫折することなく後世に名を残せたかもしれないが、それはそれ、には関係も興味もないことである。そんな話はさておいて、はじぃっとクザンを見上げた。
「なんつうか、さ。ここでおれが、あのことを気にして進まなかったら、さ。したことを、後悔してるってことになっちまうんじゃねぇかって」
何のことか、など問わずともにはわかる。オハラにてクザンの行ったこと。気付いている者もそれなりにいないわけではないが、表向きにはクザンには何の関わりもないこと、とされていること。あの行為は海兵ならばしてはならぬことだった。
クザンはサウロを殺した。絶対的正義のために殺した。親友を手にかけた。学者たちへの殺戮をクザンは正義のためと飲み込み、そしてそれを妨げるのならと己の、たった一人の親友をもその手にかけた。それだというのに、クザンは、そこまでして正義を貫いたはずのクザンは、オハラがそもそも攻撃されるにいたった理由、歴史の本文を読むことの出来る学者を、自らの手で逃がした。たった一人きりでも逃がせば、全ての犠牲が無駄になる。そう言ったサカズキの言葉をは思い出す。
「怖いの?」
容赦ないね、ちゃん、と三度目になる言葉を言われた。は青い目をじっと向ける。ゆっくりと三十秒は数えるに足るほどの間を空けて、クザンが突然、を抱きしめた。
「おれがおれの正義を諦めたら、おれがサウロを殺した理由が、なくなる」
はぶるっと体を奮わせた。言葉にではない。クザンの体は冷たかった。息を吸えば肺まで凍りつかされそうだ。本心を暴いたのはこちらなのだから多少なりとも抱き返すなりなんなりとで優しくしてやるべきなのかと思う。やる、と恩着せがましい思考。おや、まぁ、とは目を見開いて、それで、ぽんぽん、とクザンの頭を叩いた。
そうするとクザンがはっとして、困ったような顔をし、離れた。
「、」
「大将青雉閣下」
何か言おうとする、その言葉を遮ってはドレスの裾を軽く摘み広げて、片足を引く。
「ようこそ、この世の正義の製造場所へ」
ほら、あの子が泣いている
「さすがにそろそろ、うっとうしくなってきてしまったんだ」
結界を崩壊させて、は体の奮えを隠すべくぎゅっと掌を握り締め、目を伏せる。本心でもないことを言うのは、やはり好きではない。一言告げるたびに、体中がその言葉を拒絶した。それでもはまっすぐに、ピアとキキョウを見つめる。
シェイク・S・ピアの推察の真偽など、そんなことはには関係なかった。いや、確かにピアが言うとおり詩篇というもの、そして詩人のその価値を正確に判じてみればそのような仮定を出せぬわけでもないだろう。だが、それは今は己の考えるべきことではない。
はぼたぼたと眼球から流れる房水を乱暴に腕で拭い、髪を払う。
「姉さんを殺すとか、殺されるとかそういうのも面倒くさいねぇ。ふふ、ふ、ぼくは悲劇のヒロインかい?バカらしい!」
嘘をつけ。そんなこと、少しも思っていないのに。今とて、流れ落ちる砂時計の、さらさらと容赦のない幻聴が頭の中にこだまする。いいわけがない。ここで、何もかもを「どうでもいい」だなんて、そんなことをいえるはずがない。
これまで自分がしたことや、何もかもを、そんな言葉で片付けていいはずはなかった。そんなことはわかっている。それでも、ぎゅっと、は震える体を押さえつけるように、唇を噛んだ。
『なぜまだこの戦場にいるのか』そうトカゲに揶揄られるまでもなく、本心ではわかっていた。本当にパンドラの殺害だけを目的とするのなら、もうここにいるべきではなかった。それなのに、まだ自分はここにいた。エースを殺せないとわかってしまった以上、こんな戦場にいるべきではなかったのだ。それでもいた、その心、その、自覚。トカゲは意地悪だと、そう強がってはみたものの、もう、わかってしまっていた。しかし、その理由を受け入れることはまだできず、それでバギーに出会い、そして。
『何派手にふざけたことぬかしてんだテメェ!!!か、海軍にいただと!!?お前が…!?お、おれぁてっきりお前は、赤髪のところにいると……!ふ、ふざけんなよ!!!なんで、なんだってお前が、お前が!!!船長を殺した海軍のところにいるんだよ!!!』
バギーの言葉を思い出す。その途端、は本当に何もかもを自覚してしまった。
「何があろうと、何をしようと、ぼくはサカズキが好きなんだよ」
バカみたいな話ではないか。
ロジャーを殺したのに、酷いことしか、しないのに。
どう考えたって、自分には不利になることしかしてくれないのに、それでも、自分は、それでもまだ、サカズキを思う心があった。
何よりもの始め、何もかもの記憶を取り戻さなければならなくなった原点は、が「サカズキがこの戦争で死んでしまうかもしれない」というその恐怖と、そして「サカズキがすき」という、自覚だ。リリスとしての心が大きくなって、それで消えてしまうものだと思っていた。ロジャーがエースという子供を残したことで、サカズキがした誓いは無効になったと、そう思った。
それでも。それでもは今この戦場から出ることが出来ず、そしておつるに言われるまでもなく、の弓は海賊だけに向いていた。
本来魔女というのは、どちらがどちら、という戦いに関与してはならない。単独で生きることこそが魔女の誉れ、独立した意思の確定。だがしかし、は「サカズキを敵だと思っている何もかも」と敵対した。その決意はじんわりとの心に毒のようにしみこんだ。それゆえに、は魔女としての力を失った。それだけだ。
「ぼくはだ。それだけでいい」
きっぱりと宣言して、はピアとキキョウに対峙する。
「ふふ、よりにもよってこのぼくを人質に、だなんて身の程知らずだねぇ」
インペルダウンから戻ってきてからの自分の、あまりの「らしくなささ」にはただあきれる、というようにため息を吐く。ぼたぼたと切り落とされた腕の切断面に当たるところからは今も血が流れていた。思い込み効果で腕がある存在率を上げてはいるものの、それでも止血は間に合っていない。
「センゴクくんにも小馬鹿にされたし、ふふ、いい加減ぼくもね、いつまでも悲劇のヒロインポジションは我慢ならないんだ」
つらつらといいながら、は残った腕でノアの剣を握り締めた。先ほど人質に取られているときにセンゴクに向けられた目を絶対には忘れない。無様とか言いやがってあの野郎…!!と心の底からはらわたが煮えくり返す。
「そんなの却下だよ。このぼくが、人に馬鹿にされて取引の材料にされる。許せるかい?ふ、ふふふ、守られる姫君、そんなのは自尊心のない小娘がやっていればいいのさ」
パンドラのこと、リリスのこと、そして王国のこと、敵対した連合国のこと。考えなければならないことはさまざまあった。放って置いてはいるものの、あの黒だるまのことだって、はまるで無関係、というわけではない。やらなければならないこと、義務はあった。だがしかし、そのためにこの自分が品を落とすというのは如何なものか。
「ひ、開き直るな!!!あの男に毒されたか!!?」
一瞬怯んだものの、堂々としたそのにキキョウが顔を真っ赤にして怒鳴った。先ほどのサカズキの開き直った攻撃のときもそうだったが、この娘はイレギュラーな展開に弱い。
はキキョウがさっさと自分の首を落とさなかったことを馬鹿とは思わなかった。そもそも、この娘はこういう子なのだ。この戦争に登場してからは必死に、カッサンドラの名に相応しい狂気を孕んだ魔女であろうとしていたが、それでもこの子はもともと家族思いな子だった。当然だ。捨てられ海の供物となっていた、その身を広い、受け入れて家族であると言ってくれた彼ら。
「君は自分の復讐を果たすより、家族を助ける方を選んだんだね。キキョウ」
「…!!馬鹿にするのか!!!」
微笑んで告げるに、キキョウが吼える。上手く空中でバランスを取り、に向けて蹴り上げる。足に刃物を仕組んでいれば、それはそれだけで凶器となった。ギン、とは鞘でそれを受け、繰り出される腕にくくりつけられた剣での一撃を弾き返す。それで怯むキキョウではない。筋力の差で一歩が後退した隙を逃さず、返す刀でわき腹を狙った。
「…!!」
しかしそれすらもは回避し、靴のかかとでキキョウのみぞおちを蹴り飛ばした。
「戦いの基本は感情を抑えることだよ。怒りは判断力を失わせ、憎悪は攻撃力を乱暴に上げる代わりに速度を捨てる」
甲高く金属音が響いた。キキョウは左腕につけた刃が折られたことに一瞬気付かぬようだったが、判じてから一度ぎりっと歯を食いしばった。
「ほざけ…!!お前に戦いの何がわかる!!大将に、男に守られるだけだったお前に、戦うわたしたち女の苦しみがわかるものか!!!」
「君は馬鹿かい?キキョウ」
何をこの娘は言い出すのか、とは霜の下りた目を向ける。
「不幸自慢ならよそでおやり」
何を、バカな小娘の発言、とは呆れる。
はキキョウの半生を知っている。しかし、あんな程度で苦しみというこの娘の手前勝手さ、ただただ呆れるばかりだ。
第一、そんなこと自分には関係ない。
認めてしまったのだ。
サカズキが好き。
どうしようもないくらいに、自分はサカズキが好きだ。
サカズキがロジャーを殺した海軍の人間でも、エースがロジャーの息子だという事実を自分に教えなかったことがあっても、この戦争で、何をしようと、それでもはサカズキが好きだ。
そう思い、自覚し、ある意味の開き直りがあれば、はもうほとんどのことが恐ろしくは無かった。
そうして、は黙認しているピアに視線を向ける。彼女が何を考えているのか、これまではわからなかった。手を組んだはずの白ひげをあっさり裏切り、そしてボルサリーノの味方であるといいながら、今こうしてこの自分に挑むその原点。意味がわからなかった。いや、まぁ、ピアに道理を説くだけ時間の無駄ではあるのだが、しかし、その、欠片がほんの一瞬だけ見えたような、そんな気がした。
「ピアくんは夢を終わらせたいんだね」
あきれたように呟き、はため息を吐いた。簡単なことだ。この世界は、少なくとも、「この」世界は、井戸の中で死んだ双子が夢をみたことから始まった。真理に近いことなどはあまり興味はないが、つまりはそういうことなのだろう。「この」世界の原点となったものがあり、双子の夢がそれに重なった。そうしてできた「この」世界をピアは嫌悪している。
かなり理不尽な話だが、それならばこそ、この世界にある悲しみや苦しみ、悪というのは、双子が夢を見ているからだ。双子が夢を見なければこの世界は存在せず、誰も苦しむことがなかった。原点の世界では、双子が存在していない。それゆえに、双子が見た夢による「悪意」の犠牲者はいなかったと、そういうことだ。
詩人や魔女が存在しなければ、シェイク・S・ピアと、そしてボルサリーノが苦しむことはなかった、と、そういうことだろう。いや、本心を突き詰めればそうなるが、当人にはさまざまな葛藤があったのだろう。
そんなこと、には関係ないが。
爆音が戦場に響いた。が自由になったことで、作戦は続行さたらしい。パシフィスタがずらりとならび、はてさて一斉攻撃とそういう展開だ。爆音、爆音、業火、は足を踏ん張り、一度センゴクを見上げた。ここにいたら、自分まで確実に巻き込まれる。それはわかっていた。睨めばセンゴクは「その程度で死ぬのか」とそんな目を向けてくる。いい度胸だ。明らかに挑発されている気はしたが、この自分が、この程度の状況で騒ぐ醜態など晒す気もない。
ぐっと、は体を低く構えて、ノアの剣を自分の体に、正確にはドフラミンゴに刺された背、貫通した胸につき立てた。
「な!!?」
「ねぇ、キキョウくん。たった一人で戦った、この世で最も悲しい生き物のその様を、見せてあげようか」
突然の行動に声をなくすキキョウを見上げて、は小さく呟く。不幸自慢大会、というわけでもない。だが、キキョウが、あんな程度の不幸でそれをこの世の地獄と、そのように言うことがには気に入らなかった。
自分のこと、ではない。は知っている。たった一人で孤独に耐え、千の苦しみの上に生きてきた、白髪の優しい少女のこと。
「共犯者に選ばれるに相応しい、ノアの身体の真価を見せて上げるよ」
剣を抜けばボダボダッ、と地面に血が流れ落ちる。キキョウの顔が歪んだ。何をするのか、と青ざめる彼女とは裏腹に、ピアは警戒するようにから離れた。
はごほり、と口からもどす黒い血を吐く。ねっちょりとした小さな塊が泥に混じって幾つか出てきたが、用があるのはそんなものではない。
「離れた方がいいですよ、キキョウ。それ、私やあなたじゃもう手に負えませんって」
状況がなんとなくはわかっているらしい、ピアが若干緊張した、それでも普段通りの口調で呟く。キキョウがその声を耳に拾い、そして理解する前に、はキキョウの身体に突進した。
「そろそろ退場おしよ、カッサンドラの魔女」
「!!!!」
+++
煌く刀身は白銀、柄は銀細工にダイヤがあしらわれた、華やいだ色のない細い剣だった。
キキョウはその剣が己の身体、腹を薙ぎ払う寸前にそれだけ視認して、そしてそのまま海まで蹴り飛ばされた。あのの細腕にどうしてこれほどの力が、と思いかけて彼女は気付く。
(そうか、ノア、あれは魚人との混血。魚人の腕力は人間の倍以上、だった)
呼吸する肺までやられた。キキョウはその身体を海の底へと沈めていく。
+++
「随分とあっけないものですよね。あれだけあなたへの憎悪があったというのに、それでも最後に彼女の鎌はあなたへは届かなかった」
蹴り飛ばされたキキョウをぼんやり、と眺めてピアは退屈そうに呟いた。それを見てはふん、と鼻を鳴らし、血のついた刀を払う。
「あんまり驚かないんだね」
「まぁ、ノアが剣の帝、だなんて言われていた事からその身に刀を隠していたくらいの予想はありましたよ」
の手は赤く血で濡れていた。何のことはない。ノア、ノア、あの混血の少女、剣の帝という地位にある生き物は代々その身体に白銀の騎士、800年前に「魔女」とさえ呼ばれた騎士の剣を隠してきた。ピアの言葉には満足そうに頷く。
「そうだよ。魚人の腕力、それにこの剣の存在こそがノアの身体の価値さ」
「血による継承。その全てを血液に変えて体内へ隠し続けてきたんですね。どんな呪われた剣です?」
興味深そうにピアはの剣を眺める。どう見ても、魔剣の類ではない。魔力、そして妖力も含まぬただの剣、のように思えた。しかしあの白牙の魔女が使った剣だ。その剣は戦場を矢のように駆け歯向かう敵を容赦なく殺しつくしたという。
探るような視線には肩を竦める。
「ただの剣だよ。きみは馬鹿かい?炎が出る剣だとか、斬ったものが黄金になるとか、そんなの手品だ。これはただの剣、斬ることくらいしかできない、鉄を引き伸ばした棒状のものだよ」
身もふたもない言い方である。ピアはそれは事実なのだろうと素直に受け入れた。たんとが地を蹴る。かき消えるほどの素早さだった。細剣は刀、長剣、洋刀などとは扱いがまるで違い、その攻撃は「点」こそが主体である。風を斬る音すらなく、の剣がピアの首を狙った。
「!!!」
ピアは素早く転移の詩篇を使い、から距離を取る。一行詩ではあまり離れられるわけではないが、それでもほんの一瞬逃れることはできた。
それを許すではなく、すぐに追撃し、ピアの肩を突き刺す。
「……っ、わたし、接近戦は苦手なんですけどね」
「それをぼくが顧みる理由はないね」
「まぁ、そうですよね」
言ったものの戯言以外の意味もなかった。ピアは頷き、手に持った鞭を振ってを弾いた。
「さすがです。リリシャーロ(白牙の魔女)の名は伊達ではありませんね」
「呼称なんてどうだっていいんだよ。さっさと殺されなよ」
「聞かせてくれませんか?リリスの武器は弓のはず。それがなぜ剣を扱えるんです、あなた」
の目が苛立たしげにぴくん、と端を震わせる。当人の中で、もう昔のことがどうだとか、そういうことはどうだってよくなっている、というふうに見える。記憶の混濁、継承のうんたらかんたら、などと面倒くさいことをもう考える気はないのだろう。
「いいんですか?己の解明は真理の解明でしょう?」
「過去『自分が何のために生まれたか』とか『自分は何者か』とか解明しようとした文学士やら何やらはこぞって自殺する末路だったねぇ」
「あなたもう死んでるじゃないですか」
「謎は自分でお解き。ぼくに聞く、なんて楽をするんじゃあない」
それでも流石にそれはカンに触ったのか、はピアを追撃してそのまま足を切る。逃れるほんの一瞬があったため、足を切断されることことこそなかったが、それでも太ももが切り裂かれた。ピアは顔を顰め、さらにから離れる。
「逃げるのかい?シェイク・S・ピア」
「ご冗談を。今こそがあなたへの報復の時じゃないですか」
ピアは鞭をぴしりと軋ませて目を細めた。こうも力の差が明らかなのに、それでもまるで引かぬその様子に、は眉を跳ねさせて剣を構えなおした。
「ぼくね、気になってたんだ。荒野の魔女という君は、その力があるはずだけど、今のところぼくが見たことあるのは詩篇を使っているところだけだね」
「見せてあげましょうか?」
「有料かい?」
にこり、とピアは笑顔を向けてピシャン、と鞭をしならせた。
「御代はあなたの命で結構ですよ」
++
がほっ、とキキョウは海水を吐き出した。
体内に入り込んだ海水は容赦なく身を苛む。全身がガタガタと震え、キキョウは身体を抱きしめる。沈んだこの身体はあとはただ海に消える筈だ。に敗北し、魔女の争いにも負けた己は、海に飲まれるはずだった。それが魔女の末路だ。死体も残さぬ、骨も何もかもが海へ捧げられるもの。
それをキキョウは覚悟していた。
どうなったところで、構わぬと、を殺せるのなら、それでいいと、そう覚悟をしていたはずだ。
(それなのに、私は)
沈みゆく中に、さまざまなことを思い出した。初めて自分を「大切」だと言ってくれた家族のことを思い出した。
(私は魔女にはなれない)
(私は、魔女のようにはなれない)
非道だけならできる。なりふり構わず、人を殺すことだって、出来る。けれど魔女はそんな程度ではないのだ。魔女は、違う。その恐ろしさをキキョウはよく知っていた。魔女は、魔女が何を思うことが「恐ろしい」ことかは知っている。だがそれを理解できる魔女は少なかった。などその最たる例だろう。だがキキョウはそうではなかった。
キキョウは海に沈みながら涙を流す。
魔女になるということは、この世の何もかもから敵でも味方でもなくなるということだ。何があろうと、心を乱さない。何があろうと、己の「本質」を貫かねばならぬことだ。
自分であり続けることは、尊いことではない。自分を選ぶということは、他を選ばないということだ。
そんなことは、キキョウにはできなかった。
いや、できると思っていた。
を殺すためなら、できると思っていた。
エースが捕らえられた時、キキョウは「大丈夫」だと思った。白ひげがいるのだ。絶対に、大丈夫だとキキョウは信じた。あの人は絶対に、エースを助けてくれる。何も心配することはないと。
だから、自分ひとりが私情に走っても問題はないと思っていた。
それなのに、目の前でオーズが倒され、そして、地獄のような戦場ばかりが広がっていく。その中でキキョウは恐怖したのだ。
白ひげが強いことなど、わかりきっていることだ。
それでも、もし?
もしも、エースが殺されてしまったら。
エースがロジャーの息子であるというその事実を、別段キキョウは驚きはしなかった。誰の実の子であろうとなんだろうと、そんなこと、白ひげ海賊団の中では意味のないことだと、そう思った。
だが、それは自分の考え。もしも、そうではなかったら?
キキョウは、人の心があっさりと崩壊する、その様子を幼い頃に突きつけられ続けてきた。だからこそ、恐怖したのだ。
もしも、エースの味方がいなくなってしまったらどうなるのだ。
その恐怖、エースが死ぬこと、ではない、エースが一人ぼっちになることがキキョウには恐ろしかった。だから、そんな結末、あるいは可能性が出る前に、もし、もしも、自分がエースを救えるのなら。
そう、思ってしまった。
「ばかみたい、わたし」
げほごほ、と咽て海水を吐き出してから、キキョウはそっと息を吐く。誰かが海から自分を引き上げてくれたのだ、ということはすぐにわかった。まだ「眼」は戻らぬが、心当たりをつけ、そして若干の期待を込めながらキキョウは名前を呼ぶ。
「マルコ隊長…?」
「悪いな。おれで」
「スクアード船長」
あからさまにキキョウの声は沈んだが、しかし、それも無礼というものだ。能力者ではないから安全、とはいえ、この氷の浮かぶ海の中に身を沈ませて自分を助けてくれたことに変わりはない。キキョウは慌てて謝罪してから、丁寧に礼を言う。
「いえ、ありがとうございます。おかげで溶けずに済みました」
「……」
冗談ではなく本気で言ったためか、スクアードからは何の反応もなかった。おや?とキキョウは眉を跳ねさせる。彼は白ひげ海賊団、ではないけれど、白ひげの傘下の海賊だ。キキョウもそれなりに付き合いがあり、大きな宴会のおりには必ず出席していたので、彼は気さくなところがあると知っている。
それでもこの戦場であるから、気を引き締めているのかとそう思えば、スクアードが一度ガンッ、と拳を地面に叩きつける音がした。
「スクアード船長?」
「ぼろぼろじゃねぇか。もう、眼だって見えてねぇんだろ。キキョウ」
言われてキキョウは、そういえば自分は眼を抉られたのだったということを今更ながらに思い出す。ピアと離れた以上詩篇による痛み止めもないはずだが、海水につかったために神経が麻痺していた。今の所は激痛に苦しむこともない。
「元々眼は見えてなかったですよ」
「ひでぇありさまだ。お前まで傷つくことなんかなかった」
え、わたし口説かれてるのか、などと寝ぼけたことを思うキキョウ、ではない。スクアードの声は何か、苦しみとそして悲しみの入り混じった葛藤に襲われていた。
「スクアード船長、何を言っているんです?魔女としてわたしが戦った結果でしょう。なぜ、」
「こんなのは全て茶番なんだ」
今この状況で最も相応しくない単語に、思わずキキョウは身を起こす。眼が見えぬのは不便だが、しかし、なぜか今、スクアードの顔をしっかりと見ておかねばならぬような気がして、キキョウは意識を集中させた。
今にも泣き出しそうな、しかし、船長としての決意をしようとしている、そんな妙な顔をしているスクアードがキキョウの視界に入った。
「誰も死ぬ必要なんかなかった。それなのに、俺たちは踊らされたんだ」
その声には、敵意と憎悪があった。誰に向けられる感情なのかキキョウはわからない。しかし、海軍に、ではないことは判った。それならもう残っているものは限られている。それを暴くことがキキョウには恐ろしかった。それでも、何を、言っているのだと掠れる喉で問おうとして、キキョウは目を見開く。カッサンドラの魔女の目が、真っ直ぐに見開かれた。
「……スクアード船長、あなた、まさか」
「お前はここにいろ、キキョウ。後ろは地獄だ。ここなら、まだ安全だ。おれはオヤジのところへ行ってくる」
「スクアード!!!!」
キキョウを残し、立ち上がって去るその足を掴んで止めようとして、キキョウはもう自分の腕もないことに気付いた。
「思い通りになんかさせるか。おれの仲間はおれが守る」
低く呟くその声、去る、去っていくその声、キキョウは力の限り喉を震わせて叫んだが、しかし、それは爆音にかき消された。
Fin
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