知らぬ間に、転寝をしてしまったらしい。不覚だと眉を寄せながら、ドフラミンゴはの悲鳴で眼を覚ましたことに舌打ちをする。どういう気まぐれかは知らぬが、ここ一ヶ月ほど、がドフラミンゴの屋敷に滞在している。それは両手を広げて大歓迎(事実そうしたら蹴りを入れられた)するところなのだが、が来るとドフラミンゴは殆ど眠らない。眠らない、というわけでもない。眠れない、というほうが正しい。
「ぅ、ああ!!!!!ぁああああ!!!!」
「おい!おい…!!!」
同じベッドの、中央を陣取って、少し前まではすやすやと寝息を立てていた。今は額に汗をかき、息を乱している。眼は焦点が定まらず、とめどなく溢れる涙。当たり構わず、わめきちらすその様子。普段の、いかなる事態があったとしても平然と薄くからかいを含んだような笑みを浮かべるだけの彼女からは想像も出来ぬ有様。いっそ見苦しい、とさえいえるだろうその醜態。起きてが知ればさぞ自尊心を傷つけられるだろうとわかるから、ドフラミンゴは朝の光を受けて輝くの顔を見ても何も言わぬ。
「いやぁあああ!!!!あ、ああ、あああああ!!!!」
絹を裂く、というよりは、のどから溢れるその、悲しみの深い音。ドフラミンゴは暴れるの肩を抑えて、名前を呼んだ。
にとって、いや、魔女にとって睡眠は何の癒しにもならぬのだと、そう鷹の目が言っていた。人の常識を遥かに超える長い歳月を生きた生き物。その一秒一秒の思い出がその身を苦しめるのだと、そう聞いた。たとえば、大切な人との楽しい思い出であったとしても、それが夢だと突きつけられる現実がわかれば、それはただの悪夢にしかならぬのだ。
いや、普段であれば、はその程度の悪夢には耐えられる。歯を食いしばり、少しだけ叫ぶことで耐えてきた。しかし、ここ最近の、この、一ヶ月ばかりはこれまでとは様子が違う。
「あ、ああ、ああ、あ!!!」
声にも言葉にもならぬ、喉が掠れて、それでもまだ叫ぶことを止めぬ。の頭を抱き、身体の震えを押さえ込むようにぎゅっと腕に抱きしめて、ドフラミンゴは何度も何度もの名を呼ぶ。
ここ最近、ドフラミンゴは全く眠っていなかった。放っておく、ということもできるし、誰か人をつけることも、できる。だがそうはしなかった。はけしてドフラミンゴを頼っているわけではない。しかし、何か、普段とは違う、何かしらの、ことが起きているらしい現在、ドフラミンゴのいる場所から離れないでいる。そのことがドフラミンゴにはたまらなかった。いつもいつも手を伸ばしてもするりと抜け出すその姿が、こんなにも近くにある。
少しくらい眠れないからどうなのだ。人間死んだら棺おけで好きなだけ眠ることになる。
「、おい、いいのか?お前、今俺に抱かれてんだぜ?いいのか」
大きく見開かれた瞳、後から後からとめどなく溢れる涙を際限なく拭い、ドフラミンゴはからかうように問いかける。意識は、ないのだろう。その眼にドフラミンゴは映っていない。熱に浮かされた病人のように朦朧としながら、何か昔の記憶を呼び起こしているのだろう。ドフラミンゴは何度も何度も、の頭を撫でた。この自分がそんな冗談のような!とせせら笑えたのはいつだろうか。今では、そうせぬでいられる己など、それこそ冗談のような!と笑いたくなる。
「嫌だ…お願い、止めて……姉さん、お願い…いや、嫌だ……!!!!」
ドフラミンゴの声など聞こえない。何も届かぬ、は意味のない言葉を叫び、必死に頭を振る。どん、どん、とまるで壁を叩き壊そうとでもするように、ドフラミンゴの胸を叩いた。の力程度、ドフラミンゴにはどうということもない。むしろ、あまり叩きすぎての手が痛くはならないだろうかと、それが気がかりだ。の叫び声がすすり泣きにかわる。聞いているこちらが、胸を抉られるほどに、悲痛な声だ。
一体、何の夢を見ているのか。ドフラミンゴには見当もつかない。鷹の目ならわかるのか、いや、それよりも、あの、気に食わぬ大将殿であれば、なぜ、どうして、なんで、と、ドフラミンゴが日々必死に考えているの謎も、あっさり、わかってしまっているのだろう。
ぎりっと、奥歯を噛み、腕の中のの額に口付けた。それくらいはしても許されていいだろうと、そういう心。に対して、ドフラミンゴは随分と紳士的だと、クロコダイルに皮肉られたことがある。押し倒せば、あっさりは身体を開くだろう。そういう、約束がされている。本人の意思ではなくて、世界政府が、あの五人の老人が、ドフラミンゴにそう約束をした。だが、ドフラミンゴはこれまで一度だって、にその権利を行使したことはないし、するつもりもない。そんなことをして、どうなるか、それがわからぬわけでもない。
すすり泣くの声が段々と収まってきた、ドフラミンゴの胸を叩く手も、今はだらり、と横にあるだけとなっている。
「………どうして、誰も、助けて、くれないの」
ぽつり、と小さな声。
ドフラミンゴは眼を見開いて、長い前髪に隠れたの顔を除きこんだ。
ゆっくりとキミの声を思い出す
「っつーわけだ。協力しろよ、レルヴェ・サリュー」
「申し訳ありませんが、何がどう、そういうわけなのかまるで理解できません」
突然それだけ言われて何を理解できるというのか。しかも「しろ」と強制。何なのだと聞きたいこの状況。
額を押さえたいが、生憎縄で縛られているためそうもできぬ、という微妙な表情を浮かべたレルヴェ・サリュー。とりあえずはため息を吐いていろんな感情をやり過ごし、ぽつり、と突っ込みを入れてみた。
相手は七武海の一角、本来なら己がこのように気安く言葉を吐くには、聊か危険が含まれることなのだけれど、思わず口をついで出てしまったのだからしようもない。
隣では海楼石の手錠をつけられた彼女の敬愛するドレーク船長が、身体の自由が利かぬことに歯を食いしばっていた。サリューは悪魔の能力者ではないから、海楼石の手枷をつけられることがどれほどの苦しみであるのかわからぬが、普段けしてサリューに辛さを見せぬドレークがこんな表情をするのであるから相当なのだろう。
ドレーク船長の苦しみは己自身を抉られるよりも辛い、サリューは眉を寄せて、大きな椅子に腰掛けて、自分たちを見下ろす、ドフラミンゴを真っ直ぐに見つめた。
「フッフッフ、フッフフフフ、わからねぇことはねぇだろ?お前をこのおれの所まで招待してやったんだ。やることは一つだろうが」
申し訳ないが、まるでさっぱり、何もわからない、というのがサリューの本音である。
航海中のドレーク海賊団、今日も今日とてグランドラインを突き進み、ドレーク船長の目的のための旅。それはいつものことだった。しかし、海賊船を突然ドフラミンゴの手の海賊船が囲み、こちらが反撃する隙もまるで与えず問答無用で船員たちを人質にしておいて、招待もなにもあったものではないだろう。そう突っ込みを入れたかったが、しかし、この状況。七武海相手、では慎重ににならねば、と、そういう警戒心がやっと沸いてくる。ドフラミンゴが少し指を動かせば、ドレークもサリューも、容易く命を落とせるのだ。サリューは己の力を慢心してはいない。出来ること、といえば、言葉を選び、慎重に、ドフラミンゴの意図を探り、この状況を抜け出すこと、それだけである。
琥珀にも似た色の瞳を細めて目の前の海の王者の一角を見つめれば、ドフラミンゴは面白そうに口元を歪めた。
「フッフフフ、相変わらずイイ女だな、レルヴェ・サリュー。そこのヘタレなんぞにゃもったいねぇ」
「お褒め頂き恐縮ですが、ドレーク船長のほうが、私如きには過ぎた方だと考えております」
「フフフッフフフ!!!フフッ!」
冷静にならねば、と決めたそばから、ドレークを貶されそのような答えを口にしてしまった。サリューは一瞬焦りはしたものの、対するドフラミンゴは心底愉快極まりない、というような様子。……一瞬、M属性?といつぞやが言っていた言葉が思い出されるが、まぁ、今はきっと、うん、たぶん関係ない、ということで。
ひとしきり笑ったドフラミンゴ、椅子の上で脚を組み替えてから、ひょいっと降りてサリューの前でしゃがみ込んだ。ドレークが何か止めるような言葉を叫んだのだけれど、その前に、クイッと、ドフラミンゴがサリューの顎を掴んで上を向かせたので、そちらのほうがサリューには驚きだった。
大きく眼を見開き、間近に迫った男の顔を意識した瞬間。
とりあえずサリューは頭突きをした。
「フッフフフフ、ここは殺されねぇか慎重になって素直にされるがままになるっつーのがセオリーじゃねぇのか」
「条件反射です」
まさか思いっきり決まるとは思わなかったのだけれど、サリューは見事に的中した頭突きによってドフラミンゴが鼻を打ち、それはもう景気よくドバドバと鼻血を流すのを眺めた。いや、自分とて慎重にならねば、と強く決意していたところだ。自分だけに害があるのならまだしも、自分の粗相がドレーク船長や、今は別室に監禁されているだろう仲間の命の有無に繋がるのである。慎重に行動せねば、と心に言い聞かせていたはずだ。
「申し訳ありません。海兵時代からの名残だとは思うのですが、貴方を前にすると拒絶反応があるようです」
「フフッフフフ、全くつくろえてねぇだろそりゃ、むしろ喧嘩売ってんのか、コラ」
「心の底から、穏便にことを運びたいと願っています」
嘘偽りない本心だが、今のこの行動の後に言っても信憑性にかけるかもしれない。サリューは顔は一応すまなさそうに眉を寄せてみせて、未だドクドクと鼻血の止まらぬドフラミンゴを気遣ってみた。これで貧血で隙でも出来てくれれば脱出のチャンスなのだが、さすがに七武海、鼻血ごときでどうこうなることもないだろう。というか、そんな理由で倒されたりしたら、海の威信もあったものではないか。
「……それで、結局なぜ俺たちが捕らえられた?お前が海賊討伐を真面目に行うとは考えられないが」
やっと海楼石の重さに慣れてきたらしい。ずずっと身体を動かしてサリューを庇うようにドフラミンゴとの間に入ってきたドレークがそう問うた。
このまま妙な雰囲気のまま、時間だけが闇雲に流れるのは好ましくない。仲間たちが現在酷い拷問を受けている可能性とてあるのだ。先ほどから、調子の良い態度を崩さぬドフラミンゴだが、この男がどれほど非道なのか、海兵であったドレークは嫌というほど知っているのだ。
「お前にゃ用はねぇさ。あるのはレルヴェ・サリューだけだ」
「なら、私だけを捕らえればよかったのではありませんか」
あまり興味なさそうにドレークを一瞥したドフラミンゴがあっさりと答える。ぴくん、と眉を跳ねさせてサリューはやや強い口調で意見した。七武海に狙われる覚えなどまるでないが、しかし、自分のために仲間や、ドレーク船長の身に危険が加えられたのなら、これほど屈辱的なこともない。
挑むような視線を受けて、ドフラミンゴは「んー」と、考え込むようで、しかしまるでこちらの話を聞いていないとわかるような、そんな態度。
「そうもいかねぇんでな。お前一人を攫っちまうのは簡単だ。息をするどにな。だが、お前を赤旗から離したら、いろいろ面倒だろ?」
「……おっしゃる意味がわかりませんが」
素直に、サリューは首をかしげた。しかし、ドレークは何か思い当たることがあるのか、突然ひくっ、と顔を引きつらせる。
「……まさか……この騒動の原因は…」
カタカタとその身体が震えているのは、ドフラミンゴに対する恐怖でもないだろう。サリューが困惑していると、ドレークの思考を読み取ったか、ドフラミンゴが「わかりきってんだろうが」と、そんな、無責任きわまりない言葉を放つ。
ドレークが、それはもう、嫌そうな顔をした。そして顔を引きつらせ、何か言おうと何度か口を開きかけ、しかし、結局は観念したのか、ため息を一つ吐いた。
「………のことに……いい加減、巻き込むのは止めてくれないか」
***
「フフッフフフ、サリューと二人きりになったなんてバレたら、ぶっ殺されるじゃねぇか。嫉妬なら歓迎するが、どう前向きに考えても落ち込みたくなる理由なんでな」
今度は、ふん縛った縄をあっさり解かれて、客のように扱われる。ソファに座ったサリューとドレークはそれぞれ「……またか」と、海軍時代から慣れた状況に無理やり追い込まれて、お互いため息しか出ない。
どうも、どうやらドフラミンゴの話を聞けば、どうやら、最近の眠りが浅い、というよりも悪い夢ばかり見るらしい。寝ては自分の叫び声で目を覚ます、それを繰り返すのが気の毒だ、と、ドフラミンゴが「何それ冗談?」と思いたくなるほど、真剣に言うもので、ドレークもサリューも一瞬顔を引きつらせたけれど、まぁ、に関してはこの男は昔からこうである。
まぁ、とにかく、それで、ドフラミンゴ、サリューにがよく眠れ、悪夢を見ぬようにしてやれよ、とそういうのだ。
「そ、そんなことのために、俺たちの船を襲撃したのか……」
幸い死者こそ出なかったものの(戦う前に捕らえられたのだ。手際の良く、優秀な配下が、この『サリュー捕獲☆でもバレたらにキレられるからこっそりな!大作戦』のために動いたらしい。ドレークはここでも頭を抱えたくなった)七武海に襲撃されてかなり船員たちは混乱していた。今も自分たち二人が別室にいるということで、彼らがどんな不安を抱えているか、船長として思えば深刻である。
海賊になった身、いつでも死ぬ可能性があるのだ。その覚悟、はある。しかし、その襲撃の理由が、こんなことだと知らせられれば、ある意味、呆れるよりも怒りさえわいてくる。
「……あァ?」
「そんなこと、とは思いませんが、事前にご相談頂ければ考えさせて頂きました」
ドレークの不用意な一言に、ドフラミンゴの額に青筋が浮かぶ。それをさりげなくとりなすようにサリューは言葉を拾い、出されたティカップに手を添えながら申し出た。くいっと、動きかけていたドフラミンゴの指が止まり、どっかりと、ソファに背を預けて器用にあぐらをかく。
「何か思いつくか?」
「眠れぬ、のであれば眠る前にブランデーを一滴たらしたホットミルクを。悪夢を見るのなら枕元に何か絵本を入れておけば良いのではないでしょうか」
「酒はダメだ。すぐに酔っぱらって、後々にあの大将にあいつが蹴られる。絵本も無理だ。手下の仲間の女医がその方法を薦めてきたが、絵本から古い知り合いを思い出して悪化した」
「それでは眠る前にオルゴールなどでは」
と、あれこれ、とサリューも思いつく限りの方法を提案してみるが、どれも既に試した、あるいは、いろいろ厄介な規制がかかる。サリューとてあまりそういう方面に明るいわけではないし、どちらかといえば自分も眠りは浅いけれど、それで苦しむことはあまりない。
あれこれ、と考えながらふと、サリューはドレークを振り返った。
「……なんだ?」
「………いえ」
この会話に参加していないドレークは、一応はあれこれ考えているらしい、じっと見つめて暫く、サリューに見つめられていることに気付いたドレークが首を傾げた。
思いつくことがあり、ぽっ、とサリューは頬を染めた。いや、当人はそうと思ったけれど、周囲にはまるでそうは見えなかっただろう。相変わらずサリューの頬や首は真っ白い。
「………思いついたのですが」
「ん?なんだ」
あまり口に出すのは躊躇われる、と思いつつ、サリューはドフラミンゴやドレークに顔を見られぬよう、膝元に視線を落として、ぽつり、と小さな声で呟く。
「……頭を、撫でている、というのは如何でしょう」
いつも、いつも、サリューが眠れぬ夜はドレーク船長がそうしてくれていた。海軍の時代から、今も変わらぬ優しさである。そのたびにサリューは鳩尾が締め付けられるような、痛み、ではない、何か、幸福感、いや、安堵のようなものが沸いて出る。
小さな声ではあったけれど、ドレークにははっきりと聞こえたようで、聊か驚き、そしてすぐに気付いたらしい、こちらも、こほんっ、と無意味な咳払いをして、サリューから視線をはずした。
「……フッフフフ、赤犬と以外で、こうも目の前でイチャつかれるとは思わなかったぜ。お前らさっさと結婚しちまえよ」
なんだか漂う、ぎこちないというか、ほんわか、というか、微笑ましすぎる二人の様子に、ドフラミンゴが顔を引きつらせた。先ほどから散々二人を振り回したドフラミンゴではあるが、この反撃(二人にそのつもりはないけれど)は独り身には答える。
軽くこう、イラっ、と来るが、まぁ、レルヴェ・サリューが赤旗しか見ていないのは周知の事実。昔から気付かぬは当人たちばかりよ、と鷹の目すら呆れていたのを思い出しつつ、ドフラミンゴは額を押さえた。
「で?てめぇがその方法で安眠して、そのままどうなるかって結果にゃ興味ねぇが……おれが頭を撫でてが安心すると思うのかよ」
「ですよね」
「だな」
「おいコラ、そこはせめて肯定しろよ」
またピキッ、と額に青筋を浮かべるが、ドレークとサリューは顔を見合わせて「嘘はつかない」という様子。本当にいい度胸をしている。
まぁ、そんなことはどうでもいいとして、サリューはまた考えるように口元に手を運んだ。
「では赤犬に、」
「撫でる手がそのまま殴り飛ばすだろ」
「おれが何かできるヤツにしろ」
ドレークのもっともな突っ込みと、ドフラミンゴのわがまま極まりない言葉が被った。サリューは双方に曖昧に頷いてから「あ」と小さく声を上げた。
「うん?」
同じように何かに気付いたらしい、ドフラミンゴとドレーク、二人が振り返るその前に、バッタン、と扉が乱暴に開いた。
「うわぁあああん!!!!!!!サリューっ!!!!!!生きてる平気大丈夫!!!!!?バカ鳥に変なことされてない!!?盛られてない!!!!?触られてないッ!!!!!?」
盛大に大破した扉から、弾丸のような勢いで、そのままサリューの膝に投身してきた真っ赤な髪の小さな少女。受け止めて少しの衝撃を堪えてから、サリューは出来るだけ柔らかな表情を浮かべた。
「無事ですよ。ドレーク船長も一緒でしたから」
「何言ってるの!!!赤旗は痴漢撃退スプレーほどは役に立たないよ!!!」
「……、俺は一応、億越えのルーキーなんだが」
自分の名を誇るドレークではないにしても、仮にも、自分の愛する女性を守れぬ男のレッテルは貼られたくない。というか、無機物以下扱いは嫌だ、と反論を試みるが、は当然無視である。ぎゃあぎゃあとサリューのあちこちを手に持った「ベガパンク特製:除菌もできる☆ミクロから鳥菌撲滅!」ハンカチで拭いていく。
きゃあきゃあと騒ぐをそのままにしておくのもどうかと思い、サリューは自分を案じてくれるその頬に手を添えて、あちこちの除菌を試みる手を取った。
「大丈夫ですよ。わたしは」
「でも、」
「それよりも、。最近眠れてないようですね」
ぴたり、と、少女じみていたの顔から表情が一瞬消える。それで、眼を細め、サリューから顔を逸らすと、が部屋に来た瞬間デッキブラシで殴打されたらしく、頭をさすっているドフラミンゴを睨み飛ばす。
「鳥でしょう。ぼくのこと、サリューに言ったの」
「悪ぃか」
「余計なこと、」
「。わたしの話は終わっていませんよ」
サリューは厳格な教師のようにはっきりとした声で言い、の肩を掴む。叱るような響きさえあるのだけれど、は僅かに顔を顰めただけでそれ以上の反論はしなかった。
これがサリュー以外の人間であればがどんな態度を取るのかなど、考えるのもバカらしい。しかしドレークは素直に驚いたし、同時に、本当にはサリューには頭が上がらぬということを実感させられる。
彼女には、サリューには、そんな魅力があるらしかった。ドレークにはわからぬのだが、や、特定の、「魔女」と呼ばれる生き物は、この背筋の美しい、凛とした女性がどうしようもなく「すき」だという。別段、サリューに何か特別な力があるわけではないのだが、サリューを前にすると、は途端、大人しい、ただの少女のようになる。
「お話を頂いたのは、確かにドンキホーテ・ドフラミンゴ氏からです。ですが、あなたの顔を見れば、最近眠っていない、いえ、眠れていないのがよくわかります」
「顔色はいいよ、ぼく」
「わたしにわからないとでも?」
が不満そうな、妙な声を喉から出した。うなるような、しかし、普段人に向ける傲慢さや尊大さ、は欠片も含まれていない。
「だって、眠くないんだもん」
「怖い夢を見るのですか」
ぶすーっと頬を膨らませてそっぽを向くに、サリューは、先ほどの硬い声とはうってかわった、柔らかな、優しみのある声で問うて来た。ふてくされるの白い手を取り、自分の手で包む。
「眠ることが恐ろしい、その気持ちはわたしにもわかります。けれど、。あなたとて眠らねば体力が回復しないのでしょう?」
「……ヤなの。だって、怖い夢、ばっかり、だし。サリューが、サリューがずっと一緒に、ぼくと寝てくれるなら、寝る」
今度はサリューが困る番だった。それはできない、と素直に言えば、は癇癪を起こすかどうか、それを一瞬考えていると、ふわり、とが笑う。
「冗談だよ。いくらぼくでもね、赤旗にそこまでの嫌がらせはしないよ。ぼくが怖い夢、見ないですんでも、サリューが怖い夢みたら、嫌だもの」
「」
時折、サリューはが自分に気を使うので、困惑する。普段我侭し放題、というのを前面に出すのに、時折、いや、おそらくは彼女の中の一定の方式があるのだろうけれど、は「遠慮」をするのだ。
眉を寄せると、がぎゅっと、サリューに抱きついた。
「バカ鳥もたまには良いことをするね。久しぶりにサリューに会えたし、それなら今夜は良い夢が見られるかもしれないよ」
と言ったきり、ひょいっと、あっさりと、サリューから離れてドフラミンゴに近づく。サリューとの邪魔はせぬつもりだったドフラミンゴはが近づいてきたので「もういいのか?」と首を傾げた。その脛を、がガッ、とそれはもう容赦なく蹴る。
「……フッフフフ、痛ぇな」
「サリューに迷惑かけないでよね!」
「会えてよかったじゃねぇか」
「煩いよ!大体なんでサリューを巻き込むんだよ!赤旗なら何してもいいけどね!」
ドレークがまた何か言いたそうな顔をしたが、いつものことなので黙っておくことにしたらしい。ドフラミンゴは肩を竦める。
「おれが何かするより、サリューが何かしたほうがお前は喜ぶだろ」
「バカ。ぼくは君のそういう現実主義なところが嫌い」
「褒めてんのか?フッフフフフ!」
ごつんっ、とが容赦なくドフラミンゴの頭をデッキブラシでどついた。これ以上殴って頭がいっそうイカレたことになったらどうなるのか、とそういう突っ込みは生憎誰もしない。
が「何その前向きさ!!!!」と心底嫌がっていると、ふと、気を取り直したドフラミンゴが再度サリューを見下ろした。
「おい、レルヴェ・サリュー。お前、弾けるか?」
「ピアノフォルテですか?」
弾けるか、と聞かれて想像するのはまずそこである。問い返すと、ドフラミンゴが頷いた。ピアノの正式名称を答えたことである程度の技量を察したらしい、満足そうに笑みを引いて、ドフラミンゴは自分を見上げてくるをひょいっと、抱き上げた。
「い、いやぁああああ!!!!さ、触るな!!下ろしてよ!!!バカ鳥!!!!」
「落として怪我させたくはねぇ。大人しくしろよ。レルヴェ、それとそこのヘタレもついて来い」
一方的に言ってズカズカ、と部屋を出て行くその姿。ヘタレ、と呼ばれてドレークはまたため息を吐き、あっけに取られるサリューを振り返った。
「どうする?今なら簡単に逃げ切れると思うが」
「そうですね、ドレーク船長は如何お考えです」
問わずともサリューには判っていたが、あえて問うた。いや、ドレークとてサリューがどう考えているのか、わかっていただろうに、問うてきたのだ。昔から、ドレークはの問題に悩まされても、苦しめられても、それでも投げ出したことがない。放って置けないのだ。昔から、そうだった。それでも自分の意思で今、赤犬のもとのに関わってしまうのはどうなのだろうかと、そういう葛藤があるよう。サリューはその思いをくみ、ドレークが口を開く前に、微笑んだ。
「もう少し、に付き合ってもよろしいですか?ドレーク船長」
***
案内、というか、追いかけてたどり着いたのは防音処置のされているらしい一室。反響のよさそうな構造をぐるり、と見渡して、その丁度良い場所に置かれたグランドピアノで目をとめた。
「ピアノですか」
「ピアノだな。サリュー、弾けるのか?」
「多少は、という程度です」
習った、のは幼少の頃だ。確か近くに住んでいた女性がピアノが上手く、手慰み程度に手ほどきを受けた。すぐにサリューは、自分は白いけん盤の上を優雅に行き来する指よりも、剣を握り締める強い指が欲しいのだ、と気付いたが。
思い出して、懐かしい記憶。自分がどんな顔をしているのかはわからなかったが、見つめてくるドレーク船長の目は穏やかだ。
「だから、目の前でイチャついてんじゃねぇよ」
「バカだねぇ、鳥。この二人にそんな自覚あったら「レルヴェからディエスを引き離し隊」は解散決定だよ。あ、サカズキが会長してるって知ってた?」
「てっきりお前かと思ってた。年会費いくらだ?おれも入れろよ」
「すいません、何ですかその集団は」
二人の間に流れる雰囲気ブチ壊し、やいのやいの、と離すとドフラミンゴ。出された内容があまりにも不穏でサリューが思わず突っ込みを入れると、ドレークが「……メンバーの想像がつく」と胃を抑えていた。
「細かいことは気にしちゃダメだよ」
「細かくありません」
「ところで鳥、ここで何するの?」
こういうときのサリューの言葉は平然とスルーする。連れてこられて不機嫌、にはなっていないのか、きょとん、と面白そうにあたりを見渡した。
「レルヴェに弾かせて、その音を録音しておく。お前が寝てるときに流せるじゃねぇか」
その瞬間、サリューは素直に驚いて眼を丸くする、という珍しいものを見た。それで唖然としていると、はそんな幼い表情は一瞬で、すぐにいつもどおり、というにはやや不自然な、いやそうな顔をしてドフラミンゴを見上げる。
「……余計なお世話だよ」
「フッフフフフ!!!―――っつーことで、一曲弾けよ、レルヴェ・サリュー」
だから、何が、そういうことなのか。当初の会話を思い出しつつ、サリューはピアノに近づいた。ごく普通、というには、おそらく、いや、確実に音の張るだろうグランドピアノ。けん盤に指を落として、眉を寄せた。
「わたしは得意では、」
「俺からも頼む。お前の演奏など、次にいつ聴けるかわからんだろうしな」
いつのまにか、ドレークもやドフラミンゴのいる観客席に(というのかどうか)行っていた。船長にそういわれてはサリューには断るのが難しくなる。躊躇うように手を握り、を見た。
「別に、ぼくはいいよ?サリューが嫌なら、いいよ?」
そういう、その顔。いつもどおりだが、しかし、サリューには違和感があるのだ。眠れていない、とわかる。眠れないのだろうと判る。何か堪えきれぬ悲しみや苦しみ、恐怖が毎夜を襲っているのが、判る。
自分が何か、彼女にしてやれることがあるのなら、それは、してやりたいと、そう考えてしまっても、よいのだろうか。
一瞬、躊躇われた。のために何もかもを、するのは、それだけの覚悟があるのはあの大将閣下だ。自分はの傍にはいてやれず、また、一度は見捨てた身である。それでも未だは自分を慕ってくれている。何も返せぬのに。そうと判りきっているのに。と、サリューは躊躇った。
「サリュー。弾いてくれないか」
躊躇うサリューに、ドレークの静かな声が掛かる。先ほどドレークの背をサリューが押したように、今度はドレークがサリューの肩を叩くのだ。見つめる瞳を見返して、サリューの心が軽くなる。
(……えぇ、えぇ。そう、ですね)
ふわり、と眼を細めて、ゆっくりと腰を折った。そのまま面を崩さずに礼をしてから、椅子に腰掛ける。
けん盤を叩くのは、随分と久しぶりだった。しかし、一度弾けばなかなか完全には忘れきれぬものなのか、けして上手、というわけではないにしても、最初こそはたどたどしく、けれど次第に、ゆっくりと、はっきりと、トントン、トン、と白と黒の歯をサリューの細い指が滑る。
静かに流れる、雨だれのような、穏やかなメロディに、ドフラミンゴの隣に座って耳を傾けていたの体がコテン、と横に倒れた。これでドフラミンゴの膝の上、なら労は報われるとそういうものなのだけれど、生憎とが倒れたのは反対側。つまりは、ドレークの膝の上。と、いうのも正確ではない。正確には、ドレークの鳩尾に一発肘を入れ、ぐはっ、と呻いた胃薬男、完全に油断し、しかも丁度息を吸うところだったらしい大打撃。しかしすやすやと、寝息を立てるには本当どうでもいいことである。
「フ、フッフフフ、よこせよ、ディエス・ドレーク」
「お前に渡したら今度こそ本気で赤犬に討伐される。黙って聴いてろ」
ごほごほっ、と盛大にむせながらも、保護者の鏡のようなドレーク。きっぱりと言い切って、ふてくされるドフラミンゴを無視し、サリューの演奏に再度聞き入った。
不服そうにしながらも、ドレークの肩膝を枕にしてすやすやと眠りこけるに、ドフラミンゴはそれなりの満足感。手を伸ばして前髪を撫でたら起きてしまうかと、そんな葛藤を抱えること暫く。それでもしっかりとサリューの演奏は聴いていた。
そしてこのとき録音された、サリューのピアノの音。それがいずれ、世界の敵やらなにやらに有効な手段だとされるのは、また別の話である。
Fin
・たぶん弾いた曲はショパンの雨だれ。サリュー嬢はみんなのアイドルっていう話です。えぇ、趣味ですともさ!!!
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