いつものようにディエス・ドレーク中佐は胃が痛かった。たまにはこれ以外の出だしで彼を紹介してあげたい気持ちもあるが、事実なのだから仕方ない。本日の胃痛の原因もまたいつもと同じ。悪意の魔女、海の魔女、嘆きの魔女、などとご大層な名を冠する、ドレークからすれば悪魔っ子そのもののが原因である。いや、しかしの名誉のために言えば、今日に限っては彼女はわりと大人しい方だろう。今日はあまり外に出たくはないのか、それは知らないが、室内に篭り、特に脱走をする様子も見せず、真っ白い紙に赤いクレヨンで何かを書きなぐり、はさみで時折切ったり、しているくらいだ。

半分に折り続けた紙を起用に切り離さぬように切れば、手を繋いだ人形のようなものができる。それらの首を真っ赤にしている、という妙な結果には目を瞑り、ドレークは、今日はおおむね平和に終業できそうだ、とそんな淡い期待なんぞ抱いた。そろそろ寒くなってきた昨今、北の海出身であるドレークは寒さには強いが、彼の部下である女性海兵は寒さにはめっきり弱い。自分が早く上がれるのなら、彼女も日が暮れる前に、正確には一層寒くなる前に帰してやれると、表情を緩めた。

「ディエスが幸せそうな顔は気に入らないけど、サリューのためなら仕方ないよね」
「……おれのことはさておき、お前にしては思いやりのある言葉だな」

人の思考を読むんじゃない、といっても無駄なことと知るドレークはため息一つでいろんな理不尽さをやり過ごし、の頭をぽん、と叩く。どいうわけかは知らないが、基本的に他人は見下すか小ばかにするか蔑むか(意味は似ているが、微妙に違う、どのみち悪いが)というが、ドレークのところのレルヴェ・サリューという女海兵にだけはよく懐いている。どんなに機嫌が悪いときでもサリューの名前を出せば、たいていの機嫌は直るというほどの懐きっぷりだ。まぁ、それはさておき、ドレークが頭を撫でると、はいやそうな顔をした。

「ぼくを子ども扱いするんじゃぁないよ。ディエスのくせに」
「おれがどうということは関係ないだろう。どう考えても、お前は子供だ」
「よく言えるよねぇ」

眉を寄せながらは肩を竦め、膝の上に置いた白い人形の首を持つ。だからなんで真っ赤なんだとか、そういうホラーな光景にいろいろ思うことのあるドレーク、しかし、いちいち突っ込んでいたらのお守りなどやっていられない。こほん、と咳払いをすると、同時に部屋がノックされた。

「お客さん?珍しいねぇ」
「大将赤犬ではないのか?」
「バカかい君は、サカズキがノックするわけないだろ」

ふんとが鼻を鳴らした。別に、大将がノックの礼儀を知らぬ、と侮っているわけではない。が現在待合室に使っている部屋の所有権は赤犬にあるわけで、自分の部屋に入るのにノックはしないだろう、とそういうことだ。それはそうなのだが、しかし、基本的に赤犬が許可しないと近づくことも許されていないはずのこの部屋に訪問者。いぶかしみながらも立ち上がって、ドレークは客を迎えることにした。

ちゃんデートに誘いに来たんだけど、いる?」

ガチャリと扉を開ければ、目の前には真っ白いスーツに青いシャツ。だらけきった大将閣下が、冷気と共にやってきた。






自転車






「死にたいならそう言え」

げしっ、と最高戦力だろうが同僚だろうが容赦せぬ、(問題が起こる前に)ドレークがすかさず呼んだ赤犬は部屋に入るなり当然のように青雉の頭を蹴り飛ばし、拳を握った。ジュワッと何かいろんなものが蒸発する音がしてドレークは呼ばない方がよかったかと後悔するが、呼んでしまった以上仕方ない。とりあえず赤犬の攻撃にが巻き込まれないようにドレークはと二人で壁の隅に避難し、火の粉が飛び地ぬようにコートをかけた。そう職務に忠実なドレークの対応をはころころと「君って過保護」と笑うものだから、そのたびに赤犬の顔がこちらに向く。

「自殺願望なってないって、おれ。ちょーっと、ちゃんとのんびりデートとか楽しみたいって思っただけじゃん」

何とか必死に状態を戻したらしいクザン、コキコキと首を動かしつつ、不満そうな声を出す。それでサカズキとクザン、大将二人がにらみ合う。普段であればクザンがあっさり引き下がる、というか、にちょっかいをかけるのが彼なりの挨拶、のようなもののはずだけれど、今日は引かないらしい。そのことを妙に思っていると、赤犬よりは頭一つ大きい青雉がため息を吐いた。

「いいじゃん、たまには俺だって我侭言って」
「存在自体がすでに自堕落で我侭じゃろう、貴様」
ちゃん貸してくれたら、マジメに仕事するよ?三日くらい」
「リアリティのある条件を出しても答えは変わらん。帰れ」

赤犬、容赦なくしっし、と手を振る。犬じゃないんだから、とクザンは突っ込み、サカズキから視線を外しドレークとのほうへ顔を向けた。

ちゃんもおれとランデブーしたいよね?たまにはさ」
「うぅん、全然?」

にっこりと小首を傾げて即答する。外道かお前、とドレークは顔を引き攣らせた。いや、しかし確かにここでがクザンの言葉を肯定すれば、(それと近くにいるドレーク)は赤犬に揃って蹴り飛ばされる。自分の身のことだけを考えた、正しい解答ではあった。咄嗟にその判断をした、というより明らかな本心なのだろうが、その辺は考えないほうが青雉にはいいだろう。一瞬青雉もなんだか落ち込むような顔をしたが、今日の彼は一味違うのか、凹まず、いやいや、と首を振る。

「楽しいよ?昨日さ、おれ給料日だったんだよねぇ、だからチャリ新しくしたんだけど、ちゃん最初に後ろに乗せてあげようとおもって。イルカとか近くで見れるよ」
「クザン、自転車の二人乗りは犯罪じゃァ言うちょるんがわからんか」
「ちゃんと座席あるからいいでしょ」
「あれは荷台じゃろうがぃ!!そんなものにこれを乗せるなんぞ言語道断じゃァ!!」

ダンッ、と赤犬は乱暴に壁を叩いた。その衝撃にが反射的にびくっと身体を強張らせたのをドレークは感じ、相変わらず二人のすれ違いっぷりにため息を吐きたくなる。青雉は赤犬の堂々とした無自覚な過保護発言に呆れたような顔をしたが、ぽん、と手を叩く。

「大丈夫だって、ちゃんと座布団敷くから。安全運転で快適無敵、ちゃんもお尻痛くしないでお散歩できて楽しいって、な?」
「これを楽しませる必要なんぞない。貴様、罪人相手に何を生っちょろいことを、」

赤犬はつらつらとがいかに罪人であるかという持論を展開しようとしたが、しかし、言いかけた途中での部屋に設置されている電伝虫が声を上げた。基本的に大将しか使わぬものだが、ここには二人も揃っている、黄猿がにかけることなどあろうはずもない。ドレークは一番下位である己が一度出るべきかと判じて立ち上がるが、その前に赤犬がそれを取った。

「なんだ」
『大将赤犬!こちらにおられましたか…!!実は、』

通信は本部の通信室からのようだった。妙に焦った声に赤犬は眉を寄せる。一瞬ドレークのほうへ視線をやり、を外へ連れ出させようとしたのだが、しかし、通信兵はよほど焦っているのか、そのまま叫ぶように続けた。

『世界貴族の×××閣下がマリージョアよりマリンフォードにご到着され、大将赤犬を直々にご訪問されるそうで……!!!至急魔女殿を……!!―――』

ブヂッ、と言葉は最後まで続かなかった。ドレークはぎょっとして、自分の腕の中にいるを見下ろす。先ほどまではのんびりとした顔をしていたが、すっかり霜の降りた眼をして、口元を歪めていた。

「ふ、ふふふ、そうかい、おや、まぁ。大変だ。お茶の準備をしないとねぇ」

それはもう楽しそうに弾んだ声。人を小ばかにしきって当然、という笑みの形をした眼でが喉を振るわせた。の悪意、あるいは性質の悪すぎる悪戯に慣れているはずのドレークでさえぞっとする何かがあった。赤犬の眉間に皺が寄る、普段通りの怒気、ではないようにドレークには思われた。いつもならが何か赤犬の気に障る言動をすれば、そのまま蹴り飛ばすはずの赤犬が何もせず、ただの腕を掴み、引き寄せた。一瞬、傲慢そのものいった気配のが普段どおりを取り戻す、その狭間を逃さぬように赤犬はの、やや赤くなりかけた瞳を覗き込むように顔を抑えて、命じた。

「今すぐクザンと出て行け、夕暮れまで戻るな」





++





チャリンチャリン、と意味はないけれど、何となく気分的に自転車の呼び鈴を鳴らして漕ぐ。ちらりとクザンが後ろを見れば、背をつけるようにしてが遠ざかる海軍本部を眺めていた。真っ赤な髪がさらさらと潮風に揺れる。真っ白いスカートを押さえて、がぽつり、と呟いた。

「べつに跪かせて足を舐めさせようなんてしないのに」
「じゃあ何しようとはしてたわけ?」
「ふふ、頭からお茶をかけて飲ませる程度だよ。ぼくは優しいからね」

うわ、とクザンは顔を引き攣らせた。世界貴族、天竜人、尊き血、とか、まぁそんな当てはめ方はクザン個人としてはどうでもいいのだけれど、大将としては守るべき義務、でもあること。、つまりは悪意の魔女と世界貴族を接触させてはならぬ、と、それは、理由を知らない一般海兵らも承知のことだった。クザンは以前たった一度だけ、かなりの不手際、不運が重なって、が世界貴族と鉢合わせた瞬間を眼にしたことがある。

世界貴族と悪意の魔女。どんな関係があるのか、それはクザンは知らないけれど、世界中で最も尊いとされている世界貴族のご連中を、世界の敵と呼ばれる魔女はあっさり、跪かせる。その光景、そのおぞましさをはっきりと、クザンは覚えている。傲慢であることが当然である世界貴族を、それ以上に傲慢な魔女がちらりと一瞥する。それけだった。最初は彼ら、必ず抗おうとする。こんな生き物になぜ己らが、と消して屈せぬように、彼らの矜持の全てをかけて、を見つめ返そうとする。は何も言わない。何もしない。ただ、道端に転がる石か何かを見るような眼で彼らを見、ただ黙って、彼らが膝を付くのを待つ。全身にびっしりと汗をかき、体中を強制的に上から何か強い力で押しつぶされるように、次第に彼らの身体が下がっていく。明らかに、彼らの意思ではない。だがしかし、そうしなければならないと身体が、おそらくはDNAからが刻み込まれているのではないかと、そう思うような、抗えぬ絶対的、圧倒的な何かがあるようだった。

なぜそうなるのか、を知る者はいないそうだ。だからこそ、彼らは抗おうとする。ただの少女、にしか見えぬ、彼らからすれば、いつも己らが見下している一般人と変わらぬ。なぜ膝を突かねばならぬのか、と、誰にも膝を突かぬ彼らが、憤慨しようとも、それでもを前にすれば、彼らは誰一人の例外もなく、必ずその、病のような状況に陥るそうだ。

「あ、ちゃん、カモメ」

今頃マリンフォードは大変な騒ぎになっているのだろう。普通、世界貴族は海軍本部には足を踏み入れない。暗黙の了解のようなものがある。それなのに来た、理由をいくつかクザンは考えたが、面倒くさくなったので止める。サカズキを態々ご指名、というところでもあまり良い予感はしない。そういえば以前世界貴族はかなり無謀にもサカズキと自分たちの娘を見合いさせたことがあるとかなんとか。

「あ、ほんとだ。ねぇクザンくんイルカっていつ見れるの?」
「呼んで来るわけじゃねぇからなァ…何、ちゃんイルカ好き?」

覚えていたらしい、意外にも楽しみにしている、という事実にクザンは少し驚く。キコキコと自転車を漕ぎながら、背中越しに伝わる妙な体温。ころころとが笑ったのがわかる。

「イルカがキライな子はあんまりいないよ」

イルカと、とクザンは頭の中で思い浮かべて、考えたこともない組み合わせ、それでもなんだか微笑ましくなる。海水はの身には針のようなものだとサカズキに言われたことがある。なので今日も何があっても絶対にを海に落とすな、と言い含められた。ちなみに出かける際には、しっかりとドレーク中佐がが座りやすいようにとクザンの自転車の荷台部分をあれこれいじっていた。クッションをつけたり、誤っておちないように命綱のようなものをつけたり、とその念の入れよう。日差し対策に日傘、そして防寒準備もばっちり、というその手際の良さにクザンは本当、ドレークは父親役が板についてきたんじゃないかと気の毒に思った。

「まぁ、かわいいもんね」
「ペンギンとかも好きだよ。寒いから実際観にいくのはヤだけど」

へぇ、とクザンはの意外な一面を見たような気がする。冷静に考えれば随分と長い時間を生きている生き物。時折無邪気に振る舞うこともあるが、しかし、歳を経た老婆のような性格でない、ともいえぬ。趣味はドレークいぢめ、と言うくらいしか目立ったものがないと思っていたが、見掛けに合った趣味趣向もあったのかと関心する。

キコキコ、とクザンは自転車を漕ぐ。給料日だったから買い換えた、というのはウソではない。時々、クザンは自転車を変える。と言って以前のものを捨てるわけでもない。が本部に来てからは、クザンはいつも必ず、最初に乗るときはと一緒に、と決めていた。何か意味があるわけではないのだけれど、そうしないと使えない、と妙な意地のようなものもある。

真っ白い雲、青い空、海を氷のレールで走る、自転車、自転車、チリン、リチンと鈴が鳴る。時折魚が飛び跳ねて、そのたびにがはしゃぐような声を上げた。普段デッキブラシでどこへでも行けるだろうだが、海からは少し離れて飛んでいるわけで、こんなに近く移動、というのはないらしい。広い海だと、改めてクザンはそれを意識した。本部からはもう随分と遠ざかってしまって、見えない。広大な海にぽつん、とクザンとがいる。今すぐにでもクザンが能力を解けば二人して海に沈んでしまうのに、はそんな心配を微塵もしていないようだ。

「なんかさ」
「なぁに?クザンくん」
「世界中に二人だけみたいじゃない?」

キコリ、キコリと漕ぐたびに車輪が鳴る。ゆっくりとクザンとの身体を運んでいく。クザンは妙なことを口走った自分がすぐに恥ずかしくなって、できれば波の音でかき消されて欲しかったけれど、海は嵐の後のように静かだ。の顔を見ることが出来ずに、クザンは前を見る。シャカシャカ、とゆっくりゆっくり、自転車を漕ぐ。氷の道が出来て、その細い道の上を外れることなく、器用に前に進む。

「感傷的だね。寂しいの?」
ちゃんって、おれの傷口抉るの好き?もしかして」
「嫌なら今日、ぼくを連れ出すべきじゃなかったよね。自覚くらいは、あると思っていたけど」

ふわりと、が笑ったようだった。困ったような笑い、ではないだろう。時折クザンも見る、人が過ちを繰り返すのをただ黙ってみている、という魔女の悪意のような笑顔だろう。クザンは喉の奥から掠れるような声を出して、ぎゅっとハンドルを強く握る。

「いい加減、乗り越えなきゃいけねぇんだって、わかってるんだけどね」

呟く声、今度はカモメの声が上手く消してくれた。けれどいつの間にかクザンの背に腕を回して、横乗りになっていたには聞こえたかもしれない。着込んだ服の上からでも、の体温と感触がわかる。は落ちたくないのか、それともまた別の理由か、クザンの身体に手を回し、服をぎゅっと掴む。

「そういうのは、出来るひとがすればいいんだよ。しなきゃいけない、なんて法律ないよ」
「でもさ、俺、大将になっちまったしさ。やっぱり、マズイっしょ。いつまでも、海軍裏切ったヤツのこと、引きずってちゃさ」

誤魔化すように軽く笑えばの額がクザンの背中に押し付けられた。そのまま何を言うわけでもなく、とクザン、海の上を進んでいく。イルカはまだ見えない。イルカの見えるスポットをしっかりチェックしておけばよかったけれど、バタバタして出てきてしまったので、そんなものを準備しているヒマはなかった。

「酷いこと、聞いていいか?」

自転車を漕ぎながら、クザンはそういえば自分はどこに行こうとしているんだろうかと首を傾げる。とデート、と言葉で言いはしたものの、本部からそう離れるつもりはなかった。あまり離れればがサカズキに蹴られるとわかっていたし、クザン当人、あまり本部を離れて良い身分でもないと、その程度の自覚はある。だがしかし、まぁ、唐突な理由でこうして飛び出してしまったわけだ。どこへ向かっているのかも考えずここまで来てしまったと、今更ながらに気付く。

「なぁに」
ちゃんはさ、どうしても忘れられない悲しいことって、どうやって忘れる?」
「クザンくん、酷いことを聞くんだねぇ」
「前置きしたでショ」

自覚はあっただけに、気まずくなって声を明るくする。の表情は見えないが、若干、まわされた腕に力が篭った。

「サウロくんが死んで悲しい?」
「直球だね、ちゃん。仕返し?」
「直球なら『サウロくんを殺して苦しい?』って聞くよ」

あぁ、なるほど、まだ優しさが感じられるね、とクザンは嫌味ではないが、聊か眉をひそめて言い返し、が息を吐いた。

「乗り越えようとしているの?」
「毎年ね。この日になると、思い出しちまうんだ」
「ぼくがサカズキに捕まったのも今日だものね」

懐かしいとが声を低くした。あの日にあんなことがなければ、今頃クザンも、もここにはいない。それをお互いじっくり実感し、そしてが面白そうに声を弾ませる。

「振舞うことは別として、乗り越えられる人の死なんてないよ」
「明るく言うところ?それ」
「泣いていって欲しいのかい?」

は鈴を転がすように笑って、ぎゅっと、一層強くクザンの腹を締め付けた。酷いことをしてしまった、とクザンはなぜか罪悪感に襲われる。何か言おうと口を開きかけるが、その前に、が言葉を続けた。

「悲しいこととかね、苦しいこととか、いやなこととか、あったらさ。心の中に箱を作るんだよ」
「箱?」
「そう、箱。その中に嫌なこととか、全部入れて、鎖でがんじがらめにしてしまうの。絶対に出てこないようにね」

箱、とも繰り返して、頷く。バシャリと近くで魚が跳ねた。イルカにはまだ遭遇できない。

「長く生きてると、いっぱい箱が必要になるけど、入れておけば、見ずにすむんだよ」
「それって、逃げてるって言わない?」

の提案にクザンは眉を寄せる。の過去をクザンは知っているわけではない。けれど随分と長い時間を生きていたら、きっと人の死も多く見ただろうし、とて昔から今のような性格だったわけでもないだろう。それだから、人生のアドバイス、とそんな意味で、いや、あるいは、サウロのことを自分だけでは消化しきれないことがいい加減に嫌で、誰かに、何か聞いてほしかったのか。

「そう思うのなら、しないほうがいいよ。自分に後ろめたさを感じたら、箱はすぐに開けられてしまうから」

クザンは頭の中に、の言う箱を思い浮かべた。自分の箱、ではなくて、の中にあるだろう箱だ。たくさんの、鎖で雁字搦めになった箱が、の周りにたくさん落ちている。そんな光景が浮かぶ。箱は時折カタカタと音を立てて自己主張をするけれど、はそのたびに、耳を塞ぎ、目を閉じるのだろう。

サウロのことを、乗り越えなければとクザンは時折、焦る。自分でしたことだ。自分が、こうと決めたことだ。それなのに、なぜいつまでも「どうして!」と思って、叫び、眼を覚ましてしまう夜があった。弱いと、いう部類に、己の状態は入るのだとわかっている。サカズキやボルサリーノであれば、絶対にこうはならないのだろう。それがわかるから、クザンも、早くサウロのことを自分の中で消化しなければならないと、そう、思っているのに。

「箱に入れておくのって、無かったことにしようとしてない?」

の方法は卑怯な気がした。眉を寄せると、が「そうだね」と笑う。カタカタと、クザンの腹に回された腕が震えていた。クザンはサウロのことを、なかったことにはできない、と強く言い、そしてまたは「そうだね」と呟く。ぎゅっと頭を押し付けられれ、クザンは鳩尾が苦しくなった。イルカが出てくれればは笑うだろうに、まだイルカは出てこない。

クザンは気まずくなって、それ以上何か言うのを止めた。なぜにそんなことを聞いてしまったのか、と自分を責める。

「クザンくんはさ、たぶん、何にも悪くないよ」

何かバカなことでも話してを笑わせなければ、と妙に焦る心、しかし何も浮かんでこないで、さらに焦っているクザンに、の、いつもと同じ声音で言葉がかかる。なぜだかクザンはその声にほっとして、汗ばんだ手を動かした。けれど何に対してがそう言っているのか、その見当はつかない。









Fin


リハビリ目的で書いたのでヤマもオチもないです。